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第1章
10.砕かれたガラス(9)
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「昔から得意でしたよ、そういうのは」
美並に向けて、大輔は満足そうに嗤う。
「そうでしょうね」
「ここぞという時はぎゅっと締めてきてね、こっちを天国に追いやってくれる」
まるで教師が教えた生徒の出来を褒めるように。
「天国にですか」
「一気にね」
「はあ、一気に」
大輔が唇の片端を上げて肩を竦める。
「ねだるのもうまくて」
「はあ」
「こっちがついその気になるようなことを仕掛けてきてね」
不愉快だ。
「その気、ですか」
「自分で煽ってくるんですよ」
不愉快な男だ。
「なるほどー」
美並も子どもではない、含められたきわどいニュアンスには十分気付いている。
けれど、それを美並にほのめかしてくる男の下劣さに付き合う気もないし、どちらかと言うと真崎をあれほど怯えさせ傷つけたことを微塵も理解しないで、そういうことをわざわざ伝えてこようとするやり方には、ただただ怒りが湧いてくる。
「おや、『オリジン』……閉店してますね」
「新装開店のため閉店……ですね」
店の前までやってきて、大輔は驚いたように立ち止まった。美並が頷くのに、
「どうでしょう、もう少し向こうの路地奥に、もっと小さな店ですが、落ち着けるところがあるんですが」
大輔は『オリジン』の横から続く細い小道を指差して笑った。
「あんまり人が来ないから、前来た時マスターに何かの折には寄ってくれ、と頼まれましてね」
行こうとしていた店がたまたま休みだったから、そう言えばと思い出した、それぐらいさり気ない誘いだったが、響いたことばはそこが『喫茶店』ではないという意味を隠している。
つまり、始めからそこに誘い込む予定だった、そう考えた方がよさそうだ。
「お酒も飲めそうですね」
にっこり笑って見上げると、大輔が真崎に似た雰囲気で表情を消した。
「駄目でしょうか」
「ごめんなさい」
それでも間髪入れずに誘いを重ねてくる大輔に軽く頭を下げる。
「京介が、心配すると思います」
「え」
「あ、ごめんなさい、呼び捨てにしちゃいました、実のお兄さんの前で」
「あ、いや」
「つい。口癖になってるものですから」
「……この前来られたときは、そう呼ばれてなかったようだが」
「心配性でしょう?」
「は?」
会話の主導権を大輔に握らせる気はなかった。前のやりとりとのずれを指摘して、その隙に食い込もうとする相手の意図を感じてにこやかに笑う。人と関わるのが苦手なだけで、こういう裏側の意図を操ってこようとする人間には、残念ながら美並は慣れている。ついでに今は少なからず、この前よりはっきりと大輔に腹を立てていた。
「課長、心配性なんですよ」
「それが」
今何の関係が、と言いたげな相手のことばを遮って、いきなり美並の携帯が鳴り出した。
一歩大きく、威圧するようにこちらに距離を詰めようとしていた大輔がぎくりと動きを止める。
その大輔に笑みを深めながら、美並はバッグを探った。
「今日も一緒に来るはずだったんですけど、仕事が入って来られないからって」
「京介に話してたのか……」
「せめて、電話なりとって。ほら、夕方のこの時間って逢魔が時って言っていろいろ危ないでしょう?」
茫然とした大輔の前で、失礼します、と携帯を開いてちょっと顔を背ける。
「あ……はい、美並です……うん、そう、今会ってる……ここ? えーとここ、『オリジン』の前」
大輔は固い表情で美並を見守っている。肩にじわりと力が入っていき、何かを怒鳴りつけそうな険しい表情になり、やがてゆっくりと肩を落とした。
「そうなの、『オリジン』改装中で……え、そっち? わかった、聞いてみるね?」
美並は携帯を外して、大輔に微笑んだ。
「すみません、課長も仕事終わったそうで……この近くの別の店に向かっているそうです。そこに来るか、って」
課長のお話だったら、私一人が聞くより、課長と一緒に聞いた方がいいと思うんですよ。
携帯を掲げてみせながらそう続けて、真崎の話をこそこそ陰口のように聞くつもりはない、と示してやる。
ぐうっと一瞬膨れ上がった大輔の青い炎がやがて唐突に勢いを消した。
「いや、結構」
さっきまでの親し気な声はどこにいったのかと思うほどの冷やかな声で大輔が首を振った。
「あなたはあいつのことをいろいろ知っているんだな?」
「何のことですか?」
「あいつが全部話したのか、自分が俺に何をされていたか」
「……それを私に話しに来られたんですか」
「あんたが気に入ってるあいつの本当の姿を教えてやろうと思っただけだよ」
「ありがとうございます」
美並はひんやりと笑った。
「けれど要りません」
「何」
「私は私の知っている課長で手一杯で十分です」
それ以上を教えてもらっても相手できませんから。
言い捨てて美並は携帯を耳に当てる。
「もしもし? すみません、じゃあ今からそっちへ行きます」
「……俺は行かない」
「……御自由に」
悔しそうな顔をして大輔ががつっと歩道を蹴りつけて向きを変える。そのまま、急ぎ足に去っていく背中に、よほど恵子さんもこっちに来てますよ、と言ってやりたがったが、さすがに止めた。
