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50.『真紅』(2)
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「っ」
普通ならばいくらかは必ず抵抗のあるものを、一気に意識がカークに呑み込まれる。ぎょっとする間もなく、次の瞬間感覚全てを圧倒する濃厚な血の臭いに襲われる。
何、これ。
視界は真紅だった。
空間に血が飛び散っているのではない。もっと生々しく、もっとどろりと粘度の高い、まるでこれでは血液の中を泳いでいるような状態、バーンが持っていた鮮紅色に染まったガラスの鎖のイメージなど微塵もない。
黒光りする金属の飾りはどうなったのかと思ってみれば、時々微かにそれらしいものがぷかぷかと真紅の闇に漂っていく。しかし、それさえもぬらつく紅の液体に腐食されるように崩れかけていて、今にも形をなくしてしまいそうだ。
紋章がなくなっている?
「カークさん、あなた」
正気じゃないの?
そうだ、とライヤーは気がついた。
カークの紋章はもうこの血の海に蕩けて同化してしまっている。わずかに顔を見せる黒い金属の欠片、幻のように煌めいて消えていくガラス片、それらはカークという存在の残骸でしかない。
どぶり、と血が脈打った。
明確な悪意と殺意。
自らを果てしなく食い尽していこうとする激しい憎しみ。
カークは自分を憎んでいるのだ、この世界の誰よりも深く。
今ライヤーがこの海に呑み込まれ攻撃されないのは、ライヤーがカークを救おうなどとは露ほども考えていないからだ。カークを破壊しに来たことが届いているから、むしろ歓迎されてこの世界を見せられている。
これでは、もう遠くない先に、カークを抱けるものなどいなくなるだろう。たとえ満たされなくても、一瞬なりとカークは抱かれて生気を取り戻すはず、しかし、それはこの海の望むところではないだろうから、立ち上る濃厚な死の気配はカークから人を遠ざけるだろう。
そしてまた、体を保たせるために飲み食いすることもできなくなるはずだ。この海が望んでいるのは、カークという存在の抹殺に他ならないから。
放っておいても『塔京』のカークは、オウライカを『斎京』に追い詰めた男は、自らに喰われて消えていく。
限界だな。
さすがのライヤーもそれ以上そこに浸っていられなくて、意識の触手を引き上げる。
同時に合わせていた唇を離すと、ことりとカークが頭を落としてもたれてくる。茫洋とした瞳は何も映していない。虚ろで静かで、不安定な呼吸がなければ、そのまま死んでいるようにも見える。
「カークさん?」
「………死ね…ない……」
掠れた声が零れた。
淡い微笑が広がって、瞬きした瞳から新しい涙が溢れる。
「まだ……死ねない……のか」
「死にたいの?」
「………うん」
舌足らずな口調で頷いたのは、それでもライヤーが多少は紋章を掴んでいたせいか。
「殺してあげましょうか」
「……え…?」
「僕は『斎京』から来た刺客で、あなたを殺しにやってきたとしたら?」
「オウライカ……さんが?」
涙で汚れて髪を乱した幼い顔にふいに弾けるような喜びが広がった。
「私を殺してくれるのか…?」
見上げてくる瞳に光が戻る。艶やかなほど嬉しそうな笑みを満たしてライヤーを見つめる。
「……殺して…くれ…」
甘えた声でねだった。
「私を…殺してくれ」
待っていたんだ、ずっと、ずっと待っていたんだ、あなたが迎えに来てくれるのを。
掠れた声で呟きながら、胸の中に潜り込んでくる。
もう私は保てない、あなたが来る前に狂ってしまう、それがどれほど怖かったか。せめてその前に一目でいいから、あなたに会いたいと、どれほど強く願っていたか。
「オウライカさん…っ」
きつくしがみついてくる、熱い息を吐きながら震えている姿にふいに気付いた。
カークは、もうとっくに壊れていて、今動いているのは残骸だけなのだ。そしてそれさえもぼつぼつ形を保てなくなっていて、唯一引き止めていたのが、いつかオウライカが戻ってくるかもしれない、最後に一瞬でも会えるかもしれないという期待だったのだ。
だがその幻が、ライヤーの蝶で一気に崩れた。
オウライカは来ない。
もう二度とオウライカに会えない。
そう、カークは確信した。
そうして、カークは自分の中の真紅の闇に溺れて沈み込んでしまった。
あれほど綺麗だった紋章。
こんなにぐずぐずに崩してまでオウライカさんを待っていたのか。
一瞬ライヤーの胸を切ない疼きが走り抜けた。
これほど全てを賭けて望まれるのは、一体どんな気持ちだろう。
わかりました、とライヤーはカークを抱き締める。
「その代わり」
あなたは僕の言うことをちゃんと聞かなくちゃいけないんですよ、そう続けると、カークはこくんと頷いた。ライヤーの胸に耳を当て、その鼓動に誘われるように目を閉じ、やがて静かな寝息をたて始めた。
普通ならばいくらかは必ず抵抗のあるものを、一気に意識がカークに呑み込まれる。ぎょっとする間もなく、次の瞬間感覚全てを圧倒する濃厚な血の臭いに襲われる。
何、これ。
視界は真紅だった。
空間に血が飛び散っているのではない。もっと生々しく、もっとどろりと粘度の高い、まるでこれでは血液の中を泳いでいるような状態、バーンが持っていた鮮紅色に染まったガラスの鎖のイメージなど微塵もない。
黒光りする金属の飾りはどうなったのかと思ってみれば、時々微かにそれらしいものがぷかぷかと真紅の闇に漂っていく。しかし、それさえもぬらつく紅の液体に腐食されるように崩れかけていて、今にも形をなくしてしまいそうだ。
紋章がなくなっている?
