『俺の死んだ日』〜『猫たちの時間』8〜

segakiyui

文字の大きさ
23 / 31

7.万里子(1)

しおりを挟む
「ん…」
 ざらざらとした感触のものが頬に触れている。それは異様に生温かくねっとりしていて、そのくせ、ひどく器用に俺の頬の表面を滑っている。ぼんやり目を開けると、突然、視界にくわっと開いた、世にも恐ろしげな真っ赤な口が広がった。
「どわっ!! つっ!」
 思わず喚いて跳ね起きた俺は、頭の中を駆け抜けた痛みに眉をしかめた。そろそろと右手を挙げ、こめかみ近くの側頭部に触れてみると、ざりっとした感触があった。どうやら殴られたところから、ちょっと出血したらしい。
「ここは…」
「にゃん」
「え?」
 のろのろ辺りを見回しかけた俺は、猫の声にぎょっとして視線を向けた。
「ルト…か?」
「にゃあん」
 どこかの建物の一室らしい殺風景なコンクリートの床に、ちょこんと座っていた青灰色の猫は、少し口を開けて鳴いて見せた。
「お前、どっから…」
「にゃ…」
 こっちだよ、と言いたげに腰を上げ、主人を思わせる優美な動作でゆっくりと壁の近くに歩み寄る。部屋を照らしているぼんやりとした裸電球の光の下で、その場所に太い鉄格子の嵌まった小窓があり、ルトにとっては御誂え向きに、何かの荷物らしい木箱が何個か積み上げてあるのがわかった。ルトは、ひょい、ひょい、と箱を伝って窓へとたどり着き、思案するように鉄格子の間から外を見ていたが、不意にするりと外へ抜け出していった。
「なるほどな、猫はいいよな」
 ぼやきかけた俺は、次の瞬間ぎょっとした。出ていったはずのルトが、再びぬっと顔を突き出したのだ。そればかりか、ピンと立てた耳の後ろで、上品にくねらせている尻尾まで見える。
「おい…お前、『空飛ぶ猫』(フライング・キャット)だったのか?」
「にゃあ!」
 馬鹿なことを言ってるな!
 そんな感じでルトは鋭い鳴き声を上げた。金目でじろりと俺を見据える。ぞくりとして、不承不承頷いた。
「わかったよ、そこへ行けってんだろ?」
「にゃん」
 わかってりゃいいのさ、と言いたげに、ルトは耳を倒して『人撫で声』(と、猫の方から言うのかは知らないが)で鳴いた。 
「言っとくが、俺は正直言って…」
 木箱に足をかけ、バランスを取って立ち上がりながら、言いかけたことばを飲み込んだ。この上、ドジの照明を『実地』でやって見せる訳にはいかない。足の下で木箱が軋み音を立て、妙な反響音となって部屋の隅に澱んだ。よし、うまく行ったぞ。次の木箱だ。こっちへ乗ると……。
「わっ…わっ……わっ……」
 ぐらあっと木箱が揺れ、俺は慌てて手近の別の木箱に手を伸ばして体を支えた。落ちかける木箱を、必死に残った左足で押し込む。どうやら中身のないものがあるらしい。
「この……厄介…だな…」
「にゃっ」
 早くしろよ。
 ルトが切羽詰まった声で促す。
「そう、急かすなよ…」
 他人が見れば、確実に目を覆いたくなるだろう、実に危ういバランスで、俺はなんとか一番上の木箱まで這い上がった。そこに乗ると、天井まではほんの少し、体を二つ折りにして、かろうじて頭を打たなくて済む、と言う状態になる。
「あ…そうか…」
 ルトの方を見やって、俺はようやく納得した。
 この部屋は、どうやら地下の倉庫として使われていたらしい。ちょうど窓の下辺にあたるところが地面の高さで、ルトはそこに4本の足を開いて立っている。鉄格子越しに覗くと、外はどこかの埠頭らしい風景が広がっていた。気づいてみると、微かに鉄錆の匂いに混じった潮の香りもする。
「港…か」
 呟いてはっとした。万里子はどうした? あれからどうなったんだ?
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

翡翠の歌姫-皇帝が封じた声【中華サスペンス×切ない恋】

雪城 冴 (ゆきしろ さえ)
キャラ文芸
宮廷歌姫の“声”は、かつて皇帝が封じた禁断の力? 翠蓮は孤児と蔑まれるが、才能で皇子や皇后の目を引き、後宮の争いや命の危機に巻き込まれる【詳細⬇️】 陽国には、かつて“声”で争い事を鎮めた者がいた。田舎の雪国で生まれ育った翠蓮(スイレン)。幼くして両親を亡くし孤児となった彼女に残されたのは、翡翠の瞳と、母が遺した小さな首飾り、そして歌への情熱だった。 宮廷歌姫に憧れ、陽華宮の門を叩いた翠蓮だったが、試験の場で早くもあらぬ疑いをかけられる。 その歌声が秘める力を、彼女はまだ知らない。 翠蓮に近づくのは、真逆のタイプの二人の皇子。優しく寄り添う“学”の皇子・蒼瑛(ソウエイ)と、危険な香りをまとう“武”の皇子・炎辰(エンシン)。 誰が味方で、誰が“声”を利用しようとしているのか。歌声に導かれ、三人は王家が隠し続けてきた運命へと引き寄せられていく。 【中華サスペンス×切ない恋】 ミステリー要素あり/ドロドロな重い話あり/身分違いの恋あり 旧題:翡翠の歌姫と2人の王子

処理中です...