『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

10.ブラインド・ベット(2)

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 ち、とこれみよがしに舌打ちしながら会議室を出ていく高山に軽く黙礼して、テーブルの上の書類をまとめながら、京介は込み上げてくる喜びについつい微笑む。
 これでまたしばらく一緒に居られる。
 おまけに先日はプライベートでも一歩踏み込めたところだし、と考えて、じわりと腹の底に滲んだ熱に少し顔を引き締めた。
 じゃあ、ぼちぼち別口の公的なところ、というのも詰めていきたい。
 今週末の土日に体をあけて、伊吹さんの実家にお邪魔できないかなあ。
 それが古風かどうかは別にして、とにかく伊吹の後ろには、これまで静かに守護を勤めてきた男が居る。伊吹明に姉の相手としてふさわしいと思わせるだけの技量を持っているかどうかは微妙だが、少しでも早く公認になっておいて損はない。少なくとも、この付き合いが真剣なんだとは伝えられる。

『おはようございます』
 日曜日、昼近くになって目覚めた京介は、腕の中にまだ伊吹が居て、しかもまぶしそうな顔で見上げてきてくれたのに驚いた。
 今までなら朝が来たらどちらかが起きて、どちらかが朝のコーヒーをセットしにキッチンに居る。
 なのにどうして、と瞬きしていると、うっすら赤くなった顔で、
『気持ちよさそうに眠ってたし』
 小さな声で呟いた。
『気持ちいいんだなあと思って見てたら、また眠っちゃって』
 今ちょっと前に目が覚めました、そう囁かれて誘惑されない男はきっといない。
『腕、痺れてま…』
 話しかけた伊吹の唇にそっとキスした。
 黙って、そう話す間さえ惜しくて、唇を開いて柔らかな感触を貪る。
『は…』
 切なげな吐息と微かにねじられた体に自分のどこが伊吹を困らせたかすぐにわかったけれど、ねだるように押し付けてみれば拒まれなくて、伊吹の温かな下腹にそっと受け止められて震えた。
 伊吹さん……伊吹さん。
 囁いて耳を舐めて、また唇を吸って。
 腰が揺れて、けれど伊吹も静かに背中を抱き返してくれて。
 明るい日射しがカーテンの隙間から差し込む部屋、お互いの吐息で湿った空気に包まれて、伊吹の首筋に唇を降ろしたとたん、軽く押されて顔を上げると、困った顔で呟かれた。
 トイレ、行きたいんですけど。
 そう言われれば、京介もあんまり猶予がないかもしれない。
 また今度ね。
 交わすキスに伊吹がちょっと舌を出して応じてくれて、危うくそのまま、またいちゃいちゃし続けるところだった。

「……ふ…」
 こうして思い出すだけでやばいっていうか、あったかいっていうか。
 京介はとんとん、と書類を揃えて顔を上げ、じっとこちらを見つめていたらしい元子に気付いてどきりとする。
「真崎くん?」
「はい」
 見られたかな。
 見てるよね、この人は鋭いから。
 ずいぶんだらしなく蕩けた顔をしていただろうなあと苦笑しつつ、それでもそのまま元子の側に寄って頭を下げた。
「ありがとうございました」
「なに」
「伊吹さんを庇って頂いて」
「庇ってないわよ? もちろん、アルバイト職を馬鹿にするつもりもない」
 論理的におかしかったから指摘したまで。
 元子はくすりと笑って、残ったミネラルウォーターを飲み干す。
「それに、会いたくなったのは本当だし」
「え?」
「伊吹さん? 一度会わせてもらいたいのよ」
「御会いになってませんか」
「アルバイトの面接は基本的には高山さんまかせになってるでしょう?」
「そうですね」
「私が来てる時間とずれてるのよね、彼女の勤務時間」
「ああ、なるほど」
 他の仕事とのかねあいで、元子が会社に顔を出すのは午前7~9時。もしくは18~20時。伊吹が勤務するのは長くても9~17時。
「すれ違いですね」
「でしょう? でも、いろいろは聞いてるの」
 元子は大振りのダイヤが嵌まった指をゆっくり折り曲げた。本人言うところの『はったりの小道具』だが、確かにショッキングピンクのスーツ同様人目は引く。
「高山さん、細田さん、赤来さん……ほらね」
「赤来さん、ですか」
 一体伊吹の何を聞いたというのか。
 京介は軽く目を細めた。殺気立ちかけたのをそっとおさめる。
「それにあなた」
「は?」
「私の知ってる限り、派手な噂はあっても、社内で『ぶっ殺す』なんてことを口走る人だとは思わなかったけれど?」
「……」
 どこでそんなことを聞いたんだ、この人も。
 思わず口を噤んだ京介に、ほら、そこ、と元子は笑った。
「自分に都合の悪いことはそうやってクールに流しちゃうタイプだったのに」
「どういう意味ですか」
「さっきだって、赤来さんが一所懸命合図送ってるのに気付かなかったでしょう?」
「合図?」
「伊吹さんのことは私に任せておいて大丈夫だって」
 思わず京介は眉を寄せる。
 そんな合図を送っていたか? いや、それより、どうして赤来が伊吹のことについて配慮する?
 ますます警戒心が沸き起こる。
「そっちの方が問題だ、そういう顔ね」
「…」
 見抜かれて京介はゆっくり目を瞬いた。
「結婚するの?」
「……そのつもりですが」
「結婚したら同一部署はだめよ?」
「わかってます」
「じゃあ結婚しないでおく?」
「……」
「次に異動させるのはたぶん赤来さんか高山さんの所になると思うけど。ぼつぼつ定年退職で欠員ができるから」
「……からかってるんですか」
「真面目な話よ」
 元子は微笑んだ。
「いずれにせよ、会わせてね。スケジュールを知らせるわ。心配ならあなたも同席していいから」
「そのつもりです」
「過保護ね」
「違いますよ」
 京介は溜め息をついた。
「彼女の全てを知っておきたいだけです」
「あら」
 真崎京介ともあろう人が。
 今度は明らかにからかうような元子の声に苦笑いする。
 入社当初からそうだ、京介が会社で対抗できない相手はこの創業者夫婦だけだ。
「いいわ、時間を取らせたわね、仕事にかかって」
 私はあなたが楽しそうに見えて嬉しいわ。
 続いたことばにぺこりと頭を下げて部屋を出ていこうとし、ふと立ち止まって振り返る。
「楽しそうに見えますか?」
「前より綺麗になったわよ」
 それって恋のせい?
 微笑む元子は満足気だ。
「エネルギッシュなのは有り難いわ、自信にもなるしね」
 自信?
 京介は苦笑しながら肩越しに呟いた。
「彼女の前で自信なんかありませんよ」
「え?」
「捨てられるのが、ずっと怖い」
 元子は不思議な笑みを広げた。
「なんです?」
「前のあなたなら、そんなことを口にもしなかったでしょうけど」
 妬けるわねえ。
「伊吹さんはあなたのずっと深くに居るのね」
 顔に上がった熱を自覚して、京介は絶句した。
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