『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

13.絶対零度の領域を(4)

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「……で……恵子さんに写真…撮られたのを……脅されて」
「……はぁ」
 伊吹が深い溜め息をつく。
 恵子とのやりとりを一つずつ確認されて説明して、思い描いていたあやうい気持ちになるどころか、とにかく伊吹は淡々としていて、京介はますますしょげた。
「………ごめん」
「……」
「……ごめん、なさい……」
 思わず謝ってしまう。
「僕が馬鹿でした」
 しゅこしゅこしゅこしゅこ。
 伊吹は無言でミルクホイッパーの中の温めた牛乳を撹拌している。ガラス瓶の上部についた器具を上下させることで、温まった牛乳が泡立っていく仕組み、今も柔らかな泡になった牛乳がじっくり盛り上がっていく。
 明日の朝のパンと伊吹のための歯ブラシも買ったから、今夜は一緒に朝まで過ごしてくれそうだとは思うのだけど、とにかく伊吹は見たことのない険しい顔で話を聞いていて、とても甘やかな雰囲気になりそうもない。
 側にさえ、寄れない。
 京介は膝を抱えて落ち込んだ。
「………」
 何がダメだったのかな。
 それなりに様々な付き合いはあった。仕事でもいろいろな人間と付き合っている。自分の意志を通そうとして、相手が自分に好意を持ってくれている時に最終手段としてよく使われるのが、「死んでやる」もしくは類似したものだ、というのは経験上知っている。
 恵子はよくそういう手管を使ったし、それが本気でなくても、止めざるを得ないことも知っている。誰だって最後の一押しをする人間になどなりたくない。
 相子もしょっちゅう同じように振る舞った。
 つまり『あなたは私が大事じゃないんでしょう、私はあなたのせいで苦しむのよ、もっと私のために働きなさい』という論旨。
 もちろん、それは相手が自分のことを大切にしてくれているという上で、初めて成り立つものであることはわかっている。他人にいくらそうやって脅されても、言いなりになったりはしない、普通は。
 ならば、伊吹は。
「……」
 京介が自殺をほのめかしても、心配するどころか逆に激怒した伊吹というのは、本当は京介のことを他人よりも遠い存在に思っているのかもしれない。
 そんなの、ひどい。
 辛くて、なお困惑しながら京介は考える。
 けれど、何度考えてもわからない。
 恵子と寝たことより、自殺しようとしたことの方が、伊吹を怒らせるなんて思っていなかった。
 普通は自分を無視されたことの方に怒るものじゃないの? 恵子と寝たことの罪悪感から自殺しようとしたなら、それだけ伊吹を大切にした、そういうことじゃないの? 
 大石、のことがあったからかな、と思ってずきりとする。
 大石の時のように辛い思いをするぐらいなら、自分を無視される傷みなんてどうでもいい、そういうふうに考えるようになったということかもしれない。それほど大石の自殺というのは、伊吹にとって重いものだったということかもしれない。
 やっぱり、一番大事な相手は、大石ってことなのかもしれない。
 だから、その前でいる京介というのは。
「ほら、できたから飲みましょう」
「う、うん」
 渡されたカップのコーヒーは冷えてしまっているかと思ったが、泡で保温されているように熱い甘さが舌を伝わってきてちょっと驚いた。
 泡とコーヒーの温度差がまた楽しいですね、と笑う伊吹の顔を盗み見る。
 さっきの激怒はどこにもない。死ななくなったからそれでいいのか。京介は、ただ、それだけの存在なのか。
「もうちょっとコーヒー甘くてもいいかなあ」
「ん……」
 うっすら冷えた泡と、まだ熱いコーヒー。半端に温まった部屋と側で熱を放つ伊吹の体と。
 竦むばかりの思考と感情に、たまらなく寂しい。
「伊吹……さん」
「はい」
「……今夜……泊まってってくれるんだよね……?」
 すがりつくような気持ちになって、京介は伊吹を見遣った。
 ふぅ、と溜め息をつかれてどきどきする。
 どうしたらいいんだろう、と思った。
 こんな経験はしたことがない。どうしたら伊吹はここに居てくれるんだろう。何を差し出せばいいんだろう。京介の命じゃ差し引きにならない、命が駄目なら身体だって駄目だろう、けれどそれ以上のものとなると何も思いつかない。
 伊吹が何を欲しがるのかわからない。
 こんなことは初めてだ。
「そうですね……もう電車もなくなったし」
 明日朝早めに起きて、戻ってから出勤します、そう言われてちょっとほっとする。
「…寝巻は……?」
「……んー……私が着れるようなジャージとか、あります?」
「ぶっ」
 な、に?
