46 / 510
第1章
8.開かれた過去(3)
しおりを挟む
それが、週末、のこと。
「手、動いてないわよ」
「あ、はい」
石塚に指摘されて、美並は慌てて資料を捲った。
真崎に耳元で囁かれてぼうっとしていたのかと思われるのは恥ずかしいが、根掘り葉掘り聞かれてもまた困る。
やっぱり週末の旅行で距離を縮め過ぎたのかもしれない。
というか、本当は、むしろこの際はっきりと、お互いの距離を明らかにするつもりで同行したのに、結果的には婚約者として家族に紹介されたような形になってしまった。
あの日、夜遅く家に戻ると、さすがにくたくただった。
またどうぞ、と笑って送りだしてくれた恵子の目は笑ってなかったし、真崎に向けるピンク色の靄には時々ぎらぎら光るオレンジ色が混じったりしていて、しかも初めてのことだけど、それに意識を向けると山の墓地で経験した背中のあたりにちくりとする傷みを感じた。
ということは、あの伝わってきた思いの大本の根源は恵子にあるということで、それを真崎が拾ってるか中継してるということなのだろう。
そして、それは真崎の中にも「慰めてくれるなら誰でもいい」的なものがある、ということを意味する。
正直なところ、そういう人間と付き合うのはごめんだ。
ただでさえ、他人と深く付き合うのに抵抗しつつあるのに、何もわざわざ真崎のような複雑でしかも多少壊れている男なんて止めたほうがいい。
ついでに、真崎には大輔、という危ない兄がくっついている。
弟を欲望のはけ口にしてしまうことが平気な人間、しかもその弟と平然と家族としてやっていけてる人間というのは、あまりにも難しい相手だ。詳しい事情がわからないから、ほんとのところはどうにも言えないが、それでもかなり不愉快だ。
不快感は丁寧に覆ったつもりだったけれど、帰りを送ってくれた大輔は妙にちりちりしていて、行きの「豪放磊落、快活な明るい体育会系の男」はどこにもいなくなっていた。そればかりか、時々じろりと真崎を見遣る目の底がぞっとするほど冷えているのがわかったし、その目になぜか苛立ちを加えて美並を見たりもした。
十代の子どもではないし、美並もそれなりに修羅場は潜ってきているから、こちらの不愉快さが知らぬ間に伝わっているのか、あるいは真崎と何かあったのかと思った程度で、いらつくまでもなかったけれど、大輔にとってはそれが一層落ち着かない反応だったらしい。夕食の席で彼を包んでいた青い炎が、どす黒く濁りながら真崎の足下へ這い寄っていっては、相手の半透明の繭のようなものに弾かれてるのは、見ていて楽しいものではなかった。
いろんな人間がいる、よねえ。
溜め息まじりにデータを打ち込み始める。
本当にいろんな人間がいる。
ほっとできる気配の人間に出会うことはまた稀で、その稀な一人が大石だった。
データの中の名前に同じものを見つけて、つい手が止まる。
圭吾。
『圭吾』
笑いながら呼んだ自分の声が耳に戻ってくる。
もう二度と呼ぶことはないだろう響きは懐かしく、苦い。
圭吾、と打ち込みながら静かに重く思い出す。
大石と付き合っていたのは、時間にしてはそれほど長くなかった。
大学を出て入った職場は、今で言うなら介護福祉センターのようなもので『さわやかルーム』と名付けられていた。
美並はそこで施設に来るお年寄り達を出迎え、同じ敷地内にある病院やリハビリ室、ミニホールやカルチャー教室などへ送り届けたり待ち時間の相手をしていたりしていた。
介護系の免許も最低限のものは取得していたけれど、同期に入った仲間が次々新しい資格を手にしていく中で、伊吹はそれにあてるべきエネルギーを、時間や人材や設備などの足りなさで置き去られていく人達と向き合うのに費やしていた。
大石圭吾はそこに出入りしていた岩倉産業という会社の社員だった。
もともとはデザイナーに布地を提供する会社で、『さわやかルーム』に出入りしていたのは会社の会長が通い出したせいだと聞いた。
大石は創業当初に会長にスカウトされて岩倉産業に入社し、その後、会長の数々の引き立てもあって昇進も早かったらしい。
『御恩に報いたいと思ってるんだ』
柔らかく穏やかに笑う顔の温かさに魅かれた。会長への接し方の丁寧さにも好感を持った。
