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第2章
8.カード・スピーク(1)
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我に返った真崎と公園から逃げるように戻ってきて。
「じゃあ、僕、もうちょっと仕事してくる………あ、待って」
打って変わった上機嫌さで真崎が笑って背中を向け、数歩歩いて振り返り、美並に渡してしまってジャンパーなしの体を少し竦めながら何かを探した。
「はい、これ」
急ぎ足に戻ってきて渡されたのは鍵。暗証番号を伝えられて慌てて見上げると、
「先に戻ってて?」
そのうち合鍵つくるけど、ちょっとこれ複雑なやつだからすぐにできないんだよ、と笑う。
「要るよね、合鍵?」
眼鏡の奥で瞳が用心深く瞬く。
「要ります」
応じるとほっとした顔で眼を細めた。
「できたら……夕飯作っててほしいんだけど」
「……何がいいんですか?」
作れるものは限られてますよ、と美並が眉を寄せると、
「おにぎり」
「は?」
「おにぎりとお味噌汁でいいから」
「おにぎりって……あの三角とか俵の」
「三角のでいい」
ほら、いつか伊吹さんがお弁当に持ってきてたやつ、そう嬉しそうに続けるから、思わず美並は味噌汁の具は何がいいですか、と尋ねた。
「葱でいいよ」
「葱だけ?」
「……何でも…いいな」
伊吹さん、作ってくれるんだし。
小さく呟いて、自分で照れてしまったのか、俯き加減にうっすら赤くなられて、美並もつられて顔が熱くなる。
思い出したのはさっきまで口の中を思う存分動き回っていた真崎の舌の感触、同じ甘さを味わいながら話しているんだ、そう思った瞬間にかあっと全身熱くなった。
「じゃ、じゃあ」
「うん」
「お揚げ、とか」
「うん」
「葱とお揚げ」
「うん、葱と揚げ、ね」
「今日はそれで」
「うん」
「今度はまた違うのを」
「豆腐も好きだよ?」
「じゃあ、次はお豆腐で」
「明日?」
ひょい、と首を傾げて上目遣いに見られて、思わず固まった。
あんた、幾つだ。
なんでそんなに……可愛いんだろう。
って、可愛いって何。
一人突っ込みを入れて引きつる。
「わかりました、明日ですね」
「……明日も一緒、ってことだよね?」
「う」
「明日の、いつまで?」
「明日の……夕方まで」
「なんで」
「だって、ほら、企画提出しなくちゃならないんでしょう?」
居たら邪魔になりませんか。
無駄かも知れないと思いつつ付け加えると、
「居なかったら風邪が悪化するかもしれない」
「……課長」
「夜中とかに高熱出て、月曜日出れないかも」
「………あの」
「そうしたら、伊吹さん責任取ってくれる?」
「責任ー?」
「うん」
鍵を握った美並の手を掴み、もう一度引き寄せて、真崎は耳元で声を潤ませて囁いた。
人肌で、温めて?
帰りにスーパーで味噌と出汁調味料と葱を買った。
「んーと……明日も使うから…」
葱は大きめの束を買い、美並はほのぼのとして温かな真崎のジャンバーに鼻先を押しつける。
微かな淡い香りは真崎の体臭と埃の混じったもので色気も何もないけれど、土曜の夜に美並の隣で眠る相手のことをまざまざと思い出して、胸の底が切なくなる。
失わずに済んだんだ。
そう思うと滲むような嬉しさが広がる。
今は失わずに済んだ。
いつかは手放さなくてはならない時がくるのかもしれないけれど、それでも今はこうして、真崎のジャンパーを我が物のように着て買い物をしていてもいい関係。
一瞬揺らめきかけた視界を慌てて瞬く。
ポケットの中の鍵をそっと握りしめる。
わかっている、人のつながりは脆くて切れやすい。
けれど、その度ごとに結び直していけば、ひょっとしたら今度こそ。
「………今度、こそ」
呟いて。小さく哀しく笑った。
「それで…いっか」
一所懸命、側に居よう。
大切に丁寧に一緒に居て、それでもどうしても叶わないならば、そのときは。
「頑張ろう」
ちゃんと、できるように、今度こそ。
「っ」
胸を焼いた傷みに泣きそうになって、ぎゅ、ぎゅ、と鍵を握り直す。
本当は要る、と言っちゃいけなかったのかもしれないけれど。作るのにそんなに手間暇かかるものならば。
でも。
欲しかった。
美並も、欲しかったのだ。
それがあの瞬間にわかってしまった。
真崎がジャンパーで包んでくれた一瞬に、全身震えてしまった美並を見降ろす視線を受け止めて、この腕がいい、と微かに思った。
真崎が幻を見ている可能性はもちろんあって、それがはっきりしてしまえば、美並はもうどうしようもないのだけれど。
それでも、それまでこの腕がいい。
ここがいい。
真崎の側が、いい。
そう願っているのを気付いてしまった。
「寒く…なかったかな」
公園で拾い上げた『Brechen』のセーターとニット帽は、参考資料にすると真崎が持ち去って、代わりに手が半分近く隠れてしまうジャンパーを捲りながら買い物を続ける。
「あ、ごめんなさい」
謝って、美並の前の棚へ、側で手を伸ばした女性の左手の薬指にきらりと光ったのは指輪だった。
思わずそれを見送ってしまう。
銀色の、小さな光。
「夢の、また夢…」
諦めたんだ。
さすがにそれはもう、諦めたんだ。
今は真崎と居られるだけでいい。
