『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

2.闇から見る眼(4)

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 さりげなく、ごくさりげなく京介は動き方を変えた。
 伊吹を一人にしないように、微妙な頃合で仕事を始めたり、電話をかけだしたりする。
 気付いたのはやはり石塚だ。
「課長?」
「んー」
 何、と書類を繰りながら応じると返答が戻らない。ちらっと横目で見遣ると相手は眼鏡の奥から冷えた視線を投げてきている。
「お昼、どうぞ」
「でも、これ始めちゃったしなあ」
 束になっている書類を示してしらっと続ける。
「何なら、牟田さんと先にお昼行ってきてよ、僕、伊吹さんと電話番してるから」
 ちょうど四人だしねー、半分ずつ交代で行けばいいでしょう?
「ああ、経理に用事があるなら、先にそれを済ませてもいいよー」
 ぎくりとしたように相子が離れた席で体を強ばらせたのを確認して、薄く笑う。
「でも」
「ん?」
「今、伊吹さん、シュレッダーかけにいって」
 石塚が困ったような口ぶりで、
「今かけなくてもいいと思うんですけど」
「ああ、なるほどねえ」
 京介は大きく頷いた。
「仕事終わりでもいいもんねえ、じゃあ、牟田さんも石塚さんも手一杯なんだね、今」
「ええ」
「そっか、じゃあ」
 残った数枚をさっさとチェックしてまとめて立ち上がり、腕時計を確認する。
「僕、お昼入ってこよう。君達は手が離せないから、しばらくここに居るよね?」
「はい」
「じゃあ、伊吹さんにも先にお昼入ってもらうね」
 それならちょうどいいでしょう。
 にっこり笑うと、石塚が引きつった。

