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第2章
1.美並(5)
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はっとしたように目の前の男もリュックとレシートを掴んで、銜えたサンドイッチを噛みながら慌ててレジに向かった。どうやら追い掛けるつもりらしい。
それを茫然と見遣りながら、京介の耳には奈保子の叫びが突き刺さっている。
『あなたの隣にいるのは、私なの!』
目の前で、好きな男が他の女の心配をする。その女の傷を想って自分を詰る。それに抵抗する、たった一つのことばを必死に探し当てて叫んだのだ。
その気持ちが、痛いほどわかる。
伊吹の隣にいるのは自分だ、京介もそう叫べたら。
けれど、それはきっと、違う、のだ。
「ふ、ぅ」
漏らしかけた吐息を慌てて口を押さえて殺した。ぐずぐず崩れそうになるのを何とか堪えて立ち上がってレジに向かうと、とっくに出ていったはずの男が引き止められている。
「?」
「だぁから」
苛立たしそうに表を見た男はレジから回ってきたウェイトレスに眉を寄せて唸る。
「無銭飲食じゃないって! 五十円足りないだけだろ」
「足りないものは足りないんです、警察を呼びますよ」
「ちょっとだけ、何ならリュック置いてくから、ちょっとっ」
「駄目ですったら!」
「ああ、逃げちゃう!」
「逃げるのはあなたでしょう!」
争う声が高くなっていくのに、レジに自分のレシートを出しながら、京介はウェイトレスに微笑みかけた。
「僕が出します」
「は?」
「へ?」
「彼の五十円、僕が支払いますから……行きなさい、急いでるんでしょう?」
「あ、す、すいませんっ、じゃっ!」
京介を振り返った相手がぺこっと頭を下げるとすぐに店を飛び出していく。
「……よろしいんですか」
「同席のよしみ」
「でも」
ウェイトレスがレジを済ませながら、気遣わしそうな顔で京介を見上げる。
「お席も、あの子が勝手に移動したんじゃ」
「いいんだよ、知り合いだったから」
「え?」
「知り合い…になれてたかもしれないから、かな」
付け加えて思わず落ち込んでしまった。
もう、関係ないかも知れないんだよね、伊吹さんの身内でも。
「では……ありがとうございました」
「騒ぎにはしないでやってくださいね?」
「ええ、まあお支払いは済ませて頂いているんですから」
ちらりとマスターを見て微笑むと、相手もためらいながら微かに頷いてくれた。ほっとして店を出ると、向こうから当の相手がのろのろと戻ってくるのに出くわした。
「……追いつけなかったの?」
「あ」
京介が声をかけると、相手ははっとしたように駆け寄ってきて目の前で立ち止まった。まっすぐに背筋を伸ばして、それからきちんと頭を下げる。
「さきほどはありがとうございました」
「いいんだよ」
「結果的に御迷惑おかけして、すみません。で、あの五十円ですが」
「いいよ」
「そういうわけにはいかないと思うんですけど……実は」
ぐい、と相手はいきなり顔を上げて京介を見た。京介の方が数cm高い、その背丈でじっと京介を見つめ、
「帰りの電車賃まで使い切りましたっ、三百円、貸して下さいっ」
言い切って、またまっすぐ頭を下げる。
「いい人みたいなんで甘えます……だめですか?」
上目遣いに見上げてくるのに、つい吹き出してしまう。
「わかった。君は優秀な営業マンになりそうだね」
「わかるんですか? 来年の春から営業になるんですよ」
驚いたように眼を見張って続け、にこにこと笑う。
「あ、お金返しますから、名刺頂けますか。俺」
伊吹明っていいます。
続いたことばに京介はちょっと切なくなり、ふと思いつく。
「お金……返さなくていいよ」
「え、そりゃ駄目ですよ」
「その代わり」
「その代わり………げ」
「げ?」
明が妙な声を上げて京介は瞬きする。
「げ、って?」
「いや、あの、その、確かにあなた、そういう感じだし」
「は?」
「あ、でも気持ち悪いとかそういうんじゃなくて。そういう意味じゃ十分綺麗だと思うし」
「そういう意味?」
これはひょっとして。
「俺じゃなくて、そういう趣味の人には、きっともてますよ、うん」
京介は溜め息まじりに確認する。
「そういう趣味ってのはゲイってこと?」
「あー、まあ、その」
あ、あはは、と姉そっくりの引きつり方をして笑いながら、
「すみません、応じられなくて」
「応じなくていいから」
「はい?」
「そういう趣味じゃない………抱いてくれとか抱かせてくれとか言ってるんじゃないから」
「あ、そうなの」
いや、時々そういう人いるから、と明は悪びれもせずに言ってのけた。
「じゃあ何を?」
「なにか事情があるみたいだから、それを話して欲しいなと思って」
「え?」
「君があの女性を追い掛けていた事情」