それだけで十分だ。
言い聞かせながら、無意識に左手の指に触れて、何もないそこを美並はそっと撫でていた。
「じゃあ、僕、もうちょっと仕事してくる………あ、待って」
打って変わった上機嫌さで真崎が笑って背中を向け、数歩歩いて振り返り、美並に渡してしまってジャンパーなしの体を少し竦めながら何かを探した。
「はい、これ」
急ぎ足に戻ってきて渡されたのは鍵。暗証番号を伝えられて慌てて見上げると、
「先に戻ってて?」
そのうち合鍵つくるけど、ちょっとこれ複雑なやつだからすぐにできないんだよ、と笑う。
「要るよね、合鍵?」
眼鏡の奥で瞳が用心深く瞬く。
「要ります」
応じるとほっとした顔で眼を細めた。
「できたら……夕飯作っててほしいんだけど」
「……何がいいんですか?」
作れるものは限られてますよ、と美並が眉を寄せると、
「おにぎり」
「は?」
「おにぎりとお味噌汁でいいから」
「おにぎりって……あの三角とか俵の」
「三角のでいい」
ほら、いつか伊吹さんがお弁当に持ってきてたやつ、そう嬉しそうに続けるから、思わず美並は味噌汁の具は何がいいですか、と尋ねた。
「葱でいいよ」
「葱だけ?」
「……何でも…いいな」
伊吹さん、作ってくれるんだし。
小さく呟いて、自分で照れてしまったのか、俯き加減にうっすら赤くなられて、美並もつられて顔が熱くなる。
思い出したのはさっきまで口の中を思う存分動き回っていた真崎の舌の感触、同じ甘さを味わいながら話しているんだ、そう思った瞬間にかあっと全身熱くなった。
「じゃ、じゃあ」
「うん」
「お揚げ、とか」
「うん」
「葱とお揚げ」
「うん、葱と揚げ、ね」
「今日はそれで」
「うん」
「今度はまた違うのを」
「豆腐も好きだよ?」
「じゃあ、次はお豆腐で」
「明日?」
ひょい、と首を傾げて上目遣いに見られて、思わず固まった。
あんた、幾つだ。
なんでそんなに……可愛いんだろう。
って、可愛いって何。
一人突っ込みを入れて引きつる。
「わかりました、明日ですね」
「……明日も一緒、ってことだよね?」
「う」
「明日の、いつまで?」
「明日の……夕方まで」
「なんで」
「だって、ほら、企画提出しなくちゃならないんでしょう?」
居たら邪魔になりませんか。
無駄かも知れないと思いつつ付け加えると、
「居なかったら風邪が悪化するかもしれない」
「……課長」
「夜中とかに高熱出て、月曜日出れないかも」
「………あの」
「そうしたら、伊吹さん責任取ってくれる?」
「責任ー?」
「うん」
鍵を握った美並の手を掴み、もう一度引き寄せて、真崎は耳元で声を潤ませて囁いた。
人肌で、温めて?
帰りにスーパーで味噌と出汁調味料と葱を買った。
「んーと……明日も使うから…」
葱は大きめの束を買い、美並はほのぼのとして温かな真崎のジャンバーに鼻先を押しつける。
微かな淡い香りは真崎の体臭と埃の混じったもので色気も何もないけれど、土曜の夜に美並の隣で眠る相手のことをまざまざと思い出して、胸の底が切なくなる。
失わずに済んだんだ。
そう思うと滲むような嬉しさが広がる。
今は失わずに済んだ。
いつかは手放さなくてはならない時がくるのかもしれないけれど、それでも今はこうして、真崎のジャンパーを我が物のように着て買い物をしていてもいい関係。
一瞬揺らめきかけた視界を慌てて瞬く。
ポケットの中の鍵をそっと握りしめる。
わかっている、人のつながりは脆くて切れやすい。
けれど、その度ごとに結び直していけば、ひょっとしたら今度こそ。
「………今度、こそ」
呟いて。小さく哀しく笑った。
「それで…いっか」
一所懸命、側に居よう。
大切に丁寧に一緒に居て、それでもどうしても叶わないならば、そのときは。
「頑張ろう」
ちゃんと、できるように、今度こそ。
「っ」
胸を焼いた傷みに泣きそうになって、ぎゅ、ぎゅ、と鍵を握り直す。
本当は要る、と言っちゃいけなかったのかもしれないけれど。作るのにそんなに手間暇かかるものならば。
でも。
欲しかった。
美並も、欲しかったのだ。
それがあの瞬間にわかってしまった。
真崎がジャンパーで包んでくれた一瞬に、全身震えてしまった美並を見降ろす視線を受け止めて、この腕がいい、と微かに思った。
真崎が幻を見ている可能性はもちろんあって、それがはっきりしてしまえば、美並はもうどうしようもないのだけれど。
それでも、それまでこの腕がいい。
ここがいい。
真崎の側が、いい。
そう願っているのを気付いてしまった。
「寒く…なかったかな」
公園で拾い上げた『Brechen』のセーターとニット帽は、参考資料にすると真崎が持ち去って、代わりに手が半分近く隠れてしまうジャンパーを捲りながら買い物を続ける。
「あ、ごめんなさい」
謝って、美並の前の棚へ、側で手を伸ばした女性の左手の薬指にきらりと光ったのは指輪だった。
思わずそれを見送ってしまう。
銀色の、小さな光。
「夢の、また夢…」
諦めたんだ。
さすがにそれはもう、諦めたんだ。
今は真崎と居られるだけでいい。
それだけで十分だ。
言い聞かせながら、無意識に左手の指に触れて、何もないそこを美並はそっと撫でていた。
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