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第1章
9.オープン・ザ・ゲイト(1)
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伊吹と実家に戻ったのが週末。
「真崎君はいるかっ」
「はぁい」
週明け一番に響き渡った聞き覚えのある声に、京介はやれやれと顔を上げる。
「あれ、細田課長、おはようございます」
「おはようじゃないっ、ちょっと来てくれっ、話があるっ」
「えーと、困ったな」
また面倒ごとを持ち込んできたよ、と苦笑しながら伊吹を示した。
「僕、今伊吹さんにデータ入力頼んでて」
「そんなもの、後でいいっ」
おいおい、また勝手なことを。
呆れ返ったが、伊吹がびっくりした顔で細田を見ているのに、多少はいいところを見せたいな、と欲が湧いた。
「や、牟田さんが辞めちゃったから、あんまり後回しにすると、そちらの仕事に差し障っちゃうんじゃないかなー」
「うちのデータなのか」
「品質管理課のデータもいっぱいありますからねー」
さらりと流して、これでしばらく伊吹さんと居られるよね、とにこにこ顔を戻そうとすると、
「課長」
「はい?」
「もう十分わかりましたから、後はやれると思います」
「え?」
「なら、手は空いたんだろうっ、こっちへ来てくれ!」
「伊吹、さぁん?」
「はい、何でしょう?」
突き放すように微笑まれてがっくりした。
そうなんだよね、この人は。帰ってからもそっけなくてさ、こんなことならあの晩、プライドも未来も捨てて泣かせちゃえばよかったのかな。
「仕方ないですね、行きますよ」
「第二で頼むっ」
「はぁい」
第二会議室、ね。確実に面倒ごとの気配だな。
となると、気力を充実させていかないとね。
思いついたことにくすりと笑って、そんな顔は露ほども見せずに伊吹に向き直る。
「伊吹さん?」
「あ、はい」
「さっきのここだけは」
パソコン画面に集中していた伊吹が無防備に顔を上げてくるのを待ち構え、ちゅ、と耳元に伊吹にだけ聞こえる音を響かせてキスした。
「っっっ!」
「あれ? ……どうかした?」
一気に赤くなった伊吹の反応が嬉しくて、声を低めて重ねる。
「わからなかった? ……弱いの、こういうの」
触れた耳がどんどん赤く染まっていく。そこから滲むように頬に広がる紅が綺麗で、とても楽しい。答えがないのをいいことに、じゃあもっかいやろう、と顔を寄せる。
「あのね、これはね」
「……っ、わかった! 十分わかりましたからっ!」
「そうかなー、まだわかってないんじゃないかな」
「……せくはらだって叫ぶぞ」
む、と唇を尖らせた伊吹が睨むのも楽しくて、
「毎日美並♪って呼び捨てて、社内報に婚約しましたっ♪って書いてもらうよ?」
「うっ」
「真崎くんっ!」
「はいはい、今行きますって。じゃあ、伊吹さん、後よろしく♪」
じろりと見遣ってきた伊吹はすぐにそっぽを向く。けれど前ほど京介を無視できていないのは、神経質そうに髪で隠した耳の赤さが濃くなっていくのでもわかる。
第二会議室へ向かいながら、京介の足は軽い。
よかった、無闇に抱いてなくて。
今はしみじみそう思う。
あの時は流されてくれたとしても、やっぱり伊吹は許してくれなかっただろう。会社は辞めないかもしれないが、ずっと軽蔑した目で見られて、距離を取られて笑ってもくれなくなるよりは、今のほうがずっと楽しい。
少しずつでも距離を縮めて、少しずつでも信頼を得て、いつかきっと伊吹から。
「欲しい、って言ってくれる、かな」
そうしたら。
そうしたら。
「あの」
「はい?」
第二会議室のドアに手をかけた矢先、向こうからやってきた男に呼び止められた。
品のいいシャツに柔らかな色調のジャケットとスラックス、嫌味のないノーネクタイの首あたりが清潔な感じがある。一目見て、女性は安心するだろう、という容貌の男。
「第二会議室はどちらでしょう」
「ああ、ここですよ……細田課長に御用ですか?」
「ええ」
にこり、と男は静かに笑った。
「問題について話し合おうと言われまして」
「ああ、なるほど」
京介は内ポケットから名刺を取り出して相手に差し出した。
「申し遅れました。流通管理課の真崎京介、と申します」
「ああ」
男は納得したように頷いて、自分も名刺を取り出した。
「岩倉産業の大石圭吾、と言います。細田さんとは数カ月前から取り引き頂いてまして」
あなたが同席されるということも聞いていますよ、と卒なく付け加えられて、京介は微笑んで会釈した。どうも内々の話ではなかったらしい。これは少し手がかかる、と大石の様子を丁寧に観察する。
「どうぞ、こちらへ」
相手の穏やかな物腰は事を荒立てて利を得ようとする類の人間ではないことを伺わせる。ひょっとすると、こちらの手落ちがあった可能性もある。
上位に扱っておくに越したことはないと判断して、京介がドアを開けて促すと、大石がふいに立ち止まった。
「あの」
「はい」
ためらった顔で言い淀んだが、渋い笑みをちらりと見せて、一瞬素早く京介の全身を見た。
「流通管理課、とおっしゃいましたね」
「はい」
なんだ?
こいつ、僕を値踏みしてる?
