『ドリーム・ウォーカー』

segakiyui

文字の大きさ
45 / 48

12.グラン・ブルー(1)

しおりを挟む
 春日ならきっと逃げられる。
 飛び乗った電車の窓の外を見ながら考える。
 リカから話を聞いたときに、朗が自分を探しているとわかったはずだ。何のために探しているかもわかったはずだ。
 だからいくらでも逃げられる。
 けれど、僕には、春日は逃げていないように思えた。
 あの坂の上の家で、あの明るいダイニングで、朗をじっと待っている。朗を受け止めるために。朗にはもう何もなくなってしまったから。
 守るものも、未来も何も。
 だから、春日は朗を待っている。
 遅い。遅い。
 唇を噛んで目を閉じる。
 電車って、こんなに遅かったのか。
 『南高杉』のアナウンスを聞く前に、僕は開きかけたドアから転がり出た。改札の狭い通路を蹴り抜けるように走りだす。
 頼むから、頼むから、無事でいてくれ。
 このまま、また、消えてしまわないでくれ。
 胸の中でつぶやいてぎょっとする。
 また? そう、まただ。
 間髪いれずに、もう一つの声が応じた。
 僕は一度春日を失っている。
 坂を一気に駆け上がる。吐いたり寝込んだりして体力が落ちているのがよくわかった。必死に上げ下げする足が、何度も地面にひっかかる。
 『あのとき』もこうして走り上がった。
 海の近くの小道を山門へ向かった。
 最後によしの見たさに山をおり、よしのをののしり、挙句の果てに追っ手に追われて海に落ちた、と思っていた。
 だが、それは違っていたのだ。

 追っ手はもう俺を追わなかった。あのクソ坊主を追え、と田島が命じたのだ。あいつが余分な知恵を授けたのだろうと。
 岬へ追い詰められ右手を切られて竦んだ俺に背を見せて、追っ手は山門を目指した。
 俺を救わなかったからだ、ざまあみろ。そう思ったのに、いつの間にか、追っ手の後を追いかけていた。心の中で繰り返していた。
 やめてくれ。どうか頼む、やめてくれ。
 本当は俺も知っていた。
 僧が俺を案じていてくれたことを。
 だからこそ、なじり噛みつき責めたのだ。俺は僧に甘えたのだ。

 春日の家の周囲の緑が、海近くの小道とだぶって見えた。胸が轟き、拍動で視界が揺れて、坂の上が見極められない。
 目をこらしながら駆け上がった。
 今度はそこには誰もいなかった。あたりも静まり返っている。春日の家も静かなものだ。
 あれほど来るのを恐れていたのに、僕は『春日』の表札を確かめる間さえ惜しくて、ベルを鳴らした。その手に、気がつくとまた血がにじんでいた。ほとんど治りつつあった右手の傷がなぜ急に開いたのか、バンドエイドがみるみる真っ赤に染まっていく。
 ベルに応答はない。
 不吉な思いが胸を締めた。
「春日!」
 門扉を激しく揺らして、僕はベルを何度も押した。
「春日あ!」
 頼むから。頼むから。頼むから。
 でも、一体誰に?
 茶色のドアが唐突に開いた。ほっとしたのもつかの間、道斗さんが険しい表情で顔を出して立ち竦む。
「伊織がおらん」
「朗が来たんだ」
 側から、実がひょいと顔を出した。額にガーゼが当てられている。
「あいつ、ヤバイよ、逃げてんだ。いきなり襲ってきやがった」
「どこに!」
 僕は叫んだ。
「どこに行ったんだ!」
「わかんない。けど、この先に公園があるんだ、人もあんまり来ない」
「公園だな!」
 僕は実が指さした小道に飛び込んだ。茂みに覆われ人の往来もないのだろうが、抜けるとすぐに公園にたどりついた。
「春日?」
 人の気配はない。でも、ブランコがわずかに揺れている。まるで、そこを誰かがあわてて擦り抜けたみたいに。
 その先の植え込みの緑が、風とは違う揺れ方をした。
「そこか!」
 微かな声がした。
 悲鳴。
 痛みに耐えかねたような。
「春日!」
 駆け出す僕の頭の中に、鮮やかな映像が流れ込んできた。
 山門の下に仁王立ちでいる僧。それになだれかかる荒くれ男達。
「う、わ、あ、ああああ」
 頭の中の俺が叫ぶのと、現実に僕がわめくのがシンクロしている。
 目の前、公園の出口近くで、同じように切れ切れの声を上げながら、片手に余るほど大きなナイフを振り上げている朗がいた。
「わ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
 傷を負い追い詰められた獣の声。朗は泣いている。顔中を口にして、だらだらと汗だか涙だかに塗れて、泣き叫びながら春日に突っ込んでいく。
 その顔が、怖いんだ、と言っていた。春日が怖くてたまらないんだ、と。春日の目が。すべてを見通すその目が。
 春日の目は突きつけてくる。
 見たくない自分、気づきたくない自分。
 同じだ、朗。
 僕と朗は同じなんだ。
 春日が陽炎のように儚く見えた。あのナイフに切り裂かれて、血肉の塊になって転がっていくのが見えた気がした。
 まっすぐな瞳が見つめている。襲いかかってくる朗を。逃げもしないで見続けている。いつかの僧のように。
 悲鳴を上げている朗を、無言のまま待っている。
 何ももう考えられなかった。
 走って二人の間に突っ込んだとき、朗のナイフがしゅるしゅる音をたてる蛇のように僕に吸い寄せられてきた。防御一つもしていない、空っぽの腹へ。
 ああ、刺されるんだ。
 思った次の瞬間、激しい力で一方に引き寄せられた。たたらを踏み、春日の方へのめる。あいた隙間に、真空に物質が吸い込まれるように春日の体が滑り込む。
 くうっ、とうなりが聞こえた。振り返る、僕の前で春日が崩れる。赤いしぶきを散らして。
 朗の顔がゆがんでいる。振り上げたナイフから散った血が、一粒一粒空を舞うのさえ見えた。
 春日の体は沈んでいく、果てのない闇へ。
 あの日と同じ、『死』へ向けて。
「朗あっっ!!」
 カチッ、と僕の体の中で何かが鳴った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...