「課長っ」
「ご、ごめ…っ」
 頭の中に京介のジャージを着て、京介のベッドで眠っている伊吹が浮かび上がって、見る見る身体が熱くなった。
 ベッドは一つしかない、ならば伊吹に譲れということだろうか、それとも……それとも。
 一緒に眠って、いい、ということだろうか。
 ティッシュで汚れた周囲を拭いていると伊吹も片づけを手伝ってくれた。それがごくごく自然で当たり前で、まるでずっとここに、京介の側に居たようなさりげなさでじわりと嬉しくなる。
 またちらっと伊吹を見遣ると、唇に牛乳の泡がついている。もう消えかけているそれが、何だかひどく寂しくて。
 ちょうだい。
 胸の中で思わずねだって目を伏せて顔を寄せる。
 拒まれてもいいや、と思った。もううんと嫌われたり呆れられたりしてるんだから、と舌を伸ばすと伊吹が動きを止める。どくん、どくん、と心臓が波打っている。
 逃げないで、と願った。舌だけ。ちょっとだけだから、逃げないで。
 伊吹の唇に触れて、泡を舐め取って。舌先に消えていく感触を惜しんで、少しずるく唇も舐めたのに、伊吹が逃げないでいてくれて、微かに震えた。今嫌われてもいいと思ったのに、もう嫌われたくないと思って、慌てて弁解する。
「泡」
「ん」
 伊吹が頷くのに、欲が動く。
「……僕にも……ついてる?」
「ついてます」
 誘っても、いいのかな。
「……どこに?」
「……ここ」
 これも演出、見抜かれて暴かれて嘲笑われるだけでもいいから、そう思ってのやりとりを、伊吹は拒まなかった。唇についた泡の位置を教えるように軽く舐めてくれて、それから伸ばした舌に触れてくれる。そのまま舌を口の中に押し戻されるようなキスをして、後は夢中で伊吹の唇を繰り返しついばんだ。身体がどんどん熱を上げて蕩けていくようで、唇を離したらもう一人で座っていられなくて、伊吹と一緒に床に座ったままソファにもたれる。
「……不思議、だな」
「はい?」
「……なんで伊吹さん……怒らないの」
「……怒るようなこと、しましたか?」
「………他の女と」
「そうですね」
「………だから……」
 目を閉じたまま交わす会話、寄せた伊吹の肩や脇が自分と同じぐらい熱くて、京介は息苦しくなる。
「てっきり嫌われてしまうと思ってたのに」
 嫌って、ないよね、僕のこと?
「ふう」
 思い切って言ったことばに伊吹が溜め息をついて口をつぐんだ。
「婚約者、ですよね、まだ?」
「…うん」
「凄くむかつくんですけど、それでも……ちゃんと話してくれたし、何より、それを本当に嫌がって苦しんで死にたくなってるの、わかりました、だから」
 苦しんで死にたくなった、って?
 お芝居だとかそういうことは考えもしなかった?
 穏やかに続いたことばになおさら京介は驚いた。
「ゆっくり行きましょう、京介」
 まだ、いいんだ?
「私のこと、好きですよね?」
「うん…」
 まだ、ここに居ていいんだ。
 確信に震えて、突然もう少しでも離れたくなくなる。
「冷えてきたよ、伊吹さん」
「そうですね」
 欲しいものをどうして手に入れればいいのか、ほんのちょっとわかった気がするから、京介はそっとねだってみる。
「ベッドへ行きたい」
「一緒に眠るだけ、ですよ?」
「ん」
 ジャージ上下を貸して、着替えてきますねと風呂場に消えた伊吹に、何だか夢を見ているような気持ちで、とにかく寝巻に着替えて眼鏡を外し、京介はベッドに潜り込んだ。端に寄って、伊吹の身体一つ分開けて、ああ、もっと大きなベッド買わなくちゃいけない、そう思うと弾けるように嬉しくなった。
 伊吹がすぐに戻ってくる。どきどきして眠れなくなってしまったから、目を閉じて寝たふりをした。
「……恋人に、なれるかなあ……」
 ベッドの側で伊吹が悩んだ声で呟く。
「まあ、いいか」
 苦笑した口調にちょっといじけかけたけど、続いた出来事に一日全部報われた気がした。
 優しく降りてきたのは、京介の髪への小さなキス。
 それから京介が開けた場所にするりと入ってくる小さな身体。
 恋人に、なれるかな、だって?
 なれなくてもいい、とすぐに思った。
 静かに寝息をたてだした伊吹にそっとそっと手を伸ばし、両手で包み込んで引き寄せる。
 恋人でも上司でも赤の他人でも、名称なんかはどうだって構わない。
 ただこうしていつまでも京介の腕の中で眠ってくれさえするのなら。
「……み……なみ」
 そっと呼んで、慌てて口をつぐんで、その唇を封印するように伊吹の髪に押し付けた。
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