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第4章
2.ビハインド(6)
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「できますよ」
「…」
「少なくとも、この五目そばを頂くことは」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいません」
美並は五目そばを見下ろした。
柔らかな出汁の薫り、しっかり温められた器、かつて太田正道に供されたそれもやはり同じぐらいに丁寧に出されたのだろう。今それを食べるのは太田ではないけれど、太田が望み太田が愛したそれを太田の決まった席で求められて、手を抜いて作ることなどできなかった、そうわかる。
「もう一杯頂けますか」
「…」
「有沢さんの分を」
「断る」
「なぜ?」
「あいつに食う資格はねえ」
「…そうですか」
店の全ての視線が集まっている。それを全身で感じる。その視線の一つ一つを受け止め、もういなくなった太田の存在を感じ取る。
きっと明るい男だったのだろう、この頑固な店主に入れ込ませるほど。店の中の一番奥まった席に座り、時には酒を飲みながら有沢と向かい合って賑やかに騒いだこともあるかもしれない。太田が来ることでこの店は活気づき、店主は勢いとエネルギーを得、客達もまた太田と居ることを楽しんだ。
そして今、太田を失って、その怒りも恨みも昇華されないまま溜まったこの店に、自分が顔を出すことでどんな扱いを受けるか、有沢がわかっていなかったはずはない。それでもきっと有沢は何度もここへやってきている。のれんから顔を覗かせるだけで拒まれる、その店に何度も足を運んで、そのたびに黙って引き下がって帰っている。
そうやって。
そうやって有沢は太田への思慕を、犯罪に慣れてしまおうとする自分への怒りを掻き立てている。この店に来ることで、有沢は自分の罪を何度も何度も背負い直し、この店に澱む怒りで自分を追い込んでいる。
優しい男だから、最後の最後に詰めが甘い男だから、それが太田を死なせてしまったから、今度こそ最後まで決して逃げられないように、決して諦めないように。
だがそれは、おそらくは店主の本意ではない、太田の本意でも。
「有沢さん」
「、は」
「太田さんはいつもここに?」
「……ええ」
「どんな風に?」
「どんなって…」
有沢は口ごもり、美並を見た、視線は美並を、けれど意識はずっと遠くを、美並の姿の彼方の誰かを。
「上がりの時とか、煮詰まった時とか、へまをしてへこんだ時とか、そこに胡座組んで、ばかやろう、失敗してへこむんじゃねえ、失敗したらしめたって思えって」
ビール片手に、けど、すぐに赤くなって、顔に出る人なんで、けれど酒は強くて、焼酎だって一人で空けるぐらいで。
「けれど俺は、呑めなくて」
てめえの分まで呑んでやるから安心しろ、だから俺の代わりに食っておけって。
「有沢さん」
「はい」
「どうぞここへ」
美並は目の前の器をそっと向かいの席に押しやった。
何を思い出したのだろう、有沢が一瞬真っ青になる。
「おいあんた」
店主が苛立った声を上げた。
「まだ熱いですよ、どうぞ」
「そいつにやるな」
「私があげたんです」
店主に言い返してにっこり笑う。
「よければ私の分をもう一人前下さい」
「それを食え」
「これは有沢さんの分です」
静かに店主を見つめながら続けた。
「太田さんはそう言ったでしょう?」
「っ」
店の中が凍りついた。
「いつも有沢さんの注文を先に持ってくるように言ってたでしょう?」
太田ならそうしただろう、自分は酒を呑む、その間にまず食っておけ、と。
刑事という仕事は気が抜けない、その緊張の中でも新人ならばすぐへたるへこむ迷うだれる。それを仕切り直す場所としてこの店を選んだのは、店主への信頼だ。疲れ切った心身に一番必要なのは、温かくて滋養のある食べ物、それをきちんと準備してくれる、そう知っていたからだ。
部下を慰めるためにこの店に連れてくる太田に、店主は黙っていてもこの五目そばを出したかもしれないが、それを先に食べるようなことはしなかっただろう。
お前から食え。
そう笑って太田は有沢に促したはずだ、自分は壁を背中に店の戸口を見張りながら、臨戦体制のまま有沢を休ませて。
俺は酒の方が好きだからよ。
そう笑う声が聞こえる気がする。
「………あいつは、酒は、弱かったんだ」
店主は低く唸った。
「……え?」
「焼酎ってラベルを貼って水みたいな酒の一升瓶を用意する、それが約束だった」
「な…んで…」
有沢が茫然としたままつ呟いた。
「なんで…そんな……」
「他で呑んでるの見たことあんのか」
「……」
「他愛ない意地だ、酒ぐらいきっちり呑めねえと甘く見られるってな。それにそう思わせておくとべらべらしゃべる馬鹿も居るって」
故郷に好きな女を置いて警官になって、死ぬほどそいつが好きだってクダ巻きやがる、それでもどうしても甘いやつでいつも失敗ばかりしてるガキの話とかな。
店主がゆっくり有沢を振り返った。
「マサはお前を可愛がってた」
「……」
「あいつが来たらいつでも腹一杯食べさせろと言っていた」
「………」
「なのに、なんでお前はあいつを見捨てた」
「………」
「なんであいつを助けてくれなかった」
だから俺は。
「あいつの遺言一つ守れねえじゃねえか…っ」
「す……いません」
有沢が吐いた。
「すい、ません…」
がくりと膝に手を置いて崩れそうになる。
「太田さん、守れなくて、すいませんでした……っ」
