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第1章
6.月の下(3)
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「ここだよ」
黙って手を繋いだまま山を登って、京介は慣れた場所に辿りつく。
「綺麗なところですね」
じっと見ていた伊吹がぽつりと言って、思わず振り向いた。
「綺麗? ここが? ……寂しいところじゃないの?」
「ううん、凄く綺麗です」
微笑む伊吹が優しく繰り返してどきどきする。
どちらかというと月光を浴びて立っている、君の方がうんと綺麗だ。
口から零れかけたことばを京介は苦笑しながら呑み込む。
できすぎた台詞みたいで嫌だな、そう思ったのに、それ以上に今の気持ちを表すことばが見つからなくて困った。
ことばが見つからないなんて、今までそんなことはなかったのに。
胸が詰まって苦しかった。
気持ちを吐き出したくてたまらないのに、その苦しさが永遠に続いてもいいような気がした。
目を閉じて掌の中の温もりを味わう。身体の中がほんわりと甘くなる。満たされて、落ち着く。
そうか、と唐突に気付いた。
人は心底満足すると、ことばなんて要らないんだね。
今ここで伊吹が手を預けてくれている、それだけでもう『いっぱい』になる。
何も話さなくてもいい、どこへも行かなくてもいい。これ以上距離を縮めることさえもう要らないから、ただずっとこうして隣に居て手を繋いでいてほしい。
息苦しさが我慢しきれなくて、ほぅ、と微かに息を吐くと、伊吹が尋ねるように振り返った。
「伊吹さんには僕と違うものが見えてるんだね」
伊吹は不思議そうに首を傾げる。
「誰でもそうじゃないですか」
「そう、なのかな」
「そうですよ……けれど、ここの綺麗さはちょっと見せてあげたいな」
柔らかい声で伊吹が言って、思わず息を呑んだ。
見せて、あげたい?
でも、まさか、僕に、じゃないよね。
そう思いつつ、おそるおそる尋ねた。
「僕に…?」
「はい」
今ここに他の誰が居るんですか。
そう言いたげな顔で伊吹が頷くのが、夢のように思えた。
君のものを、僕にくれる、という?
「なんで?」
「え?」
事もなげに伊吹は笑う。
「綺麗だから」
与えられたのは信頼だけ、それでもいいと思っていた気持ちが湖の魚みたいに跳ねた。
もっと望んでいい、のかもしれない?
込み上げる興奮に笑みが零れてしまう。
「何?」
「いや……なんか嬉しいなあと思って」
伊吹は京介の中の熱をもう知っている。その熱をどう果たそうとするかもわかっている。
わかっていながら、京介の隣で、京介の手に自分を任せていてくれる。
差し出していない望んでもいないのに奪おうとする相手の不愉快さはよく知っている。知っているからこそ、それを見せつけた今でも伊吹が側に居てくれるのが、同情であれ何であれ、拾えるものなら何でもいいと思っていた。
なのに、そんな境を軽々越えて、今伊吹は京介の心を思って踏み込んできてくれている。
「そうですか?」
「うん」
もっと。
頷いて、胸の中で響いた声にぞくりと震えてしまったのを悟られまいと目を逸らせた。それでも伊吹が自分を見上げている視線を感じて、顔が熱くなる。
「ちょっと見回ってきていいですか?」
「うん」
頷くしかできない、とんでもないことを口走りそうで。
恥ずかしい、と思った。月明かりだけの夜でよかった、とも思った。
けれど同時に、逃げても背けても隠しても、もっと奥まで踏み込んできて隅々まで見てほしい、そんなうねりが波打って、視界が霞んだ。
おかしい。どこかおかしい。
何だかこのまま跪いて、伊吹の足下に頭を垂れて、穏やかに降ろされる手にただ優しく撫でられていたいような気がする。ねだって甘えて、背中から首に滑る指先に身体を反らせて声を上げる、そんな自分を想像して呼吸が早まる。
「手、離してもらえます?」
戸惑ったように伊吹が言って、かろうじて我に返った。
