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第4章
3.二人と三人(5)
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『一人にしてもらえませんか』
有沢はそう言った。
自販機の前で俯いて、やがて送りましょう、と美並を署から連れ出して、駅まで無言で送り届けてくれた。
太田の遺品のことには触れなかった。
二人とも黙って道を歩き、駅の改札で厳しい顔をしたまま、頭を下げた有沢に、美並は尋ねた。
『もっと続けますか』
その問いに応えは返ってこなかった。
「電車が参ります」
軽やかな女性の声が響いて、美並は瞬きしてホームの端から身を引いた。
いつの間にかひどく近くに線路を見つめていて、それがいつの視界だったか、思い出すと同時に鞄の中の携帯に手を伸ばしていた。
入ってきた電車をやり過ごし、ホームに待っていた人々をすっくり飲み込んで遠ざかっていく電車のテールランプを見送り、美並は携帯を開く。
何本もかけた京介への発信履歴。
戻ってきていない着信履歴。
あの時もそうだった、大石と連絡は取れなかった。次に消息がわかったのは。
「……」
首に巻いたマフラーに顎を埋め、京介に発信しようとする。
また失うのだろうか。
今度は逃げなかったのだが。
ちゃんと最後まで見届けようとしたのだが。
ゆら、と視界が揺れて思わず切ってしまう。
再びゆっくり人が溜まり出したホームの中で凍えていくような気がして、静かに改札から離れて歩き始める。
夜の22時。
改札を振り返ると、携帯を覗き込む人、隣人と笑い合う人、俯いて立っている人、そのそれぞれのあちこちに、微かな色の靄が見えた。
白いもの、赤いもの、青いもの、緑のもの……そして、澱みを抱えた黒。
これほどたくさんの色を一度に見たのは初めてだし、これほど多くの人を一度に見ようとしたのも初めてだ。
一瞬目を閉じ、再び静かに開いていくと、幾つかの色は消えていて、黒と赤がかろうじて見えた。
その二色が見えるのはきっと、命にとって危険だからだ。美並の中の命が、誰かの身に及ぶ危険を、あるいはまた自分の身に及ぶ危険を知らせている。
けれど、それが危険だとわかったところで、働きかけることを拒まれては何の役に立つのだろう。
前は美並が逃げた、安住の地を失いたくなくて。
今度は相手が逃げた、安住の地を守ろうとしたのに。
「一人じゃ何にもできないんだなあ」
小さく呟いて、もう一度マフラーに顎を埋めて目を閉じる。
京介。
脳裏に目元を染めて花開くように笑う顔に苦笑する。
美並の心は死にかけているのだろうか。だからこれほど、京介の熱が恋しいのだろうか。
「しのげ」
逃げるな。
まだ手はあるはずだ。
有沢は納得していない。太田が警察や自分を裏切っていたにせよ、その死が何によってもたらされたのか、そこは謎のままだ。
けれど有沢は恐れている、自分の腹部の違和感に気づいて、それでも受診を拒んでいたように、最悪の結果が姿を現すことを。
そこを有沢が飛び越えてくれない限り、美並には『羽鳥』に近づく術がない。それは『孝』も追い切れないということだ。
「待つんだ」
美並にできることはそれしかない。
有沢が何よりも真実に辿り着こうとする、と決意するまで。
消えてしまいたい、そう願う気持ちを感じ取る。何の役にも立たない、何もできない、無力、それならまだまし、美並は傷つけることしかできないいつもいつも。
『美並』
京介の柔らかな甘い声を思い出す。
『見て…?』
はにかむようにネクタイを緩める顔。
「あーなんかわかるかも」
男性がぎりぎりのときに女性を求めるって気持ち。
そう呟いてまた苦笑いする。
「私は男か」
それでも今、京介の声が聞きたい、自分の名前を呼ぶ声が。
携帯を取り出す。
応えてもらえないかもしれない。
電車がまた滑り込んでくる。もうこれが終電だ。
乗り込んで部屋に戻って、それからゆっくり電話すればいい、暖かな部屋で京介に声に気持ちも一緒に温めてもらえばいい、それが理性、それが常識。
電車は乗り込まない伊吹を急き立てるように扉を開いたまま動いていない。ホームにはもう誰も残っていない。
「あの…」
呼びかけられて振り向くと、車掌が気遣わしげな顔でこちらを見ている。
「最終になりますが」
引くなら今だ、そう言われた気がした。
ここでなら引き下がることができる、今ならこれ以上踏み込まずに辛い思いも重ねないで済む、がしかし。