「自分から爆弾踏まなくてもいいのに」
 一人ごちながら、京介はくすくす笑う。
 石塚にしてみれば、交代で休憩を取らなくてはならない時間帯に、仕事終わりにすればいいようなことに時間を裂いている伊吹を揶揄したつもりなのだろうが、そのシュレッダーかけだって、もともとは石塚が昨日の分を相子に頼み、相子がそれを忘れたのか放置したのか、とにかく終わらせないで帰ったから、ボックスが一杯になってしまったのだ。見兼ねて伊吹が運んでいったのを京介は見ている。
「あれだけの量、そうそう終わらないだろうに」
 お昼にかかって始めちゃって、伊吹さんは昼飯食べない気なのかな。でもって、今日の昼飯もおにぎり、なのかな。
「……」
 ごくん、と思わず唾を呑み込んで、ちょっと我ながら呆気に取られた。
「……えらく飢えてる、ね、僕?」
 たかがおにぎりなのに。
 思わず口を押さえてしまい、自分の仕草にまた戸惑う。
 なんで今口を押さえてるのかな。何かまずいことでも言いそう? 
「……伊吹さんの……おにぎり……」
 そっと口の中でぼそぼそ、と続けてみる。
「食べたい…かも」
 けれど、どうやってねだろう?
「……難問だな」
 それよりまず、今日の昼飯が何か確かめなくちゃな。思った瞬間に、お弁当ならそれはそれで嬉しいけれどな、と間髪入れずに思ってまた戸惑った。
「何か……変、だね、僕」
 何か、妙に、不安な、落ち着かない感覚、どちらかというと。
「………怖い……?」
 京介は眉を寄せた。
 そうだ、自分は今怖がっている。気付いて愕然とする。
 伊吹のおにぎりを食べたくて、それが手に入らないかもしれないと思って、怖がっている? いや、そうじゃない、そうじゃなくて、これは。
 がーーーっとふいにシュレッダーの音が響いて京介は我に返った。
 廊下の隅の古い大きなシュレッダーに向かって、伊吹が次々とボックスの中の紙を滑らせている。その隣に伊吹の半分ぐらいはありそうな大きなナイロン袋が置かれているのに、シュレッダーの音が止まっていたわけを知った。中身の紙屑が一杯になったので、入れ物の袋を交換していたのだ。
 一度伊吹がそれを交換しているところに出くわしたことがあるが、サンタクロースのようなでかい袋を顔を紅潮させて必死に持ち上げていて、何だか凄く可愛かった。
「……うん…やっぱり綺麗、だな」
 京介は伊吹がくるくると掌を翻す光景にそっと見愡れる。
 計算されているというか、無駄がないというか。
 その仕事をするのに一番滑らかな動きというものがあるが、伊吹のそれはいつも本当に滞りがなくて綺麗だ。紙を取り出す、端をそろえる、滑り込ませる指先、次の紙を探る手付き、静かに伏せられた目蓋の下の瞳が眠っているように穏やかで、けたたましいシュレッダーの音が騒音ではなく、伊吹が踊っているのに合わせた伴奏のようにも思えてくる。
「んっ…?」
 ふと翻った伊吹の掌の間で黄色い紙が揺れたのに気付き、京介は体を起こして急ぎ足に近寄った。
「これ、全部シュレッダーかけるの?」
 はっとしたように振り返る伊吹が次に掴もうとしていた黄色の紙を確認する。やっぱり。未決書類の一枚を確認して素早く中身を頭に叩き込み、さりげなくボックスに戻す。
「凄い量だな……伊吹さん一人でするの?」
「はい……石塚さん、データ入力が終わらなくて」
 嘘つけ。
 この未決書類はデータ入力してるからこそ放り出されているものだ。けれど、本来ならば京介が目を通してからシュレッダーにかけなくてはならない。データそのものはパソコンに保存されているから処理しても問題にはならないが、伊吹の不注意を責める道具にはできる。
「すみません……これ、すませてしまわないと」
「ああ、ごめん、邪魔したね」
 それじゃ、と手を上げてもう一度課に戻った。
「石塚さん?」
「はい」
「伊吹さんに未決書類のシュレッダー、ちゃんと教えてなかったね」
「え…」
「今さ、シュレッダーかけられる寸前で見つけちゃった」
 目を細めて笑うと、石塚が強ばった顔になる。
「ちゃんと目を通したから安心してね」
「…はい」
「や、これでデータ入力済んでなかったら大変だったよ~、済んでるよね?」
「……確認します」
「よろしく」
 キーボードを叩き出す石塚に、本当はデータ消しておいて騒いでもらってもよかったけど、そこまでするのは大人じゃないしね、とこっそり笑って、京介は機嫌よくもう一度シュレッダー前に戻っていく。
 さて、今度こそおにぎりかどうか聞いてみよう。
 廊下で相子とすれ違う。あっさり無視して通り過ぎ、やれやれさっきのを見に来たのかとうんざりしながら顔を上げ、伊吹がふう、と溜め息をついたのに立ち止まった。
「結婚……かあ」
 結婚?
 頬を殴られたような衝撃に瞬きする。
 誰が?
 伊吹が?
 誰と?
「……」
 思わず口を押さえていた。
 その耳に、
「息苦しいったらありゃしない」
 息苦しい?
 …………じゃあ、まだ当分はしない、ということだよね?
 ほっとした途端に再び、柔らかな声で、
「夢の、また、夢」
 ……………。
 京介の頭の中でまた思考が凍ったような気がした。
 夢の、また、夢。
 裏返すならば、本当は、したい、ということじゃないか。
 誰と?
 ひやりとしたものが内側に生じて顔が強張る。
 早く手を打とう。
 シュレッダーは終わったらしい。ボックスをまとめ、飼い犬にするようにぽんと優しく機械を叩いた伊吹に、脚が勝手に動いてコーヒーを準備する。
 何をとか何でとかはもうどうでも良かった。
 砂糖は多め、氷はなし。よし。
 顔を上げた伊吹が驚いたように動きを止めた。コップを差し出した手がちょっと震えたけれど、にこやかに笑ってみせる。
「おつかれさま。コーヒーどうかな」
 
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