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第4章
1.一人と二人(6)
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有沢と別れて急ぎ足に会社に戻っていく途中、美並はふいに頭上に響いた声に立ち止まった。
「……賛美歌?」
軽やかな声が幾重にも重なっていく、その独特な旋律に、ああそうかもうすぐ12月かと思い、こんなところに教会があっただろうか、と路地を覗き込んだ。
『オリジン』から数メートル離れた小さな路地は、やはり『オリジン』の奥の街と同じように物騒なところへ続いているのだと知っているけれど、声はすぐ手前の小さな建物から聞こえてくるようだ。
幼い声、調子はずれの元気な声が慌てたように先の声を追いかける。
「……保育園、か」
なるほど、クリスマス会か何かのために練習しているのだろう。そういえば、ここには駅近くということで『さわやかルーム』と似たケア施設があったはずだ。
もっとも受け入れるのは老人というより子供達で、親のいろいろな都合で家庭では十分に面倒を見てもらえない子供達も結構いると聞いた。ひょっとすると、奥の街で夜通し働く親達の子供もいるのかもしれない。
瞬きして体を起こす。
赤い屋根、ペンキのはげた柵のあたりに夏のひまわりだろうか、枯れた葉を縮こまらせてぐしゃぐしゃになった植物を抱えたままの植木鉢がいくつか放置されている。
「はい、それではみなさん、大きな声でお礼を言いましょう」
朗らかな声が促した。
「ありがとうございました!」
「ありがと、ございました!」
子供達が一斉に唱和して、その後くすぐったそうにけらけら笑う声が響いた。
「またねー」
「次クリスマスねー」
「プレゼントねー」
こらこら、そんなことを言って困らせないの、と慌ててたしなめる声に、
「わかったー! クリスマスね!」
張り切った若い声が応じた。同時に表の柵の一部を押し開けながら、数人の大学生が出てくる。男性一人、女性二人、それぞれに背後へ手を振ったのは、わやわやと追いかけてきた子供達へ向けたらしい。
「ばいばい!」
「ばいばいー!」
年の頃はそれでも七、八歳まで、ぐらいか。とすると、ここはもっぱら小学校へ通うようになって学童保育を利用できるようになるまでの子供達が来ているらしい。年齢層の多さに比べて顔を見せた保母らしい人は一人、美並と視線を合わせてはっとしたように顔を強張らせ、さあさあ入りますよ、とうろたえたように子供達を急き立てた。
美並を怪しいと考えたというより、保育園の状態、つまりは無認可の施設なのかもしれない。
出て来た男女三人はそれにはあまり気を払わなかった。
「あーいよいよだ」
「だね、やれっかな」
「子供はいいよ子供は。じーさんとかややこしいのどうしよう」
「それよりさあ、あれ覚えた?」
一人ががさがさバッグをかき回しながら尋ねながら、美並の前を通り過ぎていく。
「まだー」
「暗記苦手だ」
「えーと始めがわからん、始めが、えーと」
テストだろうか、後期試験はこんな時期だっただろうか、そう微笑しつつ、同じ方向へ歩いていた美並の耳を、唸りながら空を見上げていた男性の声が打った。
「われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち」
「!」
まるで晴天の空から稲妻が落ちてきたような衝撃。
「悪しき薬を用いることなく…」
「違う違う」
もう一人が手を振って遮り、ようやく見つけ出したらしい紙を広げて読み上げる。
「それは途中じゃん。始めっから覚えてないとさ……われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん」
ナイチンゲール誓詞だ。
看護師がその能力と地位の証とするナースキャップを受ける戴帽式に唱えることば。
美並はそれを唱えたことはない。だが、『さわやかルーム』に出入りしていた実習生の戴帽式を見たことはある。
暗くしたホールで一人一人胸元で掲げるキャンドル、ナースキャップを戴いて、立ち上がる時に思わず目元を潤ませながら深く頭を下げる学生達。
今掲げたその炎で、人を照らしまた自らをも照らすのですよ、その姿が憩いと安らぎとなるようにと願いながら。看護のあるところがどこか忘れないようにしなさい、常に病む人と同じ歩調で歩けるように勤めさい。
感極まって啜り泣く学生に、静かに穏やかに告げた教師の声に命を預かる重さと厳しさを感じた。
「われは我が力の限りわが任務(つとめ)の標準(しるし)を高くせん事を努むべし」
読み上げる声が雑踏の中で響く、静かに、けれど揺るぎない力をもって。
それはナイチンゲールが語ったことばではないけれど、人の傷みに寄り添おうとする全てのものの覚悟に共通のもの、そう教えてくれたのも、その教官だった。
『だから、あなたにもきっと役立つことがあると思いますよ』
「………われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん…」
遠ざかる三人の背中を美並は凝視した。
こんな偶然があってたまるか。
まるで空から誰かが見ているようじゃないか、怯みかけた美並を叱咤するように。
お前に託されたその力を、今間違いなく使う事を望む、そう告げられたように。
でも、本当に?
