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第4章
7.四人と五人(1)
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『飯島』が死体で見つかった。
最後に有沢が伝えたことばは、美並の中で二つの意味を持った。
一つはこれでまた、難波孝に辿り着く道筋が細くなったということ。
そしてもう一つは、また美並が近づいた人間が死んでしまったということ。
同時にそれは、あの高校生の時にコンビニで『飯島』と出会ったことが、どれほど貴重なかけがえのない瞬間だったのかを思い知らせた。
あの時。
自分の能力を信じて何か行動を起こしていれば、今も『飯島』は生きていて、難波孝も死ぬことはなかったのだろうか。
それはまた、同じ想いを抱えて彷徨った夜の冷たさを思い起こさせる。
真冬の星の下、するべきだったことから逃げ、伝えるべきだったことを隠し、そうしてかけがえのない人を次々失っていく運命なのかもしれない、そう号泣した夜のことを。
能力を信じて人を傷つけることと、能力を信じず人を見殺しにすること、どちらが罪は軽いだろうか。
まんじりともせずに迎えた空の薄白い明るさが目に痛かった。
「……ひどい顔だなあ……」
くたびれて疲れ切った顔は、うっとうしそうで暗い。
鏡の中から見返す瞳の不安定さにはどんな化粧も似合わない気がして、たびたび手が止まる。それでも、一つ一つ手順を進めたのは。
「京介…」
そっと取り出した小箱には、鎖に通したアメジストのリング。ブラウスを開いて首にかけると、少し痩せてしまったのか鎖骨が目立つ首もとに、小さく光を跳ねた。
指先で触れる。
嬉しそうな真崎の顔を思い出す。
どうしてつけてくれないの、と不満そうに尖らせる唇の温もりが、今ひどく恋しい。
指先で摘んでキスを贈って家を出た。
真崎は課室には居なかった。
既に『ニット・キャンパス』の打ち合わせに出向いたらしい。今日の夜はハルと一緒に『BLUES RAIN』を見ることになっているから、それまでに仕事を片付けておいてしまおうという頭なのだろう、動きが早い。
夕べの一件で自分にとって改めて真崎がどれほどかけがえのない相手なのかわかったから、ハルとのデートに伴うのにほっとしている。
ハルはたぶん幻を追いかけているのだ。
自分を唯一認めてくれた優しい母親、現実には存在しなかったイメージを美並に重ねている。
そういう目で見られている美並が、美並自身を否定されているように感じるとは、きっと思いもしていないだろうが。
ましてや、夕べのように有沢がただただ自分の安全弁として美並を求めた後で、またハルに温かで柔らかな寝床としてだけ求められるのは,正直苦しい。
「京介…だけなんだ…」
ふいに気づいた。
真崎だけが美並を能力から入って能力を無視して求めてくれる。美並の感情に向き合って受け止めてくれる。見てほしい、とは望まれるけれど、それは街角に立つ占い師のように自分の迷いを見抜いて方向を示してほしいというのではなく、真崎京介としての存在を美並の視界に焼き付けたい、そういう熱の形だ。
「ああ……そっか」
真崎は美並を縛らない。
いや確かに、現実では指輪や約束や存在の場所や、つまりはずっと側に居てほしいと言い続けているけれど、それは美並の意志を妨げない、美並の能力を限らない。こう見てほしいとか、こう見るべきだとかは迫らない。愛してほしいとは言うけれど、愛しいものとして見ろとは言わない。
だから美並は安心して、真崎の側に居られる。
美並がどんな風に真崎を見ようとも、むしろそれが自分に新たな姿を与えてくれると言いたげに、そのまま変化し花開いていく、美並に向かって微笑みながら。
「………京介、だから」
大輔や恵子に蹂躙され、自分というものがすっぽり欠け落ちた状態で、望まれるままに応じて形を変えてきた、たとえそれが自分に苦痛を与えるものであったとしても。
その柔軟性こそが、美並にとってかけがえのない相手としての特性なのだ。
美並は相手の中にあるものを全て見つめてしまう。光も闇も、薄暗がりも。
だが、大抵の人間は自分の全てが好きだというのは稀で、好きなところ嫌いなところがあり、それを取捨選択して表現し、社会の中で生きている。『そのままの自分』ではなく『こうありたい自分』『こうあらねばならない自分』でいるために。
美並はそれを白日の下に晒してしまう、全てをただ見つめることで。
真崎は『こうありたい自分』を常に砕かれ続けてきた。『こうあらねばならない自分』であることだけを求められ、それを満たすためにエネルギーの全てを持っていかれて、真崎の中は何もなくなってしまっていた。
だが、美並は、その空洞に『無』ではなく『空間』を見つけたのだ。
『なにもない』のではなく『何でも入る』巨大な器を。
社会常識に守られなかったことが、常識を超えた発想を産み出せる力になる。意志を無視されたことが、どんな視点にも立ちうる幅に繋がる。感情を翻弄されたことが極めて正確な人間理解に転じ、厳しい条件で生き抜いたことがぎりぎりの踏み込みを可能にし、そこに『方向』が与えられれば、それはしなやかでしたたかな統率力になる。
真崎は美並の視線に自分を晒すことで、その全てを受け入れた、そういうことではないのか。
そして、美並はその真崎に相対して初めて、自分の能力の可能性に気づく。
それは。
「伊吹さん」
「あ、はい」
ふいに呼びかけられて、美並は瞬きして顔を上げた。
最後に有沢が伝えたことばは、美並の中で二つの意味を持った。
一つはこれでまた、難波孝に辿り着く道筋が細くなったということ。
そしてもう一つは、また美並が近づいた人間が死んでしまったということ。
同時にそれは、あの高校生の時にコンビニで『飯島』と出会ったことが、どれほど貴重なかけがえのない瞬間だったのかを思い知らせた。
あの時。
自分の能力を信じて何か行動を起こしていれば、今も『飯島』は生きていて、難波孝も死ぬことはなかったのだろうか。
それはまた、同じ想いを抱えて彷徨った夜の冷たさを思い起こさせる。
真冬の星の下、するべきだったことから逃げ、伝えるべきだったことを隠し、そうしてかけがえのない人を次々失っていく運命なのかもしれない、そう号泣した夜のことを。
能力を信じて人を傷つけることと、能力を信じず人を見殺しにすること、どちらが罪は軽いだろうか。
まんじりともせずに迎えた空の薄白い明るさが目に痛かった。
「……ひどい顔だなあ……」
くたびれて疲れ切った顔は、うっとうしそうで暗い。
鏡の中から見返す瞳の不安定さにはどんな化粧も似合わない気がして、たびたび手が止まる。それでも、一つ一つ手順を進めたのは。
「京介…」
そっと取り出した小箱には、鎖に通したアメジストのリング。ブラウスを開いて首にかけると、少し痩せてしまったのか鎖骨が目立つ首もとに、小さく光を跳ねた。
指先で触れる。
嬉しそうな真崎の顔を思い出す。
どうしてつけてくれないの、と不満そうに尖らせる唇の温もりが、今ひどく恋しい。
指先で摘んでキスを贈って家を出た。
真崎は課室には居なかった。
既に『ニット・キャンパス』の打ち合わせに出向いたらしい。今日の夜はハルと一緒に『BLUES RAIN』を見ることになっているから、それまでに仕事を片付けておいてしまおうという頭なのだろう、動きが早い。
夕べの一件で自分にとって改めて真崎がどれほどかけがえのない相手なのかわかったから、ハルとのデートに伴うのにほっとしている。
ハルはたぶん幻を追いかけているのだ。
自分を唯一認めてくれた優しい母親、現実には存在しなかったイメージを美並に重ねている。
そういう目で見られている美並が、美並自身を否定されているように感じるとは、きっと思いもしていないだろうが。
ましてや、夕べのように有沢がただただ自分の安全弁として美並を求めた後で、またハルに温かで柔らかな寝床としてだけ求められるのは,正直苦しい。
「京介…だけなんだ…」
ふいに気づいた。
真崎だけが美並を能力から入って能力を無視して求めてくれる。美並の感情に向き合って受け止めてくれる。見てほしい、とは望まれるけれど、それは街角に立つ占い師のように自分の迷いを見抜いて方向を示してほしいというのではなく、真崎京介としての存在を美並の視界に焼き付けたい、そういう熱の形だ。
「ああ……そっか」
真崎は美並を縛らない。
いや確かに、現実では指輪や約束や存在の場所や、つまりはずっと側に居てほしいと言い続けているけれど、それは美並の意志を妨げない、美並の能力を限らない。こう見てほしいとか、こう見るべきだとかは迫らない。愛してほしいとは言うけれど、愛しいものとして見ろとは言わない。
だから美並は安心して、真崎の側に居られる。
美並がどんな風に真崎を見ようとも、むしろそれが自分に新たな姿を与えてくれると言いたげに、そのまま変化し花開いていく、美並に向かって微笑みながら。
「………京介、だから」
大輔や恵子に蹂躙され、自分というものがすっぽり欠け落ちた状態で、望まれるままに応じて形を変えてきた、たとえそれが自分に苦痛を与えるものであったとしても。
その柔軟性こそが、美並にとってかけがえのない相手としての特性なのだ。
美並は相手の中にあるものを全て見つめてしまう。光も闇も、薄暗がりも。
だが、大抵の人間は自分の全てが好きだというのは稀で、好きなところ嫌いなところがあり、それを取捨選択して表現し、社会の中で生きている。『そのままの自分』ではなく『こうありたい自分』『こうあらねばならない自分』でいるために。
美並はそれを白日の下に晒してしまう、全てをただ見つめることで。
真崎は『こうありたい自分』を常に砕かれ続けてきた。『こうあらねばならない自分』であることだけを求められ、それを満たすためにエネルギーの全てを持っていかれて、真崎の中は何もなくなってしまっていた。
だが、美並は、その空洞に『無』ではなく『空間』を見つけたのだ。
『なにもない』のではなく『何でも入る』巨大な器を。
社会常識に守られなかったことが、常識を超えた発想を産み出せる力になる。意志を無視されたことが、どんな視点にも立ちうる幅に繋がる。感情を翻弄されたことが極めて正確な人間理解に転じ、厳しい条件で生き抜いたことがぎりぎりの踏み込みを可能にし、そこに『方向』が与えられれば、それはしなやかでしたたかな統率力になる。
真崎は美並の視線に自分を晒すことで、その全てを受け入れた、そういうことではないのか。
そして、美並はその真崎に相対して初めて、自分の能力の可能性に気づく。
それは。
「伊吹さん」
「あ、はい」
ふいに呼びかけられて、美並は瞬きして顔を上げた。
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