『われはわが力の限り、わが任務(つとめ)の標準(しるし)を高くせんことを努むべし』
きっと後悔するだろう、死ぬ瞬間に。
きっと情けなさに歯噛みする、自分は京介の一番深くを守れたのにと。
「ああ…すみません」
乗りませんから。
「いいんですか?」
「はい」
携帯を掲げてみせる。
「人と会いますから」
「ああ」
車掌は微かにひきつって顔を引っ込めた。すぐにぴしゃりと扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出す。
それを横目に美並は電話をかけた。
コール音。
一回、二回、三回。
出て欲しい。
四回、五回。
今あなたが欲しい。
六回、七回。
京介、あなたが欲しい。
「!」
繋がった音に一瞬ことばが出なかった。相手も無言、それを無視するように呼びかける。
「京介?」
最後だろうか、最後になるのか、それならなおさら一言でもいい、せめて有沢を全力で追い詰めるための糧が欲しい。自分の能力をかけて突っ走れる熱を奪いたい。
『…い…ぶき…さ…』
「?」
戻ってきた声が掠れて濡れている。まるでひとしきり誰かに喘がされたようなきわどさだ。
「どうしたの?」
まさか、また、惠子か誰かに何かされたんじゃ。
「京介?」
は、ぁ、と小さな吐息が響いてぞくりとした。
『……み…なみ……』
違う。
危うげで妖しげで、まるでベッドでねだられているような感覚を呼び起こすそれ、普通ならば誘惑されていると勘違いしそうなその声音が美並の中に警告を鳴らす。
それは『ハイウィンド・リール』で京介が大輔に抱き込まれた時と同じ気配だからだ。命が終わりを感じて必死に周囲に欲望を向ける、あのぎりぎりの懇願そっくりだからだ。
目を閉じて京介の声を追う。
震えている。イメージは細くて今にも切れそうな蜘蛛の糸だ。それが激しい雨に打たれてずたずたになっている。
けれど、それを自覚させてはいけない。左右が断崖絶壁の道を、前だけ見て歩いているに等しいから、少しでも周囲に意識を向けさせたらすぐに転がり落ちてしまう。
「眠れないの?」
今何をしているのだろう。
携帯に応答しなかったのは、単に美並への拒否ではなかったのか。
『うん……』
頷いた気配、また微かに息をついた。熱っぽい、不安定な呼気。
抱き締めたくなって煽られる。
有沢はそう言った。
自販機の前で俯いて、やがて送りましょう、と美並を署から連れ出して、駅まで無言で送り届けてくれた。
太田の遺品のことには触れなかった。
二人とも黙って道を歩き、駅の改札で厳しい顔をしたまま、頭を下げた有沢に、美並は尋ねた。
『もっと続けますか』
その問いに応えは返ってこなかった。
「電車が参ります」
軽やかな女性の声が響いて、美並は瞬きしてホームの端から身を引いた。
いつの間にかひどく近くに線路を見つめていて、それがいつの視界だったか、思い出すと同時に鞄の中の携帯に手を伸ばしていた。
入ってきた電車をやり過ごし、ホームに待っていた人々をすっくり飲み込んで遠ざかっていく電車のテールランプを見送り、美並は携帯を開く。
何本もかけた京介への発信履歴。
戻ってきていない着信履歴。
あの時もそうだった、大石と連絡は取れなかった。次に消息がわかったのは。
「……」
首に巻いたマフラーに顎を埋め、京介に発信しようとする。
また失うのだろうか。
今度は逃げなかったのだが。
ちゃんと最後まで見届けようとしたのだが。
ゆら、と視界が揺れて思わず切ってしまう。
再びゆっくり人が溜まり出したホームの中で凍えていくような気がして、静かに改札から離れて歩き始める。
夜の22時。
改札を振り返ると、携帯を覗き込む人、隣人と笑い合う人、俯いて立っている人、そのそれぞれのあちこちに、微かな色の靄が見えた。
白いもの、赤いもの、青いもの、緑のもの……そして、澱みを抱えた黒。
これほどたくさんの色を一度に見たのは初めてだし、これほど多くの人を一度に見ようとしたのも初めてだ。
一瞬目を閉じ、再び静かに開いていくと、幾つかの色は消えていて、黒と赤がかろうじて見えた。
その二色が見えるのはきっと、命にとって危険だからだ。美並の中の命が、誰かの身に及ぶ危険を、あるいはまた自分の身に及ぶ危険を知らせている。
けれど、それが危険だとわかったところで、働きかけることを拒まれては何の役に立つのだろう。
前は美並が逃げた、安住の地を失いたくなくて。
