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第3章
3.虚実(1)
逃げたよ、おい。
茫然として、美並は管理課に戻った。
ベランダの時は命じれば戻った。真崎の実家では拒んでも自分を投げ出してきた。
なのに、今、あれほど壊れそうになっているのに、美並から逃げ出してしまった。
なぜ?
「何を、見逃してる?」
何を。
おそらくは、それが真崎の信頼を崩したのだ、美並に話すことはできない、と。
午後からも真崎は戻ってこなくて、そのうち美並に与えられていた仕事もケリがついて。
「………」
未練がましく今必要でもない検索を重ねたり資料をまとめたりしていたが、ついに時間は来てしまった。
時計は待ち合わせ時間に迫りつつある。溜め息をついて周囲を片付け、立ち上がる。
「お先です」
「おつかれさま」
石塚も、戻ってこない真崎を気にはしているのだろう、物問いたげに視線を送ってきたが、今の美並にはそれに答えることばがない。ぺこりと頭を下げて部屋を出た。
明との待ち合わせ場所に急ぎながら、美並の頭の中には空っぽの真崎の机がくるくる回っている。
何だろう。
何だろう。
何を美並は見逃しているのだろう。
別に美並だって万能じゃない、見えなかったものだって一杯あるし、だからと言ってこんな不安を感じたことはなかったのに。
「…うん」
そうだ、何かを見逃しているという感覚も不安なのだが、それがいつもより数倍切羽詰まってくるような気がして落ち着かないのだ。
取り返しのつかない何か、その何かの真横を美並は気付きもしないで通り過ぎていくような。
「そうか、これ」
あの年末のときの微かな微かな違和感だ、と思い付いた。
連絡のこない大石、繋がらない携帯、理性で考えれば応じない理由は幾つもある、そう考えてそっと自分の感覚に蓋をした、あの時の不安感。
「姉ちゃん!」
向田駅前には既に明が待っていた。
その側に肩までの黒いストレートへアで淡い水色のモヘアニット上下の女性が一人。薄いサングラスをかけているのが、11月の淡い日射しに少しばかり目立つ。
「お義姉さん?」
優しい声で呼び掛けながら顔を上げた相手は、にっこりと笑った。
その顔に、屋上から逃げ去ってしまった真崎の顔がなぜか重なってどきりとする。
「すみません、わざわざ」
そっと頭を下げながら、
「葉延七海です、はじめまして」
「ああ、そんな改まった挨拶はいいって」
明がせかせかと割って入る。
「幾つか候補はあるんだ、それを見てやってほしいんだよ」
「何よ、慌てて」
瞬きして戸惑い、七海と明を見比べる。上背のある明の側に寄り添う野原の花のような風情、微かに上体を明の方へ傾けているから一層そう見えるのかもしれない。
「ああ、そうか、この後二人きりのデートか」
思わずからかってしまったのは、真崎に去られた寂しさもあったけれど、二人がこの上なく似合っていて嬉しかったせいだ。
だが、その美並のことばにみるみる七海が頬を染めて俯いてしまった。
「当たり前だろ」
明がしらっとした顔でさりげなく七海を庇うように脚を踏み出す。
「行こう」
「うん」
手を伸ばした七海が明の右肘のあたりに手を触れて、それが二人の距離だと知った。同時に、七海の顔になぜ真崎が重なったのかにも思いつき、急いで謝る。
「ごめんなさい。じゃあ、手早く終わらせようか」
「ちゃんと見てくれ」
「ちゃんと見ます」
「あの、ごめんなさい、もう、明さん」
慌てて顔を上げて、なんて言い方をするの、せっかく来て下さったのに、そう唇を尖らせた七海に、また明が気遣う視線を投げる。
「大丈夫ですから、お義姉さんが一番いいと思うのを教えてくださいね?」
柔らかくとりなす七海に、また真崎が重なって、美並は苦笑した。
「大丈夫よ」
「え?」
「大丈夫。体調が悪いのに無理してきてくれたことぐらい、『見えてる』から」
七海の気遣う微笑と反対の、内側に張り詰めた緊張は腰のあたりに煙る影で感じ取れる。生理がきついのか、体調を崩しているのか。きっと美並との約束を優先させようと無理して来たのだ。
そう考えれば、明のらしくない苛立ったせっかちな態度もよくわかる。
「あ…っ」
「ほらな、言ったろ」
明がぶすっとした声で唸った。
「姉ちゃんには隠し事なんてできないって。だから、まんまの七海でいいんだって」
「でも…」
七海は困った顔で俯く。頬の紅が濃さを増す。
「でも、私」
「大丈夫」
美並は行こうか、と明を促して歩き出しながら、呟くように言ってみせる。
「あなたが考えてる以上に見えてるから、ほんとに困ったことは口になんかしないよ」
茫然として、美並は管理課に戻った。
ベランダの時は命じれば戻った。真崎の実家では拒んでも自分を投げ出してきた。
なのに、今、あれほど壊れそうになっているのに、美並から逃げ出してしまった。
なぜ?
