1 / 45
1.宙道(シノイ)(1)
しおりを挟む
宙道(シノイ)の闇には、朝も昼も夜もない。
それは深く重く沈む暗闇で、人によっては遥か太古の原始の夜を、あるいは胎児の時に温もりとともに感じていた闇を思い出させる。
「ユーノ?」
「目が覚めた、レス?」
少年は頷いてイルファの背中から滑り降り、ユーノの側へと走り寄った。不安な様子でユーノの手を探り、ぎゅっと掴まってくる。小さな汗ばんだ手を安心させるように握り返してやりながら、ユーノはぼんやりと見える相手に微笑んだ。
「怖いの?」
「だいじょうぶだよ!」
声が甲高く割れたところをみると、やはりかなり怖いらしい。くすりと笑って、アシャに問いかける。
「どのぐらい国を飛ばしている?」
「たぶん、六、七つは」
(アシャ、疲れてる)
声の張りのなさに改めて相手を見直す。
アシャは顔に汗を浮かべ続けている。髪の毛が額に張りつき、疲れた気配の顔に開かれた唇はいつもより濃い赤に染まっているようだ。常に精神を張り続けている疲労のためか、表情が頼りなげな妖しいものに見える。吐き出される息は熱っぽい。
これほど疲労困憊した様子のアシャを、ユーノは見たことがなかった。どんな危うい状況でも、いつも憎らしいほどの余裕で冷静で平然としていて、闘っている最中でさえ自分の綺麗さを利用するしたたかさの持ち主、そういう男がアシャだと思っていた。
宙道(シノイ)を進み始めて半日ほどたったあたりで、宙道(シノイ)への慣れを含めて半日ほどを休息に使ったのだが、その程度ではアシャの体力は回復しなかったらしい。
(やっぱり四人がきついんだ)
ユーノは唇を噛んで眉をひそめた。
アシャを疲れさせているのは、ユーノ達に他ならない。自分にもう少し力があれば、と考えている。
同じような想いでユーノを案じて、アシャが眠れぬ夜を過ごしたことがあるとは考えつかない。ましてや、アシャが宙道(シノイ)を四人で踏破するなどという無茶をしているのが、極端なことを言えば、ただユーノを傷つけないためだけなどとは思いつきもしていない。
「しっかしまあ、不気味なところだな宙道(シノイ)ってのは」
戦いの最中でさえのんびりと聞こえるイルファの声が、さすがに薄気味悪そうに響いた。アシャが苦笑し、まるで演技のような艶やかな動きで額の汗を拭いながら応じる。
「まあな。一般人は通らないところだし……慣れていないせいもあるだろう」
「使っているのは視察官(オペ)だけ、ということか」
イルファがさりげなくアシャのもう一つの役割を口にした。
「ああ」
言外の意味を汲み取ったのか、アシャは一瞬軽く目を閉じた。
イルファが言った「視察官(オペ)だけ」ということばは、その地位にある者、という意味ではない。その能力を持つ者、という意味を含んでいる。つまりは、視察官(オペ)以外の、アシャと同等の力の持ち主、たとえばギヌアなら追ってこれるな、と暗に確認したのだ。
「厄介だな」
「そうならないようにする」
そっけなく言い切ってアシャは唇を結んだ。これ以上無駄な体力は使う気がないという気配、余裕のなさに、ユーノは思わず口を開く。
「アシャ。少し休もう」
「ん? 疲れたのか?」
そうじゃない、と口を尖らせかけたが、思い直してユーノは頷いた。
「うん、ちょっと」
「わかった、小休止していこう。あまりのんびりしていられないんだが」
どこからどのように空間が遮られているのかわからない暗さの中、アシャは見えない壁に沿うように腰を落とすと、深く体を曲げた。肩が軽く上下している。拭き取ったはずの汗が滑らかな頬を流れていく。
「疲れがとれたら起こしてくれ…」
言うや否や、膝を抱え込んですぐに眠りに落ちる。同時にあたりの空間が狭まったような感覚があった。気のせいか、息苦しい。