今度は相手が逃げた、安住の地を守ろうとしたのに。
「一人じゃ何にもできないんだなあ」
小さく呟いて、もう一度マフラーに顎を埋めて目を閉じる。
京介。
脳裏に目元を染めて花開くように笑う顔に苦笑する。
美並の心は死にかけているのだろうか。だからこれほど、京介の熱が恋しいのだろうか。
「しのげ」
逃げるな。
まだ手はあるはずだ。
有沢は納得していない。太田が警察や自分を裏切っていたにせよ、その死が何によってもたらされたのか、そこは謎のままだ。
けれど有沢は恐れている、自分の腹部の違和感に気づいて、それでも受診を拒んでいたように、最悪の結果が姿を現すことを。
そこを有沢が飛び越えてくれない限り、美並には『羽鳥』に近づく術がない。それは『孝』も追い切れないということだ。
「待つんだ」
美並にできることはそれしかない。
有沢が何よりも真実に辿り着こうとする、と決意するまで。
消えてしまいたい、そう願う気持ちを感じ取る。何の役にも立たない、何もできない、無力、それならまだまし、美並は傷つけることしかできないいつもいつも。
『美並』
京介の柔らかな甘い声を思い出す。
『見て…?』
はにかむようにネクタイを緩める顔。
「あーなんかわかるかも」
男性がぎりぎりのときに女性を求めるって気持ち。
そう呟いてまた苦笑いする。
「私は男か」
それでも今、京介の声が聞きたい、自分の名前を呼ぶ声が。
携帯を取り出す。
応えてもらえないかもしれない。
電車がまた滑り込んでくる。もうこれが終電だ。
乗り込んで部屋に戻って、それからゆっくり電話すればいい、暖かな部屋で京介に声に気持ちも一緒に温めてもらえばいい、それが理性、それが常識。
電車は乗り込まない伊吹を急き立てるように扉を開いたまま動いていない。ホームにはもう誰も残っていない。
「あの…」
呼びかけられて振り向くと、車掌が気遣わしげな顔でこちらを見ている。
「最終になりますが」
引くなら今だ、そう言われた気がした。
ここでなら引き下がることができる、今ならこれ以上踏み込まずに辛い思いも重ねないで済む、がしかし。
『われはわが力の限り、わが任務(つとめ)の標準(しるし)を高くせんことを努むべし』
きっと後悔するだろう、死ぬ瞬間に。
きっと情けなさに歯噛みする、自分は京介の一番深くを守れたのにと。
「ああ…すみません」
乗りませんから。
「いいんですか?」
「はい」
携帯を掲げてみせる。
「人と会いますから」
「ああ」
車掌は微かにひきつって顔を引っ込めた。すぐにぴしゃりと扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出す。
それを横目に美並は電話をかけた。
コール音。
一回、二回、三回。
出て欲しい。
四回、五回。
今あなたが欲しい。
六回、七回。
京介、あなたが欲しい。
「!」
繋がった音に一瞬ことばが出なかった。相手も無言、それを無視するように呼びかける。
「京介?」
最後だろうか、最後になるのか、それならなおさら一言でもいい、せめて有沢を全力で追い詰めるための糧が欲しい。自分の能力をかけて突っ走れる熱を奪いたい。
『…い…ぶき…さ…』
「?」
戻ってきた声が掠れて濡れている。まるでひとしきり誰かに喘がされたようなきわどさだ。
「どうしたの?」
まさか、また、惠子か誰かに何かされたんじゃ。
「京介?」
は、ぁ、と小さな吐息が響いてぞくりとした。
『……み…なみ……』
違う。
危うげで妖しげで、まるでベッドでねだられているような感覚を呼び起こすそれ、普通ならば誘惑されていると勘違いしそうなその声音が美並の中に警告を鳴らす。
それは『ハイウィンド・リール』で京介が大輔に抱き込まれた時と同じ気配だからだ。命が終わりを感じて必死に周囲に欲望を向ける、あのぎりぎりの懇願そっくりだからだ。
目を閉じて京介の声を追う。
震えている。イメージは細くて今にも切れそうな蜘蛛の糸だ。それが激しい雨に打たれてずたずたになっている。
けれど、それを自覚させてはいけない。左右が断崖絶壁の道を、前だけ見て歩いているに等しいから、少しでも周囲に意識を向けさせたらすぐに転がり落ちてしまう。
「眠れないの?」
今何をしているのだろう。
携帯に応答しなかったのは、単に美並への拒否ではなかったのか。
『うん……』
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