叫ぶような謝罪だった。
「…」
「少なくとも、この五目そばを頂くことは」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいません」
美並は五目そばを見下ろした。
柔らかな出汁の薫り、しっかり温められた器、かつて太田正道に供されたそれもやはり同じぐらいに丁寧に出されたのだろう。今それを食べるのは太田ではないけれど、太田が望み太田が愛したそれを太田の決まった席で求められて、手を抜いて作ることなどできなかった、そうわかる。
「もう一杯頂けますか」
「…」
「有沢さんの分を」
「断る」
「なぜ?」
「あいつに食う資格はねえ」
「…そうですか」
店の全ての視線が集まっている。それを全身で感じる。その視線の一つ一つを受け止め、もういなくなった太田の存在を感じ取る。
きっと明るい男だったのだろう、この頑固な店主に入れ込ませるほど。店の中の一番奥まった席に座り、時には酒を飲みながら有沢と向かい合って賑やかに騒いだこともあるかもしれない。太田が来ることでこの店は活気づき、店主は勢いとエネルギーを得、客達もまた太田と居ることを楽しんだ。
そして今、太田を失って、その怒りも恨みも昇華されないまま溜まったこの店に、自分が顔を出すことでどんな扱いを受けるか、有沢がわかっていなかったはずはない。それでもきっと有沢は何度もここへやってきている。のれんから顔を覗かせるだけで拒まれる、その店に何度も足を運んで、そのたびに黙って引き下がって帰っている。
そうやって。
そうやって有沢は太田への思慕を、犯罪に慣れてしまおうとする自分への怒りを掻き立てている。この店に来ることで、有沢は自分の罪を何度も何度も背負い直し、この店に澱む怒りで自分を追い込んでいる。
優しい男だから、最後の最後に詰めが甘い男だから、それが太田を死なせてしまったから、今度こそ最後まで決して逃げられないように、決して諦めないように。
だがそれは、おそらくは店主の本意ではない、太田の本意でも。
「有沢さん」
「、は」
「太田さんはいつもここに?」
「……ええ」
「どんな風に?」
「どんなって…」
有沢は口ごもり、美並を見た、視線は美並を、けれど意識はずっと遠くを、美並の姿の彼方の誰かを。
「上がりの時とか、煮詰まった時とか、へまをしてへこんだ時とか、そこに胡座組んで、ばかやろう、失敗してへこむんじゃねえ、失敗したらしめたって思えって」
ビール片手に、けど、すぐに赤くなって、顔に出る人なんで、けれど酒は強くて、焼酎だって一人で空けるぐらいで。
「けれど俺は、呑めなくて」
てめえの分まで呑んでやるから安心しろ、だから俺の代わりに食っておけって。
「有沢さん」
「はい」
「どうぞここへ」
美並は目の前の器をそっと向かいの席に押しやった。
何を思い出したのだろう、有沢が一瞬真っ青になる。
「おいあんた」
店主が苛立った声を上げた。
「まだ熱いですよ、どうぞ」
「そいつにやるな」
「私があげたんです」
店主に言い返してにっこり笑う。
「よければ私の分をもう一人前下さい」
「それを食え」
「これは有沢さんの分です」
静かに店主を見つめながら続けた。
「太田さんはそう言ったでしょう?」
「っ」
店の中が凍りついた。
「いつも有沢さんの注文を先に持ってくるように言ってたでしょう?」
太田ならそうしただろう、自分は酒を呑む、その間にまず食っておけ、と。
刑事という仕事は気が抜けない、その緊張の中でも新人ならばすぐへたるへこむ迷うだれる。それを仕切り直す場所としてこの店を選んだのは、店主への信頼だ。疲れ切った心身に一番必要なのは、温かくて滋養のある食べ物、それをきちんと準備してくれる、そう知っていたからだ。
部下を慰めるためにこの店に連れてくる太田に、店主は黙っていてもこの五目そばを出したかもしれないが、それを先に食べるようなことはしなかっただろう。
お前から食え。
そう笑って太田は有沢に促したはずだ、自分は壁を背中に店の戸口を見張りながら、臨戦体制のまま有沢を休ませて。
俺は酒の方が好きだからよ。
そう笑う声が聞こえる気がする。
「………あいつは、酒は、弱かったんだ」
店主は低く唸った。
「……え?」
「焼酎ってラベルを貼って水みたいな酒の一升瓶を用意する、それが約束だった」
「な…んで…」
有沢が茫然としたままつ呟いた。
「なんで…そんな……」
「他で呑んでるの見たことあんのか」
「……」
「他愛ない意地だ、酒ぐらいきっちり呑めねえと甘く見られるってな。それにそう思わせておくとべらべらしゃべる馬鹿も居るって」
故郷に好きな女を置いて警官になって、死ぬほどそいつが好きだってクダ巻きやがる、それでもどうしても甘いやつでいつも失敗ばかりしてるガキの話とかな。
店主がゆっくり有沢を振り返った。
「マサはお前を可愛がってた」
「……」
「あいつが来たらいつでも腹一杯食べさせろと言っていた」
「………」
「なのに、なんでお前はあいつを見捨てた」
「………」
「なんであいつを助けてくれなかった」
だから俺は。
「あいつの遺言一つ守れねえじゃねえか…っ」
「す……いません」
有沢が吐いた。
「すい、ません…」
がくりと膝に手を置いて崩れそうになる。
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叫ぶような謝罪だった。
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