潤んだ目を瞬きしながら、京介は強ばった指を開く。のろのろした仕草に伊吹は苛立った様子もない。掌を開くまでじっと手を動かさずにいてくれて、ようやく開いた掌から静かに手を抜いていく。月光の中、京介の掌の上数㎝、伊吹の手がふわりと浮かぶ。
一頭の蝶に見えた。
白く光を跳ねる掌の泉から、今まさに羽化して舞い上がっていく、陰影に縁取られて輝く綺麗な蝶。
行かないで。
胸迫るような思いでとっさに握り直そうとした指を堪えた。
力の限り握ってしまえば、一瞬で蝶が死ぬのはわかっている。羽根をぼろぼろにして、虚ろな黒い目で見上げて動かなくなってしまう。
それはあの夜の自分だ。
べたべたになって、血や涙や汗に汚れて、赤土の中で芋虫みたいに転がって、荒い息を吐く大輔をただ見上げていた。
自分の中に大輔が居る。大輔の中に自分が居る。倒れた自分が京介を見上げてくる。
酷いことなんだ。
あれは酷いことなんだ。
だから二度と繰り返さない。
僕は二度と繰り返さない。
伊吹の手が離れていくのを泣きそうになりながら見送る。
どんなに欲しくても、あんな酷いことはもうしない。けれど、けれど。
それでも伊吹には触れてほしい。京介を暴いて入ってきてほしい。
からっぽになった手を降ろしていくのと重なって、自分の中で大きな何かが落ちていく。それを見下ろして目を伏せながら、視界を潤ませていたものが膨れ上がり、頬を伝った。
あんな酷いことなのに、それを望む自分が居る。酷いことは嫌だ。けれど伊吹には触れてほしい。心が二つに引き裂かれる。どうしてここから出ればいいのかわからない。
泣いているのだと思うこともなく、京介は静かに泣き続けた。
どれほどそうしていたのだろう。
我に返ると伊吹は広場の隅の墓場を覗き込んでいた。
「……ぼ……?」
一つ一つ眺めていたが、手前のところで首を傾げる。
京介は手の甲で涙を拭った。ゆっくり近付いて、
「ぼけ」
「ぼけ?」
きょとんと伊吹が振り返る。
「うん。僕が初めて飼った猫」
小さくて白くてまだほんの子猫だったんだけど。
黙って手を繋いだまま山を登って、京介は慣れた場所に辿りつく。
「綺麗なところですね」
じっと見ていた伊吹がぽつりと言って、思わず振り向いた。
「綺麗? ここが? ……寂しいところじゃないの?」
「ううん、凄く綺麗です」
微笑む伊吹が優しく繰り返してどきどきする。
どちらかというと月光を浴びて立っている、君の方がうんと綺麗だ。
口から零れかけたことばを京介は苦笑しながら呑み込む。
できすぎた台詞みたいで嫌だな、そう思ったのに、それ以上に今の気持ちを表すことばが見つからなくて困った。
ことばが見つからないなんて、今までそんなことはなかったのに。
胸が詰まって苦しかった。
気持ちを吐き出したくてたまらないのに、その苦しさが永遠に続いてもいいような気がした。
目を閉じて掌の中の温もりを味わう。身体の中がほんわりと甘くなる。満たされて、落ち着く。
そうか、と唐突に気付いた。
人は心底満足すると、ことばなんて要らないんだね。
今ここで伊吹が手を預けてくれている、それだけでもう『いっぱい』になる。
何も話さなくてもいい、どこへも行かなくてもいい。これ以上距離を縮めることさえもう要らないから、ただずっとこうして隣に居て手を繋いでいてほしい。
息苦しさが我慢しきれなくて、ほぅ、と微かに息を吐くと、伊吹が尋ねるように振り返った。
「伊吹さんには僕と違うものが見えてるんだね」
伊吹は不思議そうに首を傾げる。
「誰でもそうじゃないですか」
「そう、なのかな」
「そうですよ……けれど、ここの綺麗さはちょっと見せてあげたいな」
柔らかい声で伊吹が言って、思わず息を呑んだ。
見せて、あげたい?
でも、まさか、僕に、じゃないよね。
そう思いつつ、おそるおそる尋ねた。
「僕に…?」
「はい」
今ここに他の誰が居るんですか。
そう言いたげな顔で伊吹が頷くのが、夢のように思えた。
君のものを、僕にくれる、という?
