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12.グラン・ブルー(1)
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春日ならきっと逃げられる。
飛び乗った電車の窓の外を見ながら考える。
リカから話を聞いたときに、朗が自分を探しているとわかったはずだ。何のために探しているかもわかったはずだ。
だからいくらでも逃げられる。
けれど、僕には、春日は逃げていないように思えた。
あの坂の上の家で、あの明るいダイニングで、朗をじっと待っている。朗を受け止めるために。朗にはもう何もなくなってしまったから。
守るものも、未来も何も。
だから、春日は朗を待っている。
遅い。遅い。
唇を噛んで目を閉じる。
電車って、こんなに遅かったのか。
『南高杉』のアナウンスを聞く前に、僕は開きかけたドアから転がり出た。改札の狭い通路を蹴り抜けるように走りだす。
頼むから、頼むから、無事でいてくれ。
このまま、また、消えてしまわないでくれ。
胸の中でつぶやいてぎょっとする。
また? そう、まただ。
間髪いれずに、もう一つの声が応じた。
僕は一度春日を失っている。
坂を一気に駆け上がる。吐いたり寝込んだりして体力が落ちているのがよくわかった。必死に上げ下げする足が、何度も地面にひっかかる。
『あのとき』もこうして走り上がった。
海の近くの小道を山門へ向かった。
最後によしの見たさに山をおり、よしのをののしり、挙句の果てに追っ手に追われて海に落ちた、と思っていた。
だが、それは違っていたのだ。
追っ手はもう俺を追わなかった。あのクソ坊主を追え、と田島が命じたのだ。あいつが余分な知恵を授けたのだろうと。
岬へ追い詰められ右手を切られて竦んだ俺に背を見せて、追っ手は山門を目指した。
俺を救わなかったからだ、ざまあみろ。そう思ったのに、いつの間にか、追っ手の後を追いかけていた。心の中で繰り返していた。
やめてくれ。どうか頼む、やめてくれ。
本当は俺も知っていた。
僧が俺を案じていてくれたことを。
だからこそ、なじり噛みつき責めたのだ。俺は僧に甘えたのだ。
春日の家の周囲の緑が、海近くの小道とだぶって見えた。胸が轟き、拍動で視界が揺れて、坂の上が見極められない。
目をこらしながら駆け上がった。
今度はそこには誰もいなかった。あたりも静まり返っている。春日の家も静かなものだ。
あれほど来るのを恐れていたのに、僕は『春日』の表札を確かめる間さえ惜しくて、ベルを鳴らした。その手に、気がつくとまた血がにじんでいた。ほとんど治りつつあった右手の傷がなぜ急に開いたのか、バンドエイドがみるみる真っ赤に染まっていく。
ベルに応答はない。
不吉な思いが胸を締めた。
「春日!」
門扉を激しく揺らして、僕はベルを何度も押した。
「春日あ!」
頼むから。頼むから。頼むから。
でも、一体誰に?