大輔は振り返りもせず駅の改札口を通って、あっという間に階段を駆け降りていった。
美並に向けて、大輔は満足そうに嗤う。
「そうでしょうね」
「ここぞという時はぎゅっと締めてきてね、こっちを天国に追いやってくれる」
まるで教師が教えた生徒の出来を褒めるように。
「天国にですか」
「一気にね」
「はあ、一気に」
大輔が唇の片端を上げて肩を竦める。
「ねだるのもうまくて」
「はあ」
「こっちがついその気になるようなことを仕掛けてきてね」
不愉快だ。
「その気、ですか」
「自分で煽ってくるんですよ」
不愉快な男だ。
「なるほどー」
美並も子どもではない、含められたきわどいニュアンスには十分気付いている。
けれど、それを美並にほのめかしてくる男の下劣さに付き合う気もないし、どちらかと言うと真崎をあれほど怯えさせ傷つけたことを微塵も理解しないで、そういうことをわざわざ伝えてこようとするやり方には、ただただ怒りが湧いてくる。
「おや、『オリジン』……閉店してますね」
「新装開店のため閉店……ですね」
店の前までやってきて、大輔は驚いたように立ち止まった。美並が頷くのに、
「どうでしょう、もう少し向こうの路地奥に、もっと小さな店ですが、落ち着けるところがあるんですが」
大輔は『オリジン』の横から続く細い小道を指差して笑った。
「あんまり人が来ないから、前来た時マスターに何かの折には寄ってくれ、と頼まれましてね」
行こうとしていた店がたまたま休みだったから、そう言えばと思い出した、それぐらいさり気ない誘いだったが、響いたことばはそこが『喫茶店』ではないという意味を隠している。
つまり、始めからそこに誘い込む予定だった、そう考えた方がよさそうだ。
「お酒も飲めそうですね」
にっこり笑って見上げると、大輔が真崎に似た雰囲気で表情を消した。
「駄目でしょうか」
「ごめんなさい」
それでも間髪入れずに誘いを重ねてくる大輔に軽く頭を下げる。
「京介が、心配すると思います」
「え」
「あ、ごめんなさい、呼び捨てにしちゃいました、実のお兄さんの前で」
「あ、いや」
「つい。口癖になってるものですから」
「……この前来られたときは、そう呼ばれてなかったようだが」
「心配性でしょう?」
「は?」
会話の主導権を大輔に握らせる気はなかった。前のやりとりとのずれを指摘して、その隙に食い込もうとする相手の意図を感じてにこやかに笑う。人と関わるのが苦手なだけで、こういう裏側の意図を操ってこようとする人間には、残念ながら美並は慣れている。ついでに今は少なからず、この前よりはっきりと大輔に腹を立てていた。
「課長、心配性なんですよ」
「それが」
今何の関係が、と言いたげな相手のことばを遮って、いきなり美並の携帯が鳴り出した。
一歩大きく、威圧するようにこちらに距離を詰めようとしていた大輔がぎくりと動きを止める。
その大輔に笑みを深めながら、美並はバッグを探った。
「今日も一緒に来るはずだったんですけど、仕事が入って来られないからって」
「京介に話してたのか……」
「せめて、電話なりとって。ほら、夕方のこの時間って逢魔が時って言っていろいろ危ないでしょう?」
茫然とした大輔の前で、失礼します、と携帯を開いてちょっと顔を背ける。
「あ……はい、美並です……うん、そう、今会ってる……ここ? えーとここ、『オリジン』の前」
大輔は固い表情で美並を見守っている。肩にじわりと力が入っていき、何かを怒鳴りつけそうな険しい表情になり、やがてゆっくりと肩を落とした。
「そうなの、『オリジン』改装中で……え、そっち? わかった、聞いてみるね?」
美並は携帯を外して、大輔に微笑んだ。
「すみません、課長も仕事終わったそうで……この近くの別の店に向かっているそうです。そこに来るか、って」
課長のお話だったら、私一人が聞くより、課長と一緒に聞いた方がいいと思うんですよ。
携帯を掲げてみせながらそう続けて、真崎の話をこそこそ陰口のように聞くつもりはない、と示してやる。
ぐうっと一瞬膨れ上がった大輔の青い炎がやがて唐突に勢いを消した。
「いや、結構」
さっきまでの親し気な声はどこにいったのかと思うほどの冷やかな声で大輔が首を振った。
「あなたはあいつのことをいろいろ知っているんだな?」
「何のことですか?」
「あいつが全部話したのか、自分が俺に何をされていたか」
「……それを私に話しに来られたんですか」
「あんたが気に入ってるあいつの本当の姿を教えてやろうと思っただけだよ」
「ありがとうございます」
美並はひんやりと笑った。
「けれど要りません」
「何」
「私は私の知っている課長で手一杯で十分です」
それ以上を教えてもらっても相手できませんから。
言い捨てて美並は携帯を耳に当てる。
「もしもし? すみません、じゃあ今からそっちへ行きます」
「……俺は行かない」
「……御自由に」
悔しそうな顔をして大輔ががつっと歩道を蹴りつけて向きを変える。そのまま、急ぎ足に去っていく背中に、よほど恵子さんもこっちに来てますよ、と言ってやりたがったが、さすがに止めた。
大輔は振り返りもせず駅の改札口を通って、あっという間に階段を駆け降りていった。
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