「なんで?」
「え?」
事もなげに伊吹は笑う。
「綺麗だから」
与えられたのは信頼だけ、それでもいいと思っていた気持ちが湖の魚みたいに跳ねた。
もっと望んでいい、のかもしれない?
込み上げる興奮に笑みが零れてしまう。
「何?」
「いや……なんか嬉しいなあと思って」
伊吹は京介の中の熱をもう知っている。その熱をどう果たそうとするかもわかっている。
わかっていながら、京介の隣で、京介の手に自分を任せていてくれる。
差し出していない望んでもいないのに奪おうとする相手の不愉快さはよく知っている。知っているからこそ、それを見せつけた今でも伊吹が側に居てくれるのが、同情であれ何であれ、拾えるものなら何でもいいと思っていた。
なのに、そんな境を軽々越えて、今伊吹は京介の心を思って踏み込んできてくれている。
「そうですか?」
「うん」
もっと。
頷いて、胸の中で響いた声にぞくりと震えてしまったのを悟られまいと目を逸らせた。それでも伊吹が自分を見上げている視線を感じて、顔が熱くなる。
「ちょっと見回ってきていいですか?」
「うん」
頷くしかできない、とんでもないことを口走りそうで。
恥ずかしい、と思った。月明かりだけの夜でよかった、とも思った。
けれど同時に、逃げても背けても隠しても、もっと奥まで踏み込んできて隅々まで見てほしい、そんなうねりが波打って、視界が霞んだ。
おかしい。どこかおかしい。
何だかこのまま跪いて、伊吹の足下に頭を垂れて、穏やかに降ろされる手にただ優しく撫でられていたいような気がする。ねだって甘えて、背中から首に滑る指先に身体を反らせて声を上げる、そんな自分を想像して呼吸が早まる。
「手、離してもらえます?」
戸惑ったように伊吹が言って、かろうじて我に返った。
潤んだ目を瞬きしながら、京介は強ばった指を開く。のろのろした仕草に伊吹は苛立った様子もない。掌を開くまでじっと手を動かさずにいてくれて、ようやく開いた掌から静かに手を抜いていく。月光の中、京介の掌の上数㎝、伊吹の手がふわりと浮かぶ。
一頭の蝶に見えた。
白く光を跳ねる掌の泉から、今まさに羽化して舞い上がっていく、陰影に縁取られて輝く綺麗な蝶。
行かないで。
胸迫るような思いでとっさに握り直そうとした指を堪えた。
力の限り握ってしまえば、一瞬で蝶が死ぬのはわかっている。羽根をぼろぼろにして、虚ろな黒い目で見上げて動かなくなってしまう。
それはあの夜の自分だ。
べたべたになって、血や涙や汗に汚れて、赤土の中で芋虫みたいに転がって、荒い息を吐く大輔をただ見上げていた。
自分の中に大輔が居る。大輔の中に自分が居る。倒れた自分が京介を見上げてくる。
酷いことなんだ。
あれは酷いことなんだ。
だから二度と繰り返さない。
僕は二度と繰り返さない。
伊吹の手が離れていくのを泣きそうになりながら見送る。
どんなに欲しくても、あんな酷いことはもうしない。けれど、けれど。
それでも伊吹には触れてほしい。京介を暴いて入ってきてほしい。
からっぽになった手を降ろしていくのと重なって、自分の中で大きな何かが落ちていく。それを見下ろして目を伏せながら、視界を潤ませていたものが膨れ上がり、頬を伝った。
あんな酷いことなのに、それを望む自分が居る。酷いことは嫌だ。けれど伊吹には触れてほしい。心が二つに引き裂かれる。どうしてここから出ればいいのかわからない。
泣いているのだと思うこともなく、京介は静かに泣き続けた。
どれほどそうしていたのだろう。
我に返ると伊吹は広場の隅の墓場を覗き込んでいた。
「……ぼ……?」
一つ一つ眺めていたが、手前のところで首を傾げる。
京介は手の甲で涙を拭った。ゆっくり近付いて、
「ぼけ」
「ぼけ?」
きょとんと伊吹が振り返る。
「うん。僕が初めて飼った猫」
小さくて白くてまだほんの子猫だったんだけど。
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