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第2章
11.姉と弟(1)
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考え込んだ顔をして帰っても、返事は悪くはないはず。
そう考えていたのに、翌朝になっても新部署への配置を了解したと伝えてこない伊吹に、京介は不安になった。
ちらりとパソコンを凝視している伊吹を見遣る。
真剣で真面目なだけ、怒っていたり不愉快そうではない、むしろ、今朝の伊吹は何だか落ち着いてて静かで、確かにこれまでも透明で綺麗な感じはあったけれど、いつもに増して清冽で。
まるで何かをはっきり決心したような表情。
それは夕べ携帯が繋がらなかったことと関係があるのだろうか、とついつい考えてしまう。
昨日は早く帰ったし、平日のことだから買い物に出かけたとしても夜には帰っているだろう、そう思ってもう一度かけたのに、やっぱり繋がらなくて。
さりげなく「昨日どこかへ出かけたの」と尋ねようと思ってたら、送ったはずの荷が紛失しただの届くはずの商品トラックが来ないだのでばたばたしているうちに昼近くなって。
三日伊吹と一緒に居て、伊吹の呼吸音を聞き慣れてしまったのか、夕べはあまり眠れなかったところへそれだったから、いつもより処理速度が落ちて手間取った。
とどめはコーヒーだけでも胃に入れておこうと自販機に向かった先に、経理の赤来課長が居たこと。
京介が卒なく、先日はうちの伊吹のことを配慮して頂きありがとうございました、と頭を下げると、茶色に染めた髪をくすぐったそうにかきあげて、ああ、あれ、と赤来は笑った。
「いいよ、これで貸し借りなしってことだから」
「貸し借り、なし?」
「伊吹さんには助けてもらってるからね、二度も」
二度。
そんなことは聞いていない、と慌ただしく頭の中で情報を当たりながら、ついカフェラテのボタンを押した自分が微妙に情けない。
こくりと熱いのを呑み込んだはずの胃にひやひやとしたものが広がるのに、ようやく一つは思いつく。
「阿倍野さんのお子さんのことですか」
「さすが情報通」
赤来はにこやかに笑った。
「あっちこっちのことをあいかわらずよく聞き込んでるなあ、真崎さんは」
まるで名探偵みたいだよね、彼女、と続ける。
「アベちゃんからちょっと話を聞いただけで、何がどうなってるのかすぐ教えてくれたって、彼女も不思議がってた」
君が手放したがらないのはよくわかるよ、ましてや高山さんのとこじゃなあ。
苦笑する赤来の柔らかな雰囲気は京介とは違う種類、女性社員が富崎と並んで安心感のある男としてあげるだけのことはある。
「俺だって、あの人は苦手だ」
伊吹さんならうまくやるかも知れないけどね。
さらっと優しく伊吹の名前を出されて京介はずきんとした。
「もう一回っていうのは、俺が世話になったんだけど」
「赤来さんが?」
これは初耳だ。
とっさに睨み付けてしまいそうになったのを堪えて、目を伏せながら、あつ、と呟き、カップに口をつける。
「総務で書類を落としたんだよ」
「総務…」
「間の悪いことに、高山さんが来ててさ」
高山は女性に受けのいい赤来を煙たがっている。
「これ幸いと、気持ちが緩むと指先も緩むんだなとか、ちょうどアベちゃんが体調崩して早退繰り返してた時だったから、それも当て擦られて」
部下の管理も緩みっ放しじゃないか、と。
ブラックコーヒーを含む赤来が薄く笑う。
大事な書類だったから、富崎さんも探してくれて、俺ももちろん探してて。
「そうしたら、あの子が、この辺にないですか、って棚の辺りを覗き込んだかと思うと、ありましたって」
一瞬みんな呆気に取られた。俺や富崎さんはもちろん、高山さんだって、ぽかんとしちゃって。