あえて可能性の少ない方をあげてみせると、明は苦々しい顔になった。
「女? 女じゃないです」
「じゃあ君の方こそ」
ゲイじゃないの、そう突っ込み返すと、一瞬きょとんとした明は弾けるように笑った。
それを茫然と見遣りながら、京介の耳には奈保子の叫びが突き刺さっている。
『あなたの隣にいるのは、私なの!』
目の前で、好きな男が他の女の心配をする。その女の傷を想って自分を詰る。それに抵抗する、たった一つのことばを必死に探し当てて叫んだのだ。
その気持ちが、痛いほどわかる。
伊吹の隣にいるのは自分だ、京介もそう叫べたら。
けれど、それはきっと、違う、のだ。
「ふ、ぅ」
漏らしかけた吐息を慌てて口を押さえて殺した。ぐずぐず崩れそうになるのを何とか堪えて立ち上がってレジに向かうと、とっくに出ていったはずの男が引き止められている。
「?」
「だぁから」
苛立たしそうに表を見た男はレジから回ってきたウェイトレスに眉を寄せて唸る。
「無銭飲食じゃないって! 五十円足りないだけだろ」
「足りないものは足りないんです、警察を呼びますよ」
「ちょっとだけ、何ならリュック置いてくから、ちょっとっ」
「駄目ですったら!」
「ああ、逃げちゃう!」
「逃げるのはあなたでしょう!」
争う声が高くなっていくのに、レジに自分のレシートを出しながら、京介はウェイトレスに微笑みかけた。
「僕が出します」
「は?」
「へ?」
「彼の五十円、僕が支払いますから……行きなさい、急いでるんでしょう?」
「あ、す、すいませんっ、じゃっ!」
京介を振り返った相手がぺこっと頭を下げるとすぐに店を飛び出していく。
「……よろしいんですか」
「同席のよしみ」
「でも」
ウェイトレスがレジを済ませながら、気遣わしそうな顔で京介を見上げる。
「お席も、あの子が勝手に移動したんじゃ」
「いいんだよ、知り合いだったから」
「え?」
「知り合い…になれてたかもしれないから、かな」
付け加えて思わず落ち込んでしまった。
もう、関係ないかも知れないんだよね、伊吹さんの身内でも。
「では……ありがとうございました」
「騒ぎにはしないでやってくださいね?」
「ええ、まあお支払いは済ませて頂いているんですから」
ちらりとマスターを見て微笑むと、相手もためらいながら微かに頷いてくれた。ほっとして店を出ると、向こうから当の相手がのろのろと戻ってくるのに出くわした。
「……追いつけなかったの?」
「あ」
京介が声をかけると、相手ははっとしたように駆け寄ってきて目の前で立ち止まった。まっすぐに背筋を伸ばして、それからきちんと頭を下げる。
「さきほどはありがとうございました」
「いいんだよ」
「結果的に御迷惑おかけして、すみません。で、あの五十円ですが」
「いいよ」
「そういうわけにはいかないと思うんですけど……実は」
ぐい、と相手はいきなり顔を上げて京介を見た。京介の方が数cm高い、その背丈でじっと京介を見つめ、
「帰りの電車賃まで使い切りましたっ、三百円、貸して下さいっ」
言い切って、またまっすぐ頭を下げる。
「いい人みたいなんで甘えます……だめですか?」
上目遣いに見上げてくるのに、つい吹き出してしまう。
「わかった。君は優秀な営業マンになりそうだね」
「わかるんですか? 来年の春から営業になるんですよ」
驚いたように眼を見張って続け、にこにこと笑う。
「あ、お金返しますから、名刺頂けますか。俺」
伊吹明っていいます。
続いたことばに京介はちょっと切なくなり、ふと思いつく。
「お金……返さなくていいよ」
「え、そりゃ駄目ですよ」
「その代わり」
「その代わり………げ」
「げ?」
明が妙な声を上げて京介は瞬きする。
「げ、って?」
「いや、あの、その、確かにあなた、そういう感じだし」
「は?」
「あ、でも気持ち悪いとかそういうんじゃなくて。そういう意味じゃ十分綺麗だと思うし」
「そういう意味?」
これはひょっとして。
「俺じゃなくて、そういう趣味の人には、きっともてますよ、うん」
京介は溜め息まじりに確認する。
「そういう趣味ってのはゲイってこと?」
「あー、まあ、その」
あ、あはは、と姉そっくりの引きつり方をして笑いながら、
「すみません、応じられなくて」
「応じなくていいから」
「はい?」
「そういう趣味じゃない………抱いてくれとか抱かせてくれとか言ってるんじゃないから」
「あ、そうなの」
いや、時々そういう人いるから、と明は悪びれもせずに言ってのけた。
「じゃあ何を?」
「なにか事情があるみたいだから、それを話して欲しいなと思って」
「え?」
「君があの女性を追い掛けていた事情」
あえて可能性の少ない方をあげてみせると、明は苦々しい顔になった。
「女? 女じゃないです」
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