何より、この『さわやかルーム』とは名ばかりの権力争い、縄張り争い的な空気に反応するものを、大石は持っていなかった。
急な残業を押しつけあって結果的に美並が残ることになった夜、ばたばた走り回っていた美並は、忙しいのにごめんね、と大石に呼ばれた。
今日は会長さんはお見えじゃなかったですよ、と笑うと、そうじゃなくて、とそっと差し出されたのは新聞紙の包み。不思議に思って開けようとすると、後で休憩時間にでも、と微笑まれた。
『こんなこと言っちゃ何だけど、できれば伊吹さん一人の時に』
『え?』
『買ったんだけど、おいしそうだから食べちゃったら、中途半端に余っちゃって』
『……焼き芋……』
『男のくせに、こういうのには目がなくて』
照れくさそうに笑った大石に、ありがとうございます、と頭を下げた一瞬、ふ、と視界を微かな気配が過った。
『……あまり無理しないでくださいね?』
『え』
『お腹……痛むんじゃありませんか』
『……そういうことまでわかるんだ、専門職って凄いね』
実は最近きつく痛むことがあってさ、と頷かれて心配になった。
『お腹が空いた時にですか』
『そうだね、そういうことが多いかもしれない』
美並は目を凝らして大石の体を見た。微かに中心部が澱んでいるような気がした。
『…つまみ食いみたいに食べてちゃだめですよ』
思わず呟いていた。
『ちゃんと時間を決めて、御飯食べて下さいね』
ちょっと目を見開いた大石は、わかった、そうするよ、と帰って行った。
結局その後で受診して軽い胃炎と診断され、それをまた美並に話しにきてくれて。そこから映画や食事やホテルのクリスマス・ミニコンサートなどの付き合いが始まった。
けれどそれも、年末までだった、と言えるかも知れない。
大晦日に一緒に神社へ出かけて、一緒に新年を迎えよう。
優しい誘いを受けて、初めてのことで嬉しくて、いそいそと出かけたその日、美並は大石にプロポーズされた。
一瞬ためらったのは、そして、考えさせて下さい、そう応えたのは、自分の能力を考えたからだ。
付き合っているうちはいい。恋人同士でいるうちも。
けれど結婚となると、調子のいい時悪い時がある。大石が調子を崩すならまだしも、美並が体調を崩した時に、能力がどう出てくるかわからない。周囲の内側をやたらと覗いてしまって、大石を疲れ切らせてしまわないか。ましてや、子どもにこの能力が遺伝するかどうかとか、美並に発現しだしたのは成長してからだったが小さな子どもの時に出てしまったらとか、考えても仕方のないことばかりを一気に考えてしまった。
大石は悲しそうな顔をして、わかった、待つよ、と言ってくれた。
それからついでのように、今会社で大きな取り引きが動いていて、会長は乗り気で進めているし、自分もうまく行きそうだと思ってる、ただ社長だけが反対しているんだけど、うまく行くかな、と尋ねられた。
それまでも時々そういう質問は受けていて、小さなアドバイスはしたし、それまでうまくいっていたからこその問い、美並もそれほど重要に思わずに、少し考えて大丈夫そうですけど、と頷いた。
まさかそれが会社の命運を左右するようなものだとは思わず、大石が美並のことばを鵜呑みにして、無理矢理に押し通していくなどとは想像もせずに。
「手、動いてないわよ」
「あ、はい」
石塚に指摘されて、美並は慌てて資料を捲った。
真崎に耳元で囁かれてぼうっとしていたのかと思われるのは恥ずかしいが、根掘り葉掘り聞かれてもまた困る。
やっぱり週末の旅行で距離を縮め過ぎたのかもしれない。
というか、本当は、むしろこの際はっきりと、お互いの距離を明らかにするつもりで同行したのに、結果的には婚約者として家族に紹介されたような形になってしまった。
あの日、夜遅く家に戻ると、さすがにくたくただった。
またどうぞ、と笑って送りだしてくれた恵子の目は笑ってなかったし、真崎に向けるピンク色の靄には時々ぎらぎら光るオレンジ色が混じったりしていて、しかも初めてのことだけど、それに意識を向けると山の墓地で経験した背中のあたりにちくりとする傷みを感じた。