「彼女、直前に総務にメール便届けに来ただけなんだぜ? みんながさごそやってるから、どうしたんですか、って聞いて、総務の木崎さんだったかな、この机のあたりに落ちたらしいんだって言っただけ、それなのにまるで全部見てたみたいにすたすたって入ってきて、これですか、って」
京介は目を閉じる。
その光景はすぐに映像として想像できた。いつもみたいにシュレッダーの前で指先を翻すようなあの動きで、魔法みたいに書類を取り出してみせたのだ。
そうか、だから高山があれほど固執したのか。
納得と同時に、その伊吹が赤来の目にどう映ったかも察する。
きっと不思議で。
きっとひどく鮮やかで。
「何だ、この子って、そう思った」
「……」
そんな最初から、赤来は伊吹を見ていたのか。
じゃあ、今伊吹の側に京介が居るのは、たまたまか偶然、そういう僅かな確率だったわけ、か。
ゆっくり目を開けて、赤来が面白そうな顔をしながら横目を遣っているのに気付く。
「…なんです?」
「彼女と結婚するって?」
「……ええ」
「結婚したら、同一部署は駄目だよ?」
「そうですね」
「経理にもらえないかって、頼んでみようと思ってるんだけど」
じろり、と思わず相手を見返してしまった。
「頭がいい子だよね?」
「ええ」
「仕事もきちんとやる」
「そうです」
「誠実で、丁寧だ」
「………」
「家庭を守るには最高の人かもしれないね?」
「………それが?」
「…そういう顔もできるんだ、真崎さん」
赤来が笑みを広げた。
「感情がないのかと思ってたけど」
「僕にだって感情ぐらいありますよ」
「会議で見せてもらった」
やんわり指摘されて、京介は目を細めた。
「……総務や人事に動かすぐらいなら、俺のところがましじゃない? もっとも伊吹さん次第だけど」
こくこくこくこく、ごくん。
一気にカフェラテを飲み干して、京介はぐしゃり、とカップを握り潰した。赤来がちょっと驚いた顔になって瞬きするのに、にっこり笑う。
「決定権は僕にはない……もちろん、あなたにも」
そう考えていたのに、翌朝になっても新部署への配置を了解したと伝えてこない伊吹に、京介は不安になった。
ちらりとパソコンを凝視している伊吹を見遣る。
真剣で真面目なだけ、怒っていたり不愉快そうではない、むしろ、今朝の伊吹は何だか落ち着いてて静かで、確かにこれまでも透明で綺麗な感じはあったけれど、いつもに増して清冽で。
まるで何かをはっきり決心したような表情。
それは夕べ携帯が繋がらなかったことと関係があるのだろうか、とついつい考えてしまう。
昨日は早く帰ったし、平日のことだから買い物に出かけたとしても夜には帰っているだろう、そう思ってもう一度かけたのに、やっぱり繋がらなくて。
さりげなく「昨日どこかへ出かけたの」と尋ねようと思ってたら、送ったはずの荷が紛失しただの届くはずの商品トラックが来ないだのでばたばたしているうちに昼近くなって。
三日伊吹と一緒に居て、伊吹の呼吸音を聞き慣れてしまったのか、夕べはあまり眠れなかったところへそれだったから、いつもより処理速度が落ちて手間取った。
とどめはコーヒーだけでも胃に入れておこうと自販機に向かった先に、経理の赤来課長が居たこと。
京介が卒なく、先日はうちの伊吹のことを配慮して頂きありがとうございました、と頭を下げると、茶色に染めた髪をくすぐったそうにかきあげて、ああ、あれ、と赤来は笑った。
「いいよ、これで貸し借りなしってことだから」
「貸し借り、なし?」
「伊吹さんには助けてもらってるからね、二度も」
二度。
そんなことは聞いていない、と慌ただしく頭の中で情報を当たりながら、ついカフェラテのボタンを押した自分が微妙に情けない。
こくりと熱いのを呑み込んだはずの胃にひやひやとしたものが広がるのに、ようやく一つは思いつく。