茶色のドアが唐突に開いた。ほっとしたのもつかの間、道斗さんが険しい表情で顔を出して立ち竦む。
「伊織がおらん」
「朗が来たんだ」
側から、実がひょいと顔を出した。額にガーゼが当てられている。
「あいつ、ヤバイよ、逃げてんだ。いきなり襲ってきやがった」
「どこに!」
僕は叫んだ。
「どこに行ったんだ!」
「わかんない。けど、この先に公園があるんだ、人もあんまり来ない」
「公園だな!」
僕は実が指さした小道に飛び込んだ。茂みに覆われ人の往来もないのだろうが、抜けるとすぐに公園にたどりついた。
「春日?」
人の気配はない。でも、ブランコがわずかに揺れている。まるで、そこを誰かがあわてて擦り抜けたみたいに。
その先の植え込みの緑が、風とは違う揺れ方をした。
「そこか!」
微かな声がした。
悲鳴。
痛みに耐えかねたような。
「春日!」
駆け出す僕の頭の中に、鮮やかな映像が流れ込んできた。
山門の下に仁王立ちでいる僧。それになだれかかる荒くれ男達。
「う、わ、あ、ああああ」
頭の中の俺が叫ぶのと、現実に僕がわめくのがシンクロしている。
目の前、公園の出口近くで、同じように切れ切れの声を上げながら、片手に余るほど大きなナイフを振り上げている朗がいた。
「わ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
傷を負い追い詰められた獣の声。朗は泣いている。顔中を口にして、だらだらと汗だか涙だかに塗れて、泣き叫びながら春日に突っ込んでいく。
その顔が、怖いんだ、と言っていた。春日が怖くてたまらないんだ、と。春日の目が。すべてを見通すその目が。
春日の目は突きつけてくる。
見たくない自分、気づきたくない自分。
同じだ、朗。
僕と朗は同じなんだ。
春日が陽炎のように儚く見えた。あのナイフに切り裂かれて、血肉の塊になって転がっていくのが見えた気がした。
まっすぐな瞳が見つめている。襲いかかってくる朗を。逃げもしないで見続けている。いつかの僧のように。
悲鳴を上げている朗を、無言のまま待っている。
何ももう考えられなかった。
走って二人の間に突っ込んだとき、朗のナイフがしゅるしゅる音をたてる蛇のように僕に吸い寄せられてきた。防御一つもしていない、空っぽの腹へ。
ああ、刺されるんだ。
思った次の瞬間、激しい力で一方に引き寄せられた。たたらを踏み、春日の方へのめる。あいた隙間に、真空に物質が吸い込まれるように春日の体が滑り込む。
くうっ、とうなりが聞こえた。振り返る、僕の前で春日が崩れる。赤いしぶきを散らして。
朗の顔がゆがんでいる。振り上げたナイフから散った血が、一粒一粒空を舞うのさえ見えた。
春日の体は沈んでいく、果てのない闇へ。
あの日と同じ、『死』へ向けて。
「朗あっっ!!」
カチッ、と僕の体の中で何かが鳴った。
飛び乗った電車の窓の外を見ながら考える。
リカから話を聞いたときに、朗が自分を探しているとわかったはずだ。何のために探しているかもわかったはずだ。
だからいくらでも逃げられる。
けれど、僕には、春日は逃げていないように思えた。
あの坂の上の家で、あの明るいダイニングで、朗をじっと待っている。朗を受け止めるために。朗にはもう何もなくなってしまったから。
守るものも、未来も何も。
だから、春日は朗を待っている。
遅い。遅い。
唇を噛んで目を閉じる。
電車って、こんなに遅かったのか。
『南高杉』のアナウンスを聞く前に、僕は開きかけたドアから転がり出た。改札の狭い通路を蹴り抜けるように走りだす。
頼むから、頼むから、無事でいてくれ。
このまま、また、消えてしまわないでくれ。
胸の中でつぶやいてぎょっとする。
また? そう、まただ。
間髪いれずに、もう一つの声が応じた。
僕は一度春日を失っている。
坂を一気に駆け上がる。吐いたり寝込んだりして体力が落ちているのがよくわかった。必死に上げ下げする足が、何度も地面にひっかかる。
『あのとき』もこうして走り上がった。
海の近くの小道を山門へ向かった。
最後によしの見たさに山をおり、よしのをののしり、挙句の果てに追っ手に追われて海に落ちた、と思っていた。
だが、それは違っていたのだ。
追っ手はもう俺を追わなかった。あのクソ坊主を追え、と田島が命じたのだ。あいつが余分な知恵を授けたのだろうと。
岬へ追い詰められ右手を切られて竦んだ俺に背を見せて、追っ手は山門を目指した。
俺を救わなかったからだ、ざまあみろ。そう思ったのに、いつの間にか、追っ手の後を追いかけていた。心の中で繰り返していた。
やめてくれ。どうか頼む、やめてくれ。
本当は俺も知っていた。
僧が俺を案じていてくれたことを。
だからこそ、なじり噛みつき責めたのだ。俺は僧に甘えたのだ。
春日の家の周囲の緑が、海近くの小道とだぶって見えた。胸が轟き、拍動で視界が揺れて、坂の上が見極められない。
目をこらしながら駆け上がった。
今度はそこには誰もいなかった。あたりも静まり返っている。春日の家も静かなものだ。
あれほど来るのを恐れていたのに、僕は『春日』の表札を確かめる間さえ惜しくて、ベルを鳴らした。その手に、気がつくとまた血がにじんでいた。ほとんど治りつつあった右手の傷がなぜ急に開いたのか、バンドエイドがみるみる真っ赤に染まっていく。
ベルに応答はない。
不吉な思いが胸を締めた。
「春日!」
門扉を激しく揺らして、僕はベルを何度も押した。
「春日あ!」
頼むから。頼むから。頼むから。
でも、一体誰に?