本当に美並はできるのか?
解れ絡んだ絆の一番底までちゃんと降りられるのか?
「……賛美歌?」
軽やかな声が幾重にも重なっていく、その独特な旋律に、ああそうかもうすぐ12月かと思い、こんなところに教会があっただろうか、と路地を覗き込んだ。
『オリジン』から数メートル離れた小さな路地は、やはり『オリジン』の奥の街と同じように物騒なところへ続いているのだと知っているけれど、声はすぐ手前の小さな建物から聞こえてくるようだ。
幼い声、調子はずれの元気な声が慌てたように先の声を追いかける。
「……保育園、か」
なるほど、クリスマス会か何かのために練習しているのだろう。そういえば、ここには駅近くということで『さわやかルーム』と似たケア施設があったはずだ。
もっとも受け入れるのは老人というより子供達で、親のいろいろな都合で家庭では十分に面倒を見てもらえない子供達も結構いると聞いた。ひょっとすると、奥の街で夜通し働く親達の子供もいるのかもしれない。
瞬きして体を起こす。
赤い屋根、ペンキのはげた柵のあたりに夏のひまわりだろうか、枯れた葉を縮こまらせてぐしゃぐしゃになった植物を抱えたままの植木鉢がいくつか放置されている。
「はい、それではみなさん、大きな声でお礼を言いましょう」
朗らかな声が促した。
「ありがとうございました!」
「ありがと、ございました!」
子供達が一斉に唱和して、その後くすぐったそうにけらけら笑う声が響いた。
「またねー」
「次クリスマスねー」
「プレゼントねー」
こらこら、そんなことを言って困らせないの、と慌ててたしなめる声に、
「わかったー! クリスマスね!」
張り切った若い声が応じた。同時に表の柵の一部を押し開けながら、数人の大学生が出てくる。男性一人、女性二人、それぞれに背後へ手を振ったのは、わやわやと追いかけてきた子供達へ向けたらしい。
「ばいばい!」
「ばいばいー!」
年の頃はそれでも七、八歳まで、ぐらいか。とすると、ここはもっぱら小学校へ通うようになって学童保育を利用できるようになるまでの子供達が来ているらしい。年齢層の多さに比べて顔を見せた保母らしい人は一人、美並と視線を合わせてはっとしたように顔を強張らせ、さあさあ入りますよ、とうろたえたように子供達を急き立てた。
美並を怪しいと考えたというより、保育園の状態、つまりは無認可の施設なのかもしれない。
出て来た男女三人はそれにはあまり気を払わなかった。
「あーいよいよだ」
「だね、やれっかな」
「子供はいいよ子供は。じーさんとかややこしいのどうしよう」
「それよりさあ、あれ覚えた?」
一人ががさがさバッグをかき回しながら尋ねながら、美並の前を通り過ぎていく。
「まだー」
「暗記苦手だ」
「えーと始めがわからん、始めが、えーと」
テストだろうか、後期試験はこんな時期だっただろうか、そう微笑しつつ、同じ方向へ歩いていた美並の耳を、唸りながら空を見上げていた男性の声が打った。
「われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち」
「!」
まるで晴天の空から稲妻が落ちてきたような衝撃。
「悪しき薬を用いることなく…」
「違う違う」
もう一人が手を振って遮り、ようやく見つけ出したらしい紙を広げて読み上げる。
「それは途中じゃん。始めっから覚えてないとさ……われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん」
ナイチンゲール誓詞だ。
看護師がその能力と地位の証とするナースキャップを受ける戴帽式に唱えることば。
美並はそれを唱えたことはない。だが、『さわやかルーム』に出入りしていた実習生の戴帽式を見たことはある。
暗くしたホールで一人一人胸元で掲げるキャンドル、ナースキャップを戴いて、立ち上がる時に思わず目元を潤ませながら深く頭を下げる学生達。
今掲げたその炎で、人を照らしまた自らをも照らすのですよ、その姿が憩いと安らぎとなるようにと願いながら。看護のあるところがどこか忘れないようにしなさい、常に病む人と同じ歩調で歩けるように勤めさい。
感極まって啜り泣く学生に、静かに穏やかに告げた教師の声に命を預かる重さと厳しさを感じた。
「われは我が力の限りわが任務(つとめ)の標準(しるし)を高くせん事を努むべし」
読み上げる声が雑踏の中で響く、静かに、けれど揺るぎない力をもって。
それはナイチンゲールが語ったことばではないけれど、人の傷みに寄り添おうとする全てのものの覚悟に共通のもの、そう教えてくれたのも、その教官だった。
『だから、あなたにもきっと役立つことがあると思いますよ』
「………われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん…」
遠ざかる三人の背中を美並は凝視した。
こんな偶然があってたまるか。
まるで空から誰かが見ているようじゃないか、怯みかけた美並を叱咤するように。
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