「アシャ、もうねちゃった。つかれてるんだね」
アシャを覗き込んだレスファートがユーノを振り返る。重く頷くと、側に腰を降ろしてもたれてきた。
「ぼくはちっともねむくない」
「そりゃ、レスはしょっちゅう寝てたから」
混ぜっ返すイルファを、レスファートはじろりと睨んだ。
「だけど」
「ん?」
「ラズーンまで、後どれほど国があるのか知らないけど、こんな状態じゃ、アシャ、もたないよ」
ユーノが思わず呟くと、イルファも頷く。
「ああ……それに、厄介な問題も残ってるしな」
「ギヌア・ラズーンのことだね」
頷き返す。
ギヌアはアシャと五分五分渡り合える遣い手と聞いている。今の疲労し切ったアシャにギヌアが倒せるかどうか怪しい気がする。
「気にいらねえ奴だが、腕は確か…」
言いかけたイルファがことばを切った。立ち上がりながら抜けて来た闇を振り返る。
「…らしいね」
視線に応えて、ユーノも同じように暗がりを見やった。
「何? どうしたの?」
「しっ」
わけのわからぬ顔で尋ねてきたレスファートを制する。
「追手だ」
「どれぐらいだと思う?」
「そうだね…多いな……二、三十人はいる…」
応えた自分の声が殺気立っているのをユーノは感じた。
アシャが自分達四人を通すのに疲労困憊する宙道(シノイ)に、これだけ大量の追手を送り込める『運命(リマイン)』の首領、ギヌア・ラズーン。彼一人でも十分な力を持っているのに、今ではその追手の中にカザドも入っている。
「アシャを起こすか」
これだけの気配に、アシャはまだ目を覚まさない。それは、彼が限界まで力を使っていることを意味している。
(できれば、もう少し休ませてあげたい)
「いや」
首を振り、ゆっくりと剣を引き抜きながら、ユーノはひたひたと迫って来る気配に対峙した。
(どうして、この娘は目覚めない)
アシャは沼地に吸い込まれたような重い眠りの中で、ユーノが三日三晩目を覚まさなかったときのことを思い出している。
極度の疲労、止まらない出血、意識消失。
それはどれ一つとっても、大の男を命取りにする要素だ。
だが、傷ついて今、アシャの目の前に横たわっているのは、たかだか十八になるかならないかの少女、しかも、その危険な要素の全てを身に負っている。
浅い呼吸が静まり返った部屋に響いている。
(冷たい)
そっとユーノの手を取り、冷えきってしまっているのにぞっとした。医術師としての知識が、目の前の少女の、間近に迫った死の影を押しつけてくる。
無言で立ち上がり、掛け物を重ねても重ねても温かくならないユーノの体を優しく撫でた。やがて、少しためらってから、服を脱ぎ捨て、そろとそろとユーノの隣に滑り込む。ぐったりと力の入っていない四肢を引き寄せて、静かに強く、自分の体の熱を伝えるように抱き締める。いつもと違って、何の抵抗もなく自分に沿ってくる冷たい体が、ひどく華奢で脆そうで、今さらながら、相手の体が自分の腕の中に包み込んでしまえるほど小柄なのだと気づく。
(気がついたら蹴り飛ばされそうだな)
苦笑したが、冷えたユーノの中心が、どこか強張り緊張しているのに気づいて笑みを消した。
ユーノは依然目を閉じたままだ。睫毛が淡い陰を頬に落としている。幾度も死の淵に追い詰められているのに、誰をも呼ばなかった唇が、やや苦しそうに薄く開いている。
(誰も呼ばない……自分が死のうとしていても、付き人の俺さえも呼ばない)
締めつけられるような切なさが募って、アシャは眉をしかめた。
(いつも、こんなふうにずたずたになってから、俺の元へ戻ってくる)
そうしてアシャは考える、毎回毎回懲りもせず、どうしてこの娘は目覚めない、どうしてこの娘はこれほど傷つくまで戻ってきてくれない、と。
(それほど、俺の腕は信頼できないか?)