取り引き関係で相手を見ているというよりは、どういう人間かを見定めようとする視線、男が別の男に対してこういう視線を向けるのは、ごく近しい身内がらみのことが多い。
どういうことだ、と胸の内で眉をしかめた京介は、続いたことばに目を見開いた。
「伊吹美並、という人が勤めているはずなんですが……彼女は元気なんでしょうか」
「真崎君はいるかっ」
「はぁい」
週明け一番に響き渡った聞き覚えのある声に、京介はやれやれと顔を上げる。
「あれ、細田課長、おはようございます」
「おはようじゃないっ、ちょっと来てくれっ、話があるっ」
「えーと、困ったな」
また面倒ごとを持ち込んできたよ、と苦笑しながら伊吹を示した。
「僕、今伊吹さんにデータ入力頼んでて」
「そんなもの、後でいいっ」
おいおい、また勝手なことを。
呆れ返ったが、伊吹がびっくりした顔で細田を見ているのに、多少はいいところを見せたいな、と欲が湧いた。
「や、牟田さんが辞めちゃったから、あんまり後回しにすると、そちらの仕事に差し障っちゃうんじゃないかなー」
「うちのデータなのか」
「品質管理課のデータもいっぱいありますからねー」
さらりと流して、これでしばらく伊吹さんと居られるよね、とにこにこ顔を戻そうとすると、
「課長」
「はい?」
「もう十分わかりましたから、後はやれると思います」
「え?」
「なら、手は空いたんだろうっ、こっちへ来てくれ!」
「伊吹、さぁん?」
「はい、何でしょう?」
突き放すように微笑まれてがっくりした。
そうなんだよね、この人は。帰ってからもそっけなくてさ、こんなことならあの晩、プライドも未来も捨てて泣かせちゃえばよかったのかな。
「仕方ないですね、行きますよ」
「第二で頼むっ」
「はぁい」
第二会議室、ね。確実に面倒ごとの気配だな。
となると、気力を充実させていかないとね。
思いついたことにくすりと笑って、そんな顔は露ほども見せずに伊吹に向き直る。
「伊吹さん?」
「あ、はい」
「さっきのここだけは」
パソコン画面に集中していた伊吹が無防備に顔を上げてくるのを待ち構え、ちゅ、と耳元に伊吹にだけ聞こえる音を響かせてキスした。
「っっっ!」
「あれ? ……どうかした?」
一気に赤くなった伊吹の反応が嬉しくて、声を低めて重ねる。
「わからなかった? ……弱いの、こういうの」
触れた耳がどんどん赤く染まっていく。そこから滲むように頬に広がる紅が綺麗で、とても楽しい。答えがないのをいいことに、じゃあもっかいやろう、と顔を寄せる。
「あのね、これはね」
「……っ、わかった! 十分わかりましたからっ!」
「そうかなー、まだわかってないんじゃないかな」
「……せくはらだって叫ぶぞ」
む、と唇を尖らせた伊吹が睨むのも楽しくて、
「毎日美並♪って呼び捨てて、社内報に婚約しましたっ♪って書いてもらうよ?」
「うっ」
「真崎くんっ!」
「はいはい、今行きますって。じゃあ、伊吹さん、後よろしく♪」
じろりと見遣ってきた伊吹はすぐにそっぽを向く。けれど前ほど京介を無視できていないのは、神経質そうに髪で隠した耳の赤さが濃くなっていくのでもわかる。
第二会議室へ向かいながら、京介の足は軽い。
よかった、無闇に抱いてなくて。
今はしみじみそう思う。
あの時は流されてくれたとしても、やっぱり伊吹は許してくれなかっただろう。会社は辞めないかもしれないが、ずっと軽蔑した目で見られて、距離を取られて笑ってもくれなくなるよりは、今のほうがずっと楽しい。
少しずつでも距離を縮めて、少しずつでも信頼を得て、いつかきっと伊吹から。
「欲しい、って言ってくれる、かな」
そうしたら。
そうしたら。
「あの」
「はい?」
第二会議室のドアに手をかけた矢先、向こうからやってきた男に呼び止められた。
品のいいシャツに柔らかな色調のジャケットとスラックス、嫌味のないノーネクタイの首あたりが清潔な感じがある。一目見て、女性は安心するだろう、という容貌の男。
「第二会議室はどちらでしょう」
「ああ、ここですよ……細田課長に御用ですか?」
「ええ」
にこり、と男は静かに笑った。
「問題について話し合おうと言われまして」
「ああ、なるほど」
京介は内ポケットから名刺を取り出して相手に差し出した。
「申し遅れました。流通管理課の真崎京介、と申します」
「ああ」
男は納得したように頷いて、自分も名刺を取り出した。
「岩倉産業の大石圭吾、と言います。細田さんとは数カ月前から取り引き頂いてまして」
あなたが同席されるということも聞いていますよ、と卒なく付け加えられて、京介は微笑んで会釈した。どうも内々の話ではなかったらしい。これは少し手がかかる、と大石の様子を丁寧に観察する。
「どうぞ、こちらへ」
相手の穏やかな物腰は事を荒立てて利を得ようとする類の人間ではないことを伺わせる。ひょっとすると、こちらの手落ちがあった可能性もある。
上位に扱っておくに越したことはないと判断して、京介がドアを開けて促すと、大石がふいに立ち止まった。
「あの」
「はい」
ためらった顔で言い淀んだが、渋い笑みをちらりと見せて、一瞬素早く京介の全身を見た。
「流通管理課、とおっしゃいましたね」
「はい」
なんだ?
こいつ、僕を値踏みしてる?
取り引き関係で相手を見ているというよりは、どういう人間かを見定めようとする視線、男が別の男に対してこういう視線を向けるのは、ごく近しい身内がらみのことが多い。
どういうことだ、と胸の内で眉をしかめた京介は、続いたことばに目を見開いた。
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