『ドリーム・ウォーカー』

segakiyui

文字の大きさ
13 / 48

4.虹の向こうの雨(1)

しおりを挟む
「休みたいな」
 朝食の席で呟いたとたん、空気がぴりっと緊張したのがわかった。
「休みたいって……どうして」
 母さんが世にも不思議なことを聞いた、というように、こちらを向く。
 正面に座っている父さんの顔は、広げた新聞の向こうに隠れて見えない。
「うん…」
 僕はわけもなく前髪をいじりながら、ぼんやりと食卓の上を見た。
 湯気をたてている白いご飯、ねぎとあげのみそ汁、ガラス食器に彩りよく盛られた生野菜、焼き上がったばかりのベーコンエッグ。箸置きにきちんとそろえられた汚れ一つない箸と、番茶の入っている湯飲み。
 何もかもきちんとして、何もかもそろった理想の朝食。
「具合でも悪いのか」
 新聞の向こうから、父さんの声がした。
 聞こえてたんだ。
 そう思って、吐息をつく。
「頭が……痛い気がして」
 きりりりりっ。
 そんな音をたてて、周囲の空気が絞り上げられていくのがわかる。ああ、きてるな、ぼんやりとそう思ったけど、今日はそれを消そうと慌てる気になれなかった。
「食べないの?」
 唐突に母さんが言った。
 僕はどこかぽかんとして、母さんを見た。
 頭が痛いって、言わなかったっけ?
 自分のことばを頭の中で繰り返して考えてみる。
 僕は、頭が痛いって言ったんじゃなかったっけ?
 なのに、どうして、その答えが、食べないの、なんだろう?
「ベーコンエッグがほしいって言ったの、和樹なのに」
 母さんがじっと僕を見つめながら、とてもとてもいぶかしそうに続けた。
 僕は、どう答えたらいいのかわからなくなって、父さんを見た。だけど、父さんは、まるで、僕と話していたのは別人だったみたいに黙りこくって、新聞の陰に消えている。
「和樹はパンがよかったんだよ」
 都おばあちゃんが突然口を挟んだ。
「誰にだって好みがあるんだから、もう少し考えてやらなきゃ」
 いかにも僕のことを気遣っているふうで、母さんを見る。
「和樹はベーコンエッグが欲しいって言ったんです。それに、朝からパンなんて、この年ごろの子のお腹はもちませんよ」
 母さんが跳ね返った油みたいに答えて、きつく唇を引き締め、僕を睨みつけて、都おばあちゃんから目を背けた。
「さて、行くか」
 父さんが立ち上がって新聞を畳み、僕には目もくれず席を立って、隣を過ぎていく。
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
 母さんと都おばあちゃんが応じて、母さんは見送りに玄関までついていった。やっぱり僕の方はちらりとも見ない。
「あたしはね、こういうのは苦手だね」
 都おばあちゃんは僕の皿の上のものを見てつぶやき、みそ汁の椀を手に取った。
「まあ、若い人はいるんだろうけどね、臭いでもう胸が一杯になるよ。朝からこってりしたものを、そうそうは食べられないよ、いくら好みがあるといってもね」
 僕は箸を取り上げた。
 頭がどんどん痛くなってくる気がしたけど、気のせいなのかもしれない。母さんにベーコンエッグが欲しいなんて、言ったことがないような気がするのと同じように。明日の朝食はと聞かれて、トーストが食べたいと言って、母さんがそうするわ、と答えたような気がするのと同じように。
 間違っているのは僕の記憶で、母さんがごまかしたり、忘れたりしたんじゃないんだろう、きっと。
 父さんの見送りに立っていた母さんが戻って来て、僕を見た。
「あら、食べるの。食べにくそうだったから、別のを作ってあげようかと思ってたのに」
「パン?」
 ついそう口走って、次の瞬間、すうっと母さんの顔に血の色が昇った。目が険しくなり、口元がゆがむ。それでも、母さんは爆発はしなかった。
「……パンがよかったの?」
 ひいやりとした、凍った声。
 都おばあちゃんは我関せずという顔で、黙々とご飯を食べている。けれども、その唇がわずかに軽く笑ったように見えた。
 僕は慌てて首を振った。
「ううん、ご飯でいい」
「……じゃあ、なんで食べないの」
 事件の容疑者になったみたいに詰問されて、僕は黙った。
「和樹は頭が痛いって言ってたんだよ」
 また都おばあちゃんがしらっとした調子でつぶやいて、芝居がかったゆっくりとした動作で母さんを見た。
「ごちそうさま。おいしいみそ汁だったよ」
 空になった茶椀と箸をまとめた都おばあちゃんが、半分以上残したみそ汁の椀を残して席を立つ。
「まだ、痛いの」
 それを横目に見た母さんがゆっくりと僕に視線を戻して尋ねた。表情のない、僕を見つめたリカのような、真っ暗な目。
「え…あ…」
 僕が口ごもると、母さんは荒々しく、都おばあちゃんの残したみそ汁を流しに捨てた。それから、戸棚から薬箱を出して、頭痛薬と水の入ったコップを食卓の上に置き、振り返りもしないで部屋を出て行った。
 僕はご飯茶椀を左手に、箸を右手に持ったまま、ぼんやりと座り続けていた。
 食卓には相変わらず湯気をたてているみそ汁とベーコンエッグ、よく冷やされて汗をかき始めたガラス食器のサラダがある。
 栄養満点でバランスがよく、食べごろに温度も考えられて、きれいで整ってて美しくて。
 でも、誰も、いない。
「春日…」
 どこか遠いところで声がつぶやいた。
「何か、まずいや…」
 二階では母さんが掃除機をかけ始めている。ふすまの向こうで、聞こえよがしに都おばあちゃんが咳払いをして「まあ、こんな時間から、何だろうね」とつぶやいた。
 その声に重なるように、
「僕……ぼちぼち……まずいよ」
 それが自分の声だと気づいて、僕はぎょっとした。そのとたん、ぱたたっ、と音がして、頬を滑り落ちたものが、制服の膝に染みをつくった。それを僕はまじまじと見た。
 涙……涙、だって?
 僕は朝ご飯を食べながら泣いている?
 手に負えなくなってきている、そう思った。
 何がって? 
 もちろん、僕自身が。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...