ということは、あの伝わってきた思いの大本の根源は恵子にあるということで、それを真崎が拾ってるか中継してるということなのだろう。
そして、それは真崎の中にも「慰めてくれるなら誰でもいい」的なものがある、ということを意味する。
正直なところ、そういう人間と付き合うのはごめんだ。
ただでさえ、他人と深く付き合うのに抵抗しつつあるのに、何もわざわざ真崎のような複雑でしかも多少壊れている男なんて止めたほうがいい。
ついでに、真崎には大輔、という危ない兄がくっついている。
弟を欲望のはけ口にしてしまうことが平気な人間、しかもその弟と平然と家族としてやっていけてる人間というのは、あまりにも難しい相手だ。詳しい事情がわからないから、ほんとのところはどうにも言えないが、それでもかなり不愉快だ。
不快感は丁寧に覆ったつもりだったけれど、帰りを送ってくれた大輔は妙にちりちりしていて、行きの「豪放磊落、快活な明るい体育会系の男」はどこにもいなくなっていた。そればかりか、時々じろりと真崎を見遣る目の底がぞっとするほど冷えているのがわかったし、その目になぜか苛立ちを加えて美並を見たりもした。
十代の子どもではないし、美並もそれなりに修羅場は潜ってきているから、こちらの不愉快さが知らぬ間に伝わっているのか、あるいは真崎と何かあったのかと思った程度で、いらつくまでもなかったけれど、大輔にとってはそれが一層落ち着かない反応だったらしい。夕食の席で彼を包んでいた青い炎が、どす黒く濁りながら真崎の足下へ這い寄っていっては、相手の半透明の繭のようなものに弾かれてるのは、見ていて楽しいものではなかった。
いろんな人間がいる、よねえ。
溜め息まじりにデータを打ち込み始める。
本当にいろんな人間がいる。
ほっとできる気配の人間に出会うことはまた稀で、その稀な一人が大石だった。
データの中の名前に同じものを見つけて、つい手が止まる。
圭吾。
『圭吾』
笑いながら呼んだ自分の声が耳に戻ってくる。
もう二度と呼ぶことはないだろう響きは懐かしく、苦い。
圭吾、と打ち込みながら静かに重く思い出す。
大石と付き合っていたのは、時間にしてはそれほど長くなかった。
大学を出て入った職場は、今で言うなら介護福祉センターのようなもので『さわやかルーム』と名付けられていた。
美並はそこで施設に来るお年寄り達を出迎え、同じ敷地内にある病院やリハビリ室、ミニホールやカルチャー教室などへ送り届けたり待ち時間の相手をしていたりしていた。
介護系の免許も最低限のものは取得していたけれど、同期に入った仲間が次々新しい資格を手にしていく中で、伊吹はそれにあてるべきエネルギーを、時間や人材や設備などの足りなさで置き去られていく人達と向き合うのに費やしていた。
大石圭吾はそこに出入りしていた岩倉産業という会社の社員だった。
もともとはデザイナーに布地を提供する会社で、『さわやかルーム』に出入りしていたのは会社の会長が通い出したせいだと聞いた。
大石は創業当初に会長にスカウトされて岩倉産業に入社し、その後、会長の数々の引き立てもあって昇進も早かったらしい。
『御恩に報いたいと思ってるんだ』
柔らかく穏やかに笑う顔の温かさに魅かれた。会長への接し方の丁寧さにも好感を持った。
何より、この『さわやかルーム』とは名ばかりの権力争い、縄張り争い的な空気に反応するものを、大石は持っていなかった。
急な残業を押しつけあって結果的に美並が残ることになった夜、ばたばた走り回っていた美並は、忙しいのにごめんね、と大石に呼ばれた。
今日は会長さんはお見えじゃなかったですよ、と笑うと、そうじゃなくて、とそっと差し出されたのは新聞紙の包み。不思議に思って開けようとすると、後で休憩時間にでも、と微笑まれた。
『こんなこと言っちゃ何だけど、できれば伊吹さん一人の時に』
『え?』
『買ったんだけど、おいしそうだから食べちゃったら、中途半端に余っちゃって』
『……焼き芋……』
『男のくせに、こういうのには目がなくて』
照れくさそうに笑った大石に、ありがとうございます、と頭を下げた一瞬、ふ、と視界を微かな気配が過った。
『……あまり無理しないでくださいね?』
『え』