他の美姫達ならば、手練手管を尽くして求められるはずなのに。
(どうして)
「…ユーノ…」
湧き上がる切なさを込めて、アシャは静かに呼んだ。壊れ物を扱うように、額に落ちた髪をかきあげてやる。
「ユーノ?」
動作の何かが意識の底に届いたのだろうか、ユーノが微かに身じろぎした。が、それも一瞬のこと、再び昏々と眠り続ける……いや、しかし、気のせいだろうか、ほんの少し、その体がアシャの側へ寄り添ったようだ。
(ユーノ? 俺に?)
子どもっぽい戸惑いと喜びに心を揺さぶられて、近づけた唇を軽く相手の頬に触れたものの、それ以上は何とか自分を制して、アシャはユーノの体をそろそろと離した。掛け物に移った温もりを逃がさないように、隣で腕枕をしてやりながら横になる。見つめるのはやはり相手の顔、気の強そうな口元や厳しい頬の線をゆっくり視線で辿りながら、胸の中で話しかける。
(一度ぐらい、俺の名を呼んでくれる気はないのか…?)
ふざけて呼ぶのではなく、助けが必要なときに、自分の支えとなる信頼を込めて。
(けれど…)
お前が呼ぶのは、ひょっとしたらイルファ、なのかもしれないな。
「ふぅ」
思わず暗い溜め息をつく。と、
「…」
ふいにユーノの唇が何かを囁いて、はっとした。ぐったりしていた手が、誰かを探すように持ち上がるのに気づく。
「さ…む…」
掠れた声に思わず手を握って掛け物をかけ直し、ユーノの体を元のように抱き寄せる。
(やっぱりエネルギーが足りないんだな……すぐ体が冷える)
そのアシャの手を、まさに探していたもののようにユーノが握り返し、どきりとした。もう一方の手もアシャの方へと伸ばしながら、夢現の遠い声でねだる。
「い…か……ない…で…」
思わずきつく眉を寄せる。
(誰を呼んでる?)
幼い表情の相手が愛おしい。
(俺か? 違う、奴か?)
唇を引き締める。無意識的な動作を装った狡さ、ユーノの体に手を滑らせていく。手から腕へ、肩へ、首へ……顎へ。抱きかかえて包み込んで、そのまま、少し開いたユーノの唇に偶然に触れたように唇を重ねる。
(誰を呼んでいる?)
「ユーノ…」
一瞬唇を離し、堪え切れずに自分が呼んだ。吐息が柔らかだ。唇から零れた温かなものが、自分の唇を満たし、癒していくのを、経験したことのない揺らめく想いで受け止める。
(このまま攫って。『ラズーン』も『二百年祭』も捨てて)
唇を触れ合うか触れ合わないかで寄せたまま、迷う。
(このまま、全部奪い去って……忘れられぬ徴を刻みつけて)
胸が絞られるほど痛かった。唇だけでこれほど甘いならば、体の奥はもっと甘いに決まっている。
だが。
(ばかなことだ)
ひやりとした感覚が蘇った。
(俺が? この、アシャ、が『ラズーン』をどうやって捨てる? 俺が……俺こそが…)
続く思考は無理矢理断ち切った。そのまま動けずにいると、天上の管弦もこれほどの音色ではあるまいというような柔らかな声が囁いた。
「あ…しゃ…」
(俺を)
跳ね上がる心臓に目を見開き息を呑み、ユーノを覗き込んだ。
相手は目を開いていない。目を閉じたまま、けれど、まるですぐ側にアシャが居るのを知ってでもいるように呟く。
「短剣…は…」
「ある」
(ばかな、何をうろたえて)
今の今まで仕掛けていた欲望塗れの悪戯を見られていた気がして冷や汗が出る。震えそうになった声を必死にごまかした。
「よ…か、た」
(気づかれていたなら、拒まれていないということだろう…?)
いつもなら押し通す男の傲慢が、ユーノのことば一つに不安になる。低く優しく問いを重ねるのは、それこそ慣れた処世術だ。
「起きているのか? もう寒くないか?」
「う…ん……少し……」
やはりぼんやりと遠く応じる内容は予想範囲、無言でもう少し自分の体近くに引き寄せる。狡さを自覚しての計算は、ふう、と小さく息を吐いたユーノが、まるで幼子が父親の腕に潜り込んでくるような無邪気さに砕かれる。
胸に、ユーノの吐息が、当たる。びくりととんでもないところが疼いた。
「まだ……寒いか…?」
落ち着こうとはしている、だが自分の声が妖しい戸惑いに揺れている、危うげに、このままどこへでも堕ちていきたくなるように。だが。
「う…ん…」
ほぉ。
静かに吐かれた息は深い安堵に満ちていた。蕩けていくような曖昧な声で応じて、やがてすうすうと寝息を立て始める。体の奥の緊張も消え、緩やかにくったりと、アシャの体に全身任せて眠り込む。
(俺に…)
安心している。
ぞくり、と体の芯が震えた。
部屋は静まり返り、呼吸の音だけが湿った温かみで安らかに響く。
(俺、に)
その中で、アシャの体だけが、場違いな熱さ激しさで脈打っている。
「…く…」
苦く笑った。
「手を、出せるか?」
出せるわけ、ねえよな。
やさぐれた自分のぼやきに苦笑を深める。
これほど傷ついた相手に、これほどの安心を向けられて、押し開けるわけがない。
(それでも)
「俺を呼ぶときも…あるのか…」
口にしてみて、胸に広がった甘酸っぱい喜びも初めての経験だ。
「……なら……いいか」
自分の声が優しい、と感じた。
聞いたことがない、淡く消えそうな優しい声。遠く彼方の空から包み込んでくる薄い雲のようだ。
「今は……お前の枕でも………寝所でも……」
けれど、いつか。
その時には、と考えたとたんに、節操なく高ぶる自分に苦笑いしたが、ふと首もとに冷ややかで重苦しい風が吹きつけたのに、ユーノを庇うように抱き寄せながら、顔を上げた……。
それは深く重く沈む暗闇で、人によっては遥か太古の原始の夜を、あるいは胎児の時に温もりとともに感じていた闇を思い出させる。
「ユーノ?」
「目が覚めた、レス?」
少年は頷いてイルファの背中から滑り降り、ユーノの側へと走り寄った。不安な様子でユーノの手を探り、ぎゅっと掴まってくる。小さな汗ばんだ手を安心させるように握り返してやりながら、ユーノはぼんやりと見える相手に微笑んだ。
「怖いの?」
「だいじょうぶだよ!」
声が甲高く割れたところをみると、やはりかなり怖いらしい。くすりと笑って、アシャに問いかける。
「どのぐらい国を飛ばしている?」
「たぶん、六、七つは」
(アシャ、疲れてる)
声の張りのなさに改めて相手を見直す。
アシャは顔に汗を浮かべ続けている。髪の毛が額に張りつき、疲れた気配の顔に開かれた唇はいつもより濃い赤に染まっているようだ。常に精神を張り続けている疲労のためか、表情が頼りなげな妖しいものに見える。吐き出される息は熱っぽい。
これほど疲労困憊した様子のアシャを、ユーノは見たことがなかった。どんな危うい状況でも、いつも憎らしいほどの余裕で冷静で平然としていて、闘っている最中でさえ自分の綺麗さを利用するしたたかさの持ち主、そういう男がアシャだと思っていた。
宙道(シノイ)を進み始めて半日ほどたったあたりで、宙道(シノイ)への慣れを含めて半日ほどを休息に使ったのだが、その程度ではアシャの体力は回復しなかったらしい。
(やっぱり四人がきついんだ)
ユーノは唇を噛んで眉をひそめた。
アシャを疲れさせているのは、ユーノ達に他ならない。自分にもう少し力があれば、と考えている。
同じような想いでユーノを案じて、アシャが眠れぬ夜を過ごしたことがあるとは考えつかない。ましてや、アシャが宙道(シノイ)を四人で踏破するなどという無茶をしているのが、極端なことを言えば、ただユーノを傷つけないためだけなどとは思いつきもしていない。
「しっかしまあ、不気味なところだな宙道(シノイ)ってのは」
戦いの最中でさえのんびりと聞こえるイルファの声が、さすがに薄気味悪そうに響いた。アシャが苦笑し、まるで演技のような艶やかな動きで額の汗を拭いながら応じる。
「まあな。一般人は通らないところだし……慣れていないせいもあるだろう」
「使っているのは視察官(オペ)だけ、ということか」
イルファがさりげなくアシャのもう一つの役割を口にした。
「ああ」
言外の意味を汲み取ったのか、アシャは一瞬軽く目を閉じた。
イルファが言った「視察官(オペ)だけ」ということばは、その地位にある者、という意味ではない。その能力を持つ者、という意味を含んでいる。つまりは、視察官(オペ)以外の、アシャと同等の力の持ち主、たとえばギヌアなら追ってこれるな、と暗に確認したのだ。
「厄介だな」
「そうならないようにする」
そっけなく言い切ってアシャは唇を結んだ。これ以上無駄な体力は使う気がないという気配、余裕のなさに、ユーノは思わず口を開く。
「アシャ。少し休もう」
「ん? 疲れたのか?」
そうじゃない、と口を尖らせかけたが、思い直してユーノは頷いた。
「うん、ちょっと」
「わかった、小休止していこう。あまりのんびりしていられないんだが」
どこからどのように空間が遮られているのかわからない暗さの中、アシャは見えない壁に沿うように腰を落とすと、深く体を曲げた。肩が軽く上下している。拭き取ったはずの汗が滑らかな頬を流れていく。
「疲れがとれたら起こしてくれ…」
言うや否や、膝を抱え込んですぐに眠りに落ちる。同時にあたりの空間が狭まったような感覚があった。気のせいか、息苦しい。
「アシャ、もうねちゃった。つかれてるんだね」
アシャを覗き込んだレスファートがユーノを振り返る。重く頷くと、側に腰を降ろしてもたれてきた。
「ぼくはちっともねむくない」
「そりゃ、レスはしょっちゅう寝てたから」
混ぜっ返すイルファを、レスファートはじろりと睨んだ。
「だけど」
「ん?」
「ラズーンまで、後どれほど国があるのか知らないけど、こんな状態じゃ、アシャ、もたないよ」
ユーノが思わず呟くと、イルファも頷く。
「ああ……それに、厄介な問題も残ってるしな」
「ギヌア・ラズーンのことだね」
頷き返す。
ギヌアはアシャと五分五分渡り合える遣い手と聞いている。今の疲労し切ったアシャにギヌアが倒せるかどうか怪しい気がする。
「気にいらねえ奴だが、腕は確か…」
言いかけたイルファがことばを切った。立ち上がりながら抜けて来た闇を振り返る。
「…らしいね」
視線に応えて、ユーノも同じように暗がりを見やった。
「何? どうしたの?」
「しっ」
わけのわからぬ顔で尋ねてきたレスファートを制する。
「追手だ」
「どれぐらいだと思う?」
「そうだね…多いな……二、三十人はいる…」
応えた自分の声が殺気立っているのをユーノは感じた。
アシャが自分達四人を通すのに疲労困憊する宙道(シノイ)に、これだけ大量の追手を送り込める『運命(リマイン)』の首領、ギヌア・ラズーン。彼一人でも十分な力を持っているのに、今ではその追手の中にカザドも入っている。
「アシャを起こすか」
これだけの気配に、アシャはまだ目を覚まさない。それは、彼が限界まで力を使っていることを意味している。
(できれば、もう少し休ませてあげたい)
「いや」
首を振り、ゆっくりと剣を引き抜きながら、ユーノはひたひたと迫って来る気配に対峙した。