「何を、見逃してる?」
何を。
おそらくは、それが真崎の信頼を崩したのだ、美並に話すことはできない、と。
午後からも真崎は戻ってこなくて、そのうち美並に与えられていた仕事もケリがついて。
「………」
未練がましく今必要でもない検索を重ねたり資料をまとめたりしていたが、ついに時間は来てしまった。
時計は待ち合わせ時間に迫りつつある。溜め息をついて周囲を片付け、立ち上がる。
「お先です」
「おつかれさま」
石塚も、戻ってこない真崎を気にはしているのだろう、物問いたげに視線を送ってきたが、今の美並にはそれに答えることばがない。ぺこりと頭を下げて部屋を出た。
明との待ち合わせ場所に急ぎながら、美並の頭の中には空っぽの真崎の机がくるくる回っている。
何だろう。
何だろう。
何を美並は見逃しているのだろう。
別に美並だって万能じゃない、見えなかったものだって一杯あるし、だからと言ってこんな不安を感じたことはなかったのに。
「…うん」
そうだ、何かを見逃しているという感覚も不安なのだが、それがいつもより数倍切羽詰まってくるような気がして落ち着かないのだ。
取り返しのつかない何か、その何かの真横を美並は気付きもしないで通り過ぎていくような。
「そうか、これ」
あの年末のときの微かな微かな違和感だ、と思い付いた。
連絡のこない大石、繋がらない携帯、理性で考えれば応じない理由は幾つもある、そう考えてそっと自分の感覚に蓋をした、あの時の不安感。
「姉ちゃん!」
向田駅前には既に明が待っていた。
その側に肩までの黒いストレートへアで淡い水色のモヘアニット上下の女性が一人。薄いサングラスをかけているのが、11月の淡い日射しに少しばかり目立つ。
「お義姉さん?」
優しい声で呼び掛けながら顔を上げた相手は、にっこりと笑った。
その顔に、屋上から逃げ去ってしまった真崎の顔がなぜか重なってどきりとする。
「すみません、わざわざ」
そっと頭を下げながら、
「葉延七海です、はじめまして」
「ああ、そんな改まった挨拶はいいって」
明がせかせかと割って入る。
「幾つか候補はあるんだ、それを見てやってほしいんだよ」
「何よ、慌てて」
瞬きして戸惑い、七海と明を見比べる。上背のある明の側に寄り添う野原の花のような風情、微かに上体を明の方へ傾けているから一層そう見えるのかもしれない。
「ああ、そうか、この後二人きりのデートか」
思わずからかってしまったのは、真崎に去られた寂しさもあったけれど、二人がこの上なく似合っていて嬉しかったせいだ。
だが、その美並のことばにみるみる七海が頬を染めて俯いてしまった。
「当たり前だろ」
明がしらっとした顔でさりげなく七海を庇うように脚を踏み出す。
「行こう」
「うん」
手を伸ばした七海が明の右肘のあたりに手を触れて、それが二人の距離だと知った。同時に、七海の顔になぜ真崎が重なったのかにも思いつき、急いで謝る。
「ごめんなさい。じゃあ、手早く終わらせようか」
「ちゃんと見てくれ」
「ちゃんと見ます」
「あの、ごめんなさい、もう、明さん」
慌てて顔を上げて、なんて言い方をするの、せっかく来て下さったのに、そう唇を尖らせた七海に、また明が気遣う視線を投げる。
「大丈夫ですから、お義姉さんが一番いいと思うのを教えてくださいね?」
柔らかくとりなす七海に、また真崎が重なって、美並は苦笑した。
「大丈夫よ」
「え?」
「大丈夫。体調が悪いのに無理してきてくれたことぐらい、『見えてる』から」
七海の気遣う微笑と反対の、内側に張り詰めた緊張は腰のあたりに煙る影で感じ取れる。生理がきついのか、体調を崩しているのか。きっと美並との約束を優先させようと無理して来たのだ。
そう考えれば、明のらしくない苛立ったせっかちな態度もよくわかる。
「あ…っ」
「ほらな、言ったろ」
明がぶすっとした声で唸った。
「姉ちゃんには隠し事なんてできないって。だから、まんまの七海でいいんだって」
「でも…」
七海は困った顔で俯く。頬の紅が濃さを増す。
「でも、私」
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美並は行こうか、と明を促して歩き出しながら、呟くように言ってみせる。
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