「カークさん、あなた」
正気じゃないの?
そうだ、とライヤーは気がついた。
カークの紋章はもうこの血の海に蕩けて同化してしまっている。わずかに顔を見せる黒い金属の欠片、幻のように煌めいて消えていくガラス片、それらはカークという存在の残骸でしかない。
どぶり、と血が脈打った。
明確な悪意と殺意。
自らを果てしなく食い尽していこうとする激しい憎しみ。
カークは自分を憎んでいるのだ、この世界の誰よりも深く。
今ライヤーがこの海に呑み込まれ攻撃されないのは、ライヤーがカークを救おうなどとは露ほども考えていないからだ。カークを破壊しに来たことが届いているから、むしろ歓迎されてこの世界を見せられている。
これでは、もう遠くない先に、カークを抱けるものなどいなくなるだろう。たとえ満たされなくても、一瞬なりとカークは抱かれて生気を取り戻すはず、しかし、それはこの海の望むところではないだろうから、立ち上る濃厚な死の気配はカークから人を遠ざけるだろう。
そしてまた、体を保たせるために飲み食いすることもできなくなるはずだ。この海が望んでいるのは、カークという存在の抹殺に他ならないから。
放っておいても『塔京』のカークは、オウライカを『斎京』に追い詰めた男は、自らに喰われて消えていく。
限界だな。
さすがのライヤーもそれ以上そこに浸っていられなくて、意識の触手を引き上げる。
同時に合わせていた唇を離すと、ことりとカークが頭を落としてもたれてくる。茫洋とした瞳は何も映していない。虚ろで静かで、不安定な呼吸がなければ、そのまま死んでいるようにも見える。
「カークさん?」
「………死ね…ない……」
掠れた声が零れた。
淡い微笑が広がって、瞬きした瞳から新しい涙が溢れる。
「まだ……死ねない……のか」
「死にたいの?」
「………うん」
舌足らずな口調で頷いたのは、それでもライヤーが多少は紋章を掴んでいたせいか。
「殺してあげましょうか」
「……え…?」
「僕は『斎京』から来た刺客で、あなたを殺しにやってきたとしたら?」
「オウライカ……さんが?」
涙で汚れて髪を乱した幼い顔にふいに弾けるような喜びが広がった。
「私を殺してくれるのか…?」
見上げてくる瞳に光が戻る。艶やかなほど嬉しそうな笑みを満たしてライヤーを見つめる。
「……殺して…くれ…」
甘えた声でねだった。
「私を…殺してくれ」
待っていたんだ、ずっと、ずっと待っていたんだ、あなたが迎えに来てくれるのを。
掠れた声で呟きながら、胸の中に潜り込んでくる。
もう私は保てない、あなたが来る前に狂ってしまう、それがどれほど怖かったか。せめてその前に一目でいいから、あなたに会いたいと、どれほど強く願っていたか。
「オウライカさん…っ」
きつくしがみついてくる、熱い息を吐きながら震えている姿にふいに気付いた。
カークは、もうとっくに壊れていて、今動いているのは残骸だけなのだ。そしてそれさえもぼつぼつ形を保てなくなっていて、唯一引き止めていたのが、いつかオウライカが戻ってくるかもしれない、最後に一瞬でも会えるかもしれないという期待だったのだ。
だがその幻が、ライヤーの蝶で一気に崩れた。
オウライカは来ない。
もう二度とオウライカに会えない。
そう、カークは確信した。
そうして、カークは自分の中の真紅の闇に溺れて沈み込んでしまった。
あれほど綺麗だった紋章。
こんなにぐずぐずに崩してまでオウライカさんを待っていたのか。
一瞬ライヤーの胸を切ない疼きが走り抜けた。
これほど全てを賭けて望まれるのは、一体どんな気持ちだろう。
わかりました、とライヤーはカークを抱き締める。
「その代わり」
あなたは僕の言うことをちゃんと聞かなくちゃいけないんですよ、そう続けると、カークはこくんと頷いた。ライヤーの胸に耳を当て、その鼓動に誘われるように目を閉じ、やがて静かな寝息をたて始めた。
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