(どうして、この娘は目覚めない)
アシャは沼地に吸い込まれたような重い眠りの中で、ユーノが三日三晩目を覚まさなかったときのことを思い出している。
極度の疲労、止まらない出血、意識消失。
それはどれ一つとっても、大の男を命取りにする要素だ。
だが、傷ついて今、アシャの目の前に横たわっているのは、たかだか十八になるかならないかの少女、しかも、その危険な要素の全てを身に負っている。
浅い呼吸が静まり返った部屋に響いている。
(冷たい)
そっとユーノの手を取り、冷えきってしまっているのにぞっとした。医術師としての知識が、目の前の少女の、間近に迫った死の影を押しつけてくる。
無言で立ち上がり、掛け物を重ねても重ねても温かくならないユーノの体を優しく撫でた。やがて、少しためらってから、服を脱ぎ捨て、そろとそろとユーノの隣に滑り込む。ぐったりと力の入っていない四肢を引き寄せて、静かに強く、自分の体の熱を伝えるように抱き締める。いつもと違って、何の抵抗もなく自分に沿ってくる冷たい体が、ひどく華奢で脆そうで、今さらながら、相手の体が自分の腕の中に包み込んでしまえるほど小柄なのだと気づく。
(気がついたら蹴り飛ばされそうだな)
苦笑したが、冷えたユーノの中心が、どこか強張り緊張しているのに気づいて笑みを消した。
ユーノは依然目を閉じたままだ。睫毛が淡い陰を頬に落としている。幾度も死の淵に追い詰められているのに、誰をも呼ばなかった唇が、やや苦しそうに薄く開いている。
(誰も呼ばない……自分が死のうとしていても、付き人の俺さえも呼ばない)
締めつけられるような切なさが募って、アシャは眉をしかめた。
(いつも、こんなふうにずたずたになってから、俺の元へ戻ってくる)
そうしてアシャは考える、毎回毎回懲りもせず、どうしてこの娘は目覚めない、どうしてこの娘はこれほど傷つくまで戻ってきてくれない、と。
(それほど、俺の腕は信頼できないか?)
他の美姫達ならば、手練手管を尽くして求められるはずなのに。
(どうして)
「…ユーノ…」
湧き上がる切なさを込めて、アシャは静かに呼んだ。壊れ物を扱うように、額に落ちた髪をかきあげてやる。
「ユーノ?」
動作の何かが意識の底に届いたのだろうか、ユーノが微かに身じろぎした。が、それも一瞬のこと、再び昏々と眠り続ける……いや、しかし、気のせいだろうか、ほんの少し、その体がアシャの側へ寄り添ったようだ。
(ユーノ? 俺に?)
子どもっぽい戸惑いと喜びに心を揺さぶられて、近づけた唇を軽く相手の頬に触れたものの、それ以上は何とか自分を制して、アシャはユーノの体をそろそろと離した。掛け物に移った温もりを逃がさないように、隣で腕枕をしてやりながら横になる。見つめるのはやはり相手の顔、気の強そうな口元や厳しい頬の線をゆっくり視線で辿りながら、胸の中で話しかける。
(一度ぐらい、俺の名を呼んでくれる気はないのか…?)
ふざけて呼ぶのではなく、助けが必要なときに、自分の支えとなる信頼を込めて。
(けれど…)
お前が呼ぶのは、ひょっとしたらイルファ、なのかもしれないな。
「ふぅ」
思わず暗い溜め息をつく。と、
「…」
ふいにユーノの唇が何かを囁いて、はっとした。ぐったりしていた手が、誰かを探すように持ち上がるのに気づく。
「さ…む…」
掠れた声に思わず手を握って掛け物をかけ直し、ユーノの体を元のように抱き寄せる。
(やっぱりエネルギーが足りないんだな……すぐ体が冷える)
そのアシャの手を、まさに探していたもののようにユーノが握り返し、どきりとした。もう一方の手もアシャの方へと伸ばしながら、夢現の遠い声でねだる。
「い…か……ない…で…」
思わずきつく眉を寄せる。
(誰を呼んでる?)