『お腹……痛むんじゃありませんか』
『……そういうことまでわかるんだ、専門職って凄いね』
実は最近きつく痛むことがあってさ、と頷かれて心配になった。
『お腹が空いた時にですか』
『そうだね、そういうことが多いかもしれない』
美並は目を凝らして大石の体を見た。微かに中心部が澱んでいるような気がした。
『…つまみ食いみたいに食べてちゃだめですよ』
思わず呟いていた。
『ちゃんと時間を決めて、御飯食べて下さいね』
ちょっと目を見開いた大石は、わかった、そうするよ、と帰って行った。
結局その後で受診して軽い胃炎と診断され、それをまた美並に話しにきてくれて。そこから映画や食事やホテルのクリスマス・ミニコンサートなどの付き合いが始まった。
けれどそれも、年末までだった、と言えるかも知れない。
大晦日に一緒に神社へ出かけて、一緒に新年を迎えよう。
優しい誘いを受けて、初めてのことで嬉しくて、いそいそと出かけたその日、美並は大石にプロポーズされた。
一瞬ためらったのは、そして、考えさせて下さい、そう応えたのは、自分の能力を考えたからだ。
付き合っているうちはいい。恋人同士でいるうちも。
けれど結婚となると、調子のいい時悪い時がある。大石が調子を崩すならまだしも、美並が体調を崩した時に、能力がどう出てくるかわからない。周囲の内側をやたらと覗いてしまって、大石を疲れ切らせてしまわないか。ましてや、子どもにこの能力が遺伝するかどうかとか、美並に発現しだしたのは成長してからだったが小さな子どもの時に出てしまったらとか、考えても仕方のないことばかりを一気に考えてしまった。
大石は悲しそうな顔をして、わかった、待つよ、と言ってくれた。
それからついでのように、今会社で大きな取り引きが動いていて、会長は乗り気で進めているし、自分もうまく行きそうだと思ってる、ただ社長だけが反対しているんだけど、うまく行くかな、と尋ねられた。
それまでも時々そういう質問は受けていて、小さなアドバイスはしたし、それまでうまくいっていたからこその問い、美並もそれほど重要に思わずに、少し考えて大丈夫そうですけど、と頷いた。
まさかそれが会社の命運を左右するようなものだとは思わず、大石が美並のことばを鵜呑みにして、無理矢理に押し通していくなどとは想像もせずに。
0
あなたにおすすめの小説
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
友達婚~5年もあいつに片想い~
日下奈緒
恋愛
求人サイトの作成の仕事をしている梨衣は
同僚の大樹に5年も片想いしている
5年前にした
「お互い30歳になっても独身だったら結婚するか」
梨衣は今30歳
その約束を大樹は覚えているのか
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
教師と生徒とアイツと俺と
本宮瑚子
恋愛
高校教師1年目、沢谷敬介。
教師という立場にありながら、一人の男としては屈折した感情を持て余す。
そんな敬介が、教師として男として、日に日に目で追ってしまうのは……、一人の女であり、生徒でもあった。
★教師×生徒のストーリーながら、中身は大人風味の恋愛仕立て。
★未成年による飲酒、喫煙の描写が含まれますが、あくまでストーリー上によるものであり、法令をお守り下さい。
★こちらの作品は、他サイトでも掲載中のものに、加筆・修正を加えたものです。
巨×巨LOVE STORY
狭山雪菜
恋愛
白川藍子は、他の女の子よりも大きな胸をしていた。ある時、好きだと思っていた男友達から、実は小さい胸が好きと言われ……
こちらの作品は、「小説家になろう」でも掲載しております。
溺愛ダーリンと逆シークレットベビー
吉野葉月
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。
立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。
優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる