ひこうき雲

みどり

文字の大きさ
上 下
76 / 85

満月

しおりを挟む
(ゆいの回)


今日の満月は綺麗だ。いや、満月はいつも綺麗だ。


どこかのニュースでは春一番が吹いたとか言っていた。


月が高くなると風は止んでいた。



小さい頃にも、今日のように月を見上げたことがあったな。



私の父は高速バスの運転手をしている。

お正月やクリスマスなどはいつも仕事でいなかった。

父の仕事はそういうものだと思っていた。

みんなと同じじゃなくても、あまり気にならなかった。


保育園に通っていた頃

園で父を見て友だちが泣き出しても

全く気にならず

私は父のことが大好きだった。



そういえば

小さい頃の私には楽しみにしていることがあったな。


年に数回

母と私は、他のお客さんに紛れて

父の運転するバスに乗ることがあった。


出かけて行くことが目的ではなく

帰りに父のバスに乗るためだった。

一番後ろの席にいつも乗っていた。


母が「景色の見える窓側に座れば?」と言っても

私は通路側の席に座り

しょっちゅう身を乗り出して

運転手の父が見えないか、見ていた。


小さい私からは見えるはずもなく

母にはよく注意された。

そんな私のことが父には見えていたらしい。


同居する祖母たちを「一緒に行こう」と誘っても

毎回用事があり「ママとふたりで行っておいで」

と言われていた。


仕事が終わって着替えた父と3人で帰るのが楽しみだった。


あの日も今日のような満月だった。

私は父と母と手を繋いで

「お月さま綺麗ね」と言っていた。


家に帰ろう。



私は久しぶりにタクシー運転手のトシコさんに電話をかけた。


いつもの秘密の場所で待ち合わせた。


トシコさんの車に乗る時は

他のドライバーに見つからないようにしている。


「みんなが私ばかり指名するから

おじさんたちがひがんじゃうの。

だから、少し歩かせるけど、ごめんなさいね。」


今夜のトシコさんもいつもと変わらない。


彼女は、私が生まれる前…母が学生の頃からずっと

タクシードライバーをしているらしい。


「あのヒト絶対人間じゃないわよ。」

母がよく言っている。


私はトシコさんにソコのトコロを聞いてみた。


窓の外に見える今日の満月はずっと私たちについてくる。


「ゆいちゃん、そんなこと聞いちゃったら

もう、こっちの世界には戻れなくなるかもしれないわよ。」


ルームミラー越しに目が合ったトシコさんは怪しく微笑む。


戻れなくなってもいい、かもしれない。



「お代はいつもみたいにパパにツケとけばいいのよね?」


「はい。お願いします。ありがとうございました。」


「こちらこそ、ありがとね。パパとママによろしくね。」


何処にも行かなかった。私はまだ修行が足りないのかもしれない。



しおりを挟む

処理中です...