幼い表情の相手が愛おしい。
(俺か? 違う、奴か?)
唇を引き締める。無意識的な動作を装った狡さ、ユーノの体に手を滑らせていく。手から腕へ、肩へ、首へ……顎へ。抱きかかえて包み込んで、そのまま、少し開いたユーノの唇に偶然に触れたように唇を重ねる。
(誰を呼んでいる?)
「ユーノ…」
一瞬唇を離し、堪え切れずに自分が呼んだ。吐息が柔らかだ。唇から零れた温かなものが、自分の唇を満たし、癒していくのを、経験したことのない揺らめく想いで受け止める。
(このまま攫って。『ラズーン』も『二百年祭』も捨てて)
唇を触れ合うか触れ合わないかで寄せたまま、迷う。
(このまま、全部奪い去って……忘れられぬ徴を刻みつけて)
胸が絞られるほど痛かった。唇だけでこれほど甘いならば、体の奥はもっと甘いに決まっている。
だが。
(ばかなことだ)
ひやりとした感覚が蘇った。
(俺が? この、アシャ、が『ラズーン』をどうやって捨てる? 俺が……俺こそが…)
続く思考は無理矢理断ち切った。そのまま動けずにいると、天上の管弦もこれほどの音色ではあるまいというような柔らかな声が囁いた。
「あ…しゃ…」
(俺を)
跳ね上がる心臓に目を見開き息を呑み、ユーノを覗き込んだ。
相手は目を開いていない。目を閉じたまま、けれど、まるですぐ側にアシャが居るのを知ってでもいるように呟く。
「短剣…は…」
「ある」
(ばかな、何をうろたえて)
今の今まで仕掛けていた欲望塗れの悪戯を見られていた気がして冷や汗が出る。震えそうになった声を必死にごまかした。
「よ…か、た」
(気づかれていたなら、拒まれていないということだろう…?)
いつもなら押し通す男の傲慢が、ユーノのことば一つに不安になる。低く優しく問いを重ねるのは、それこそ慣れた処世術だ。
「起きているのか? もう寒くないか?」
「う…ん……少し……」
やはりぼんやりと遠く応じる内容は予想範囲、無言でもう少し自分の体近くに引き寄せる。狡さを自覚しての計算は、ふう、と小さく息を吐いたユーノが、まるで幼子が父親の腕に潜り込んでくるような無邪気さに砕かれる。
胸に、ユーノの吐息が、当たる。びくりととんでもないところが疼いた。
「まだ……寒いか…?」
落ち着こうとはしている、だが自分の声が妖しい戸惑いに揺れている、危うげに、このままどこへでも堕ちていきたくなるように。だが。
「う…ん…」
ほぉ。
静かに吐かれた息は深い安堵に満ちていた。蕩けていくような曖昧な声で応じて、やがてすうすうと寝息を立て始める。体の奥の緊張も消え、緩やかにくったりと、アシャの体に全身任せて眠り込む。
(俺に…)
安心している。
ぞくり、と体の芯が震えた。
部屋は静まり返り、呼吸の音だけが湿った温かみで安らかに響く。
(俺、に)
その中で、アシャの体だけが、場違いな熱さ激しさで脈打っている。
「…く…」
苦く笑った。
「手を、出せるか?」
出せるわけ、ねえよな。
やさぐれた自分のぼやきに苦笑を深める。
これほど傷ついた相手に、これほどの安心を向けられて、押し開けるわけがない。
(それでも)
「俺を呼ぶときも…あるのか…」
口にしてみて、胸に広がった甘酸っぱい喜びも初めての経験だ。
「……なら……いいか」
自分の声が優しい、と感じた。
聞いたことがない、淡く消えそうな優しい声。遠く彼方の空から包み込んでくる薄い雲のようだ。
「今は……お前の枕でも………寝所でも……」
けれど、いつか。
その時には、と考えたとたんに、節操なく高ぶる自分に苦笑いしたが、ふと首もとに冷ややかで重苦しい風が吹きつけたのに、ユーノを庇うように抱き寄せながら、顔を上げた……。
0
あなたにおすすめの小説
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
わたしにしか懐かない龍神の子供(?)を拾いました~可愛いんで育てたいと思います
あきた
ファンタジー
明治大正風味のファンタジー恋愛もの。
化物みたいな能力を持ったせいでいじめられていたキイロは、強引に知らない家へ嫁入りすることに。