茶色のドアが唐突に開いた。ほっとしたのもつかの間、道斗さんが険しい表情で顔を出して立ち竦む。
「伊織がおらん」
「朗が来たんだ」
側から、実がひょいと顔を出した。額にガーゼが当てられている。
「あいつ、ヤバイよ、逃げてんだ。いきなり襲ってきやがった」
「どこに!」
僕は叫んだ。
「どこに行ったんだ!」
「わかんない。けど、この先に公園があるんだ、人もあんまり来ない」
「公園だな!」
僕は実が指さした小道に飛び込んだ。茂みに覆われ人の往来もないのだろうが、抜けるとすぐに公園にたどりついた。
「春日?」
人の気配はない。でも、ブランコがわずかに揺れている。まるで、そこを誰かがあわてて擦り抜けたみたいに。
その先の植え込みの緑が、風とは違う揺れ方をした。
「そこか!」
微かな声がした。
悲鳴。
痛みに耐えかねたような。
「春日!」
駆け出す僕の頭の中に、鮮やかな映像が流れ込んできた。
山門の下に仁王立ちでいる僧。それになだれかかる荒くれ男達。
「う、わ、あ、ああああ」
頭の中の俺が叫ぶのと、現実に僕がわめくのがシンクロしている。
目の前、公園の出口近くで、同じように切れ切れの声を上げながら、片手に余るほど大きなナイフを振り上げている朗がいた。
「わ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
傷を負い追い詰められた獣の声。朗は泣いている。顔中を口にして、だらだらと汗だか涙だかに塗れて、泣き叫びながら春日に突っ込んでいく。
その顔が、怖いんだ、と言っていた。春日が怖くてたまらないんだ、と。春日の目が。すべてを見通すその目が。
春日の目は突きつけてくる。
見たくない自分、気づきたくない自分。
同じだ、朗。
僕と朗は同じなんだ。
春日が陽炎のように儚く見えた。あのナイフに切り裂かれて、血肉の塊になって転がっていくのが見えた気がした。
まっすぐな瞳が見つめている。襲いかかってくる朗を。逃げもしないで見続けている。いつかの僧のように。
悲鳴を上げている朗を、無言のまま待っている。
何ももう考えられなかった。
走って二人の間に突っ込んだとき、朗のナイフがしゅるしゅる音をたてる蛇のように僕に吸い寄せられてきた。防御一つもしていない、空っぽの腹へ。
ああ、刺されるんだ。
思った次の瞬間、激しい力で一方に引き寄せられた。たたらを踏み、春日の方へのめる。あいた隙間に、真空に物質が吸い込まれるように春日の体が滑り込む。
くうっ、とうなりが聞こえた。振り返る、僕の前で春日が崩れる。赤いしぶきを散らして。
朗の顔がゆがんでいる。振り上げたナイフから散った血が、一粒一粒空を舞うのさえ見えた。
春日の体は沈んでいく、果てのない闇へ。
あの日と同じ、『死』へ向けて。
「朗あっっ!!」
カチッ、と僕の体の中で何かが鳴った。
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