「阿倍野さんのお子さんのことですか」
「さすが情報通」
赤来はにこやかに笑った。
「あっちこっちのことをあいかわらずよく聞き込んでるなあ、真崎さんは」
まるで名探偵みたいだよね、彼女、と続ける。
「アベちゃんからちょっと話を聞いただけで、何がどうなってるのかすぐ教えてくれたって、彼女も不思議がってた」
君が手放したがらないのはよくわかるよ、ましてや高山さんのとこじゃなあ。
苦笑する赤来の柔らかな雰囲気は京介とは違う種類、女性社員が富崎と並んで安心感のある男としてあげるだけのことはある。
「俺だって、あの人は苦手だ」
伊吹さんならうまくやるかも知れないけどね。
さらっと優しく伊吹の名前を出されて京介はずきんとした。
「もう一回っていうのは、俺が世話になったんだけど」
「赤来さんが?」
これは初耳だ。
とっさに睨み付けてしまいそうになったのを堪えて、目を伏せながら、あつ、と呟き、カップに口をつける。
「総務で書類を落としたんだよ」
「総務…」
「間の悪いことに、高山さんが来ててさ」
高山は女性に受けのいい赤来を煙たがっている。
「これ幸いと、気持ちが緩むと指先も緩むんだなとか、ちょうどアベちゃんが体調崩して早退繰り返してた時だったから、それも当て擦られて」
部下の管理も緩みっ放しじゃないか、と。
ブラックコーヒーを含む赤来が薄く笑う。
大事な書類だったから、富崎さんも探してくれて、俺ももちろん探してて。
「そうしたら、あの子が、この辺にないですか、って棚の辺りを覗き込んだかと思うと、ありましたって」
一瞬みんな呆気に取られた。俺や富崎さんはもちろん、高山さんだって、ぽかんとしちゃって。
「彼女、直前に総務にメール便届けに来ただけなんだぜ? みんながさごそやってるから、どうしたんですか、って聞いて、総務の木崎さんだったかな、この机のあたりに落ちたらしいんだって言っただけ、それなのにまるで全部見てたみたいにすたすたって入ってきて、これですか、って」
京介は目を閉じる。
その光景はすぐに映像として想像できた。いつもみたいにシュレッダーの前で指先を翻すようなあの動きで、魔法みたいに書類を取り出してみせたのだ。
そうか、だから高山があれほど固執したのか。
納得と同時に、その伊吹が赤来の目にどう映ったかも察する。
きっと不思議で。
きっとひどく鮮やかで。
「何だ、この子って、そう思った」
「……」
そんな最初から、赤来は伊吹を見ていたのか。
じゃあ、今伊吹の側に京介が居るのは、たまたまか偶然、そういう僅かな確率だったわけ、か。
ゆっくり目を開けて、赤来が面白そうな顔をしながら横目を遣っているのに気付く。
「…なんです?」
「彼女と結婚するって?」
「……ええ」
「結婚したら、同一部署は駄目だよ?」
「そうですね」
「経理にもらえないかって、頼んでみようと思ってるんだけど」
じろり、と思わず相手を見返してしまった。
「頭がいい子だよね?」
「ええ」
「仕事もきちんとやる」
「そうです」
「誠実で、丁寧だ」
「………」
「家庭を守るには最高の人かもしれないね?」
「………それが?」
「…そういう顔もできるんだ、真崎さん」
赤来が笑みを広げた。
「感情がないのかと思ってたけど」
「僕にだって感情ぐらいありますよ」
「会議で見せてもらった」
やんわり指摘されて、京介は目を細めた。
「……総務や人事に動かすぐらいなら、俺のところがましじゃない? もっとも伊吹さん次第だけど」
こくこくこくこく、ごくん。
一気にカフェラテを飲み干して、京介はぐしゃり、とカップを握り潰した。赤来がちょっと驚いた顔になって瞬きするのに、にっこり笑う。
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