所が嫁入り先は火事だし、なんか子供を拾ってしまうしで、友人宅へ一旦避難。
親もいなさそうだし子供は私が育てようかな、どうせすぐに離縁されるだろうし。
そう呑気に考えていたキイロ、ところが嫁ぎ先の夫はキイロが行方不明で発狂寸前。
実は夫になる『薄氷の君』と呼ばれる銀髪の軍人、やんごとなき御家柄のしかも軍でも出世頭。
おまけに超美形。その彼はキイロに夢中。どうやら過去になにかあったようなのだが。
そしてその彼は、怒ったらとんでもない存在になってしまって。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
異世界転移物語
月夜
ファンタジー
このところ、日本各地で謎の地震が頻発していた。そんなある日、都内の大学に通う僕(田所健太)は、地震が起こったときのために、部屋で非常持出袋を整理していた。すると、突然、めまいに襲われ、次に気づいたときは、深い森の中に迷い込んでいたのだ……
『召喚ニートの異世界草原記』
KAORUwithAI
ファンタジー
ゲーム三昧の毎日を送る元ニート、佐々木二郎。
ある夜、三度目のゲームオーバーで眠りに落ちた彼が目を覚ますと、そこは見たこともない広大な草原だった。
剣と魔法が当たり前に存在する世界。だが二郎には、そのどちらの才能もない。
――代わりに与えられていたのは、**「自分が見た・聞いた・触れたことのあるものなら“召喚”できる」**という不思議な能力だった。
面倒なことはしたくない、楽をして生きたい。
そんな彼が、偶然出会ったのは――痩せた辺境・アセトン村でひとり生きる少女、レン。
「逃げて!」と叫ぶ彼女を前に、逃げようとした二郎の足は動かなかった。
昔の記憶が疼く。いじめられていたあの日、助けを求める自分を誰も救ってくれなかったあの光景。
……だから、今度は俺が――。
現代の知恵と召喚の力を武器に、ただの元ニートが異世界を駆け抜ける。
少女との出会いが、二郎を“召喚者”へと変えていく。
引きこもりの俺が、異世界で誰かを救う物語が始まる。
※こんな物も召喚して欲しいなって
言うのがあればリクエストして下さい。
出せるか分かりませんがやってみます。
「強くてニューゲーム」で異世界無限レベリング ~美少女勇者(3,077歳)、王子様に溺愛されながらレベリングし続けて魔王討伐を目指します!~
明治サブ🍆スニーカー大賞【金賞】受賞作家
ファンタジー
作家志望くずれの孫請けゲームプログラマ喪女26歳。デスマーチ明けの昼下がり、道路に飛び出した子供をかばってトラックに轢かれ、異世界転生することになった。
課せられた使命は魔王討伐!? 女神様から与えられたチートは、赤ちゃんから何度でもやり直せる「強くてニューゲーム!?」
強敵・災害・謀略・謀殺なんのその! 勝つまでレベリングすれば必ず勝つ!
やり直し系女勇者の長い永い戦いが、今始まる!!
本作の数千年後のお話、『アイテムボックス無双 ~何でも収納! 奥義・首狩りアイテムボックス!~』を連載中です!!
何卒御覧下さいませ!!
【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。
しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!?
助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、
「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。
幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。
ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく!
ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる