『闇を闇から』

segakiyui

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第5章

4.アングルシューター(3)

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 遅い昼ご飯はどうかと誘われたが、辞退して二人で真崎のマンションに戻った。
「何とか力を貸してくれそうですね」
「うん…」
 頷いた真崎が一瞬よろめき、壁に凭れた。
「ごめん…」
「少し休んでください、京介」
「いや……うん…そう、だね」
 拒みかけた真崎が、壁を押し退けるように体を起こす。
 緑川の画像は全てUSBに入れて持ち帰った。今更だが、有沢に渡せば、美並の気づかない情報も新たに見つかるかも知れない。それが『羽鳥』の包囲網を形作る一目になるかも知れない。
「水、飲めますか?」
「……」
 無言で真崎が首を振る。
 高山宅で口を漱がせてもらい、必死に落ち着こうとしていたが、時折苦しげに喉を鳴らしていた。
 寝室の暖房を確認し、ベッドを整え直し、枕元に一応ナイロン袋を被せた洗面器を置き、またトイレに飛び込んでしまった真崎を見に行くと、青い顔で戻ってきた。洗面所で口を洗い、壁を伝うように寝室に入り、ぐずぐずとベッドに座り込む。
「スーツを脱いでこちらに下さい」
「美並…」
「はい?」
「……抱いてて」
 のろのろと見上げてきた顔が縋るようで痛々しい。
「今、僕、自分が居ない方がいいんじゃないかって思えて、まずい感じ」
「京介」
「でも、ごめん、君を抱けなくて……抱く資格がないとしか思えなくて、でも、君が欲しくて」
 必死にことばを紡いでくれる努力に思わず泣きそうになった。
 何も言えないほど苦しいだろうに。美並が不安がると考えてくれている。
「スーツを脱いで待ってて。すぐに戻ってきます」
 近寄って背広を脱がしながら額にキスした。
「シャワー要らないよ?」
「お湯を沸かしてたんです」
「うん…」
 目を閉じて受け止めた真崎の目元が濡れている。
「ごめん」
「いいの」
 上着を脱がされた真崎が揺れるように倒れ込む。そのままシーツの中に潜り込む。
 キッチンに戻って湯を止め、玄関の鍵を閉め、電気を消して戻ってきた。目を閉じて身動きしない真崎の側に滑り込む。ぐったりした頭の下に腕を差し入れると、眉をしかめながら胸に頭を凭せかけ、しがみついてきた。抱き込まれる、熱っぽい体に深く強く。
「美並…」
「…はい」
 くぐもった声に髪にキスした。
「僕は…」
 辛いよ、いっぱい慰めて、そう続くと予想していたのに。
「……幸運だった」
「え?」
 一つ大きく胸元に息を吹きつけて真崎が繰り返す。
「僕は、美並に会えて、幸運だった」
 思いもかけないことばに瞬きした。
「さっきの話、すごく怖かったよ」
 柔らかな声が呟く。
「『羽鳥』は僕らと変わらない」
「…はい、たぶん」
「あの話の中で……僕が『羽鳥』だったかもしれない」
 低い声が冷たく響く。
「僕が孝だったかも」
 沈み込む口調。
「飯島だったり、有沢だったり……僕が大輔だったかも知れない」
 胸に落ちることばが重い。
「僕は、誰かを殺して自分も死んでいたかもしれない」
「京介…」
 静かに顔を上げてくる、闇の中で瞳がきらきらと光っている、まるでその内側に聖なる何かが宿ってでもいるように。
「でも、君に会ったから」
 伸びをして目を閉じ、唇を重ねてきた。美並も目を閉じて受け入れる、深く入り込まれるのに、何もかも奪われるに任せる。
 やがて、少しだけ離された唇が囁く。
「……僕は、僕で…真崎京介でいられた」
 柔らかで落ち着いた声だった。
 目を開くと真崎は微笑んでいた。
「君がいなければ、この僕はここにいなかった」
「それは困ります」
「僕だって困る」
 信じられないほど甘く笑う真崎が続ける。
「美並を抱けるこの僕が、凄く、好きだ」
「………っ」
 これは何の合図だろう。
 粟立つ皮膚に思う。
 これは本当に、あの、真崎京介か。
 美並に振られそうだからと自殺しかけたり、必要がないなら殺してくれと望んだり、美並の一挙一動に命綱を握られているようにぴりぴりしていた男はどこに消えてしまったのだろう。
 美並の腕に抱えられながら、美並の胸に甘えながら、けれどいつの間にかその両腕で外界の寒気から遮り、温めてくれている。
「気持ちいいよ、美並」
 ふわりと鼻先に胸に頭を寄せた真崎の髪が揺れた。
「僕は君を抱くのが一番好き」
「…はい」
「美並は?」
「私も…京介と居るのが好きです」
「違うでしょ、そこ、抱かれるのが、って言うところでしょ」
「……京介を抱くのも好きなんですけど」
「……うん」
 はにかんだ声が響いて、胸に唇が押し付けられる。
「抱いてて」
「はい」
 ぎゅう、と力を込めてみる。
「もっと」
「はい」
「……気持ちい」
 夢見るような声が零れた。
「…これだけで……イキそう…」
「っ」
 押し付けられた感触にどきりとした。
「無理じゃなかったんですか」
「本能って凄いよね」
「私は…無理ですよ」
「わかってるって」
 けどね、知っておいて欲しかったんだ。
「僕の全部は美並のもの」
「わかっています」
「過去も未来も全部」
「はい」
「だからさ、美並」
 蕩けるような囁きが続く。
「必ずここへ戻ってね…?」
「…はい」
 それほど待つまでもなく、強がっていても限界を超えたらしい真崎は寝落ちていく。
「戻りますよ、京介」
 囁き返して、もう一度、髪にキスした。
 察していたのだろう、『羽鳥』の証拠を得るために、美並が無茶をすることを。無茶をせざるを得ないことを。
 自分は大丈夫だからと手放してくれた。
 いってらしゃい、僕の美並。でも何があっても、必ずここへ戻ってきてね。
 真崎の中に育っていた信頼と強さが美並を支えてくれる。
 枕元の携帯が振動した。
 予想していた気がした。
 真崎の腕をそっと外すと、するりと抜けて解け落ちた。
 滑り出る、暖かで優しい褥から。冷たくて厳しい現実へ。
 携帯を片手に耳に当てながら立ち上がり、通話を押す。
「…はい、伊吹です」
『今よろしいですか、伊吹さん』
 有沢の掠れた声が響いた。
『お時間を頂けますか』
「…伺います」
 美並は静かに真崎の眠る寝室から出た。
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