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本編

9.1日目/事故

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 振り返れば、俺は通勤電車でもよく居眠りしていたものだけれど、電車と乗り合い馬車を同列のように考えてはいけなかった。御者はともかく、前だけを見据えて懸命に走り続ける馬は自分に引っ付いた荷物が横転するかもしれないなんて事は少しも考慮してくれないからだ。

 居眠りどころではなく完全に熟睡していた俺は、突如として背中を襲った激しい衝撃と音、そして遅れてやって来た浮遊感に、わートラックに撥ねられた! なんて見当違いな錯覚をしながら目覚めた。慌ててパッと目を開けたら眼前では既にスローモーションが展開されてしまっていたのだ。あ、詰んだ……と誰でも思うだろう。

 馬がさっと避けた路傍の石塊を、荷台の方は避けきれなかったのだというのは後から聞いた話だ。馬は悪くない。御者がうっかり目測を見誤ったのが原因だ。荷台の側面が勢いよく石塊に接触し、大きく傾いで片側の車輪が浮いてしまった。

 指一本動かせないまま、重力に従い落ちて行く。着地した瞬間は、ドンとかバンとかいう次元を超えてリアルに落雷みたいな音がした。酷い耳鳴りがして全身が打ち付けられる。鈍い痛みは後からやって来た。揺れと言うには暴力的過ぎたが、横転するのは免れたらしい。確認の為か馬車は一旦停止した。

 ――死……ぬかと思ったぁぁ。

 いい歳してちょっと泣きそうだ。胸を突き破りそうな勢いで心臓がバクバク鳴っている。身体の硬直が解けないまま目だけ動かすと、倒れ込んでしまっている客や滑り落ちた挙げ句に座席に頭を打ち付けた様子の客の姿が見えた。あちこちから呻き声がする。俺は幸いにも座席に座ったままだし、頭も打っていない。すごい怖かったけど、それだけだ。良かった、と一度は安堵したのだが……。

「……フィー? 大丈夫か?」

 その声にハッとして「エイジこそ大丈夫?」とか言おうとした。でも全く言葉にならなかった。

「焦ったー初日でこれかよ、馬車移動きっつ!」
「…………」
「……ん? どした、フィー。舌噛んだ?」

 いや、いやいやいや。違う。舌とかこの際どうでも良い。

「あ、……あ、」
「……え、ガチなやつ? 見せてみ?」

 こっちを心配そうに覗き込んできた瑛士君の指先が俺の顎にかかる……というか近い! 距離がない! 無理! 声出ろ! パニックに陥った俺は咄嗟に瑛士君の手首をガッシリ掴んで激しく首を横に振る。大丈夫じゃないけど大丈夫。

「お、おう……」

 驚かせてしまったようだが、何とか俺の意図は伝わったらしい。

 何が起こったのか……取り乱しつつも頭をフル回転させる。俺がハッと気づいた時には、俺の頭は何故かがっつり瑛士君の肩の上に乗っていた。瑛士君がその頭を抱え込むように左腕を回してくれていたので、腕枕状態と言った方が正しいのかもしれない。そして反対側の腕は俺の肩にしっかりと回されていた。現在も継続中のこれは所謂「抱擁」という状態ではないだろうか。

 はっきり意識すると手足は冷え、顔が一気に熱くなった。

 推測ではあるが、寝こけた挙げ句にだらしなく瑛士君の肩に凭れ掛かっていた救いようのないアホの俺を、瑛士君が抱え込んで衝撃から守ってくれようとしたんだと思う。意識のない俺が宙に投げ出されないように、頭を打ち付けないようにと。怪我しなかったのは別に俺の運が良かった訳じゃない。

 身構える暇も考える暇もなかった短い間に、瑛士君は俺相手にごくごく自然にそんな事が出来てしまうのだ。しかも何だ、俺の舌なんて心配までする。そんなのって……格好良すぎるだろ、瑛士君。ガチ恋製造機か。

「あぁぁ……も、嫌になる……」
「フィー?」
「っうう、……」

 何かもう涙出てきた。

「はっ? ちょっ、……フィー?」

 俺が瑛士君の手首を掴んだままだから、完全に困らせている。人前で泣くなんて酷い醜態を晒しているが止めようがない。どうしようもなく好き過ぎて泣けるのだ。どうしたら良いかなんて俺にも分からない。頼むから瑛士君は自分の事だけ守って欲しい。

「あーぁ……初日からボロボロだな」

 べそべそ泣く俺に仕方なさそうに小さく笑って、もう掴む力もない手首を穏やかに取り返される。ついでみたいにその掌で荒っぽく涙を拭って、離れていく。だから、ほら。そういう所を何とかして欲しい。

 心臓が鳴り止まない。これが吊り橋効果なら一過性で終わってくれるのになぁ。

 腕枕と化していた手が後ろからぽんぽんと規則的に俺の頭を叩く。あああ、もう。やっと定位置に座り直してくれたと安心したばかりなのに。瑛士君は油断も隙もない、と湿った熱っぽい息を吐き捨てた。







 馬車は何事もなく進む。相変わらずガタガタ揺れるが破損はなかったようだ。派手に御者に突っ掛かって騒ぎを起こした人なんかも居て、俺ばかり悪目立ちしていなかった事に密かに胸を撫で下ろす。一度冷静になってしまえば恥ずかしくて死にそうだ。

 こういう事は間々あるのだと、揺れで荷物をぶち撒いてしまった御婦人が泣く泣く言っていた。一刻も早く日本の安全基準をこちらにも導入して欲しい。まだまだ王都まで馬車移動なのだ。こんなの何度もあって貰っては困る。本当もう切実に。

 その後は順調に進み、一つの町を越えて日が暮れる頃に二つ目の町で下りた。見慣れない町並みが物珍しくて眺めていたら、そっと背後から近づいてきた瑛士君に「鈴つけるぞ」と嫌な感じに脅される。

「要らないよ。宿屋の名前だって覚えてるし」
「じゃあ逸れても宿屋集合で大丈夫だな」
「そもそも逸れないけどね?」

 俺だってまだまだ異世界初心者の瑛士君を一人にするつもりはない。しかし瑛士君は瑛士君で、馬車で号泣したのは単純に怖かったからだと思っているらしく、俺に対する年下扱いが酷い。人生経験なら確実に俺の方が上なのに。

「そういえば聞いた事なかったけどエイジって今何歳? 高校生……いや大学生?」

 とりあえず宿屋に向かおうと歩いている最中に聞いてみた。俺と一緒に中学を卒業したのは確実なのだが、どの時点で瑛士君が異世界に転移してきたのかまでは分からない。大学生くらいに見えるけれど、元々が大人っぽい印象なので判断に迷う所だ。

「十九、かな。たぶん」

 ぼんやりとした答えが返ってきた。この世界に来た当初はしばらく森を彷徨っていたと言うから自信がないのかもしれない。やっぱり大学生だったのかーって気持ちが半分と、日本ならまだ未成年じゃんと思う気持ちが半分。こっちは十五で成人だが。

「フィーこそ何歳なんだ?」
「十七……だけど前世分も足して良い?」
「なしだろ」

 話しに夢中で歩みが遅くなりがちな俺の背をさり気なく押してくる瑛士君。薄暗くなりつつある町中にはあまりガラの良くない人もチラホラ見かける。あまりゆっくりもしていられないらしい。少しばかり急ぎ足で向かった宿屋は、兄ちゃんが勧めるだけあって質実剛健って感じだった。清潔感はあるし、客層も悪くない。食堂が併設されているタイプのようで、わざわざ外を出歩かなくて良いのが有り難い。

 しかし、ここで問題が一つ。

「二名様ですね。お部屋は二部屋にされますか?」

 受付のお姉さんは恐らくマニュアル通りの言葉を放っている。応対しているのは俺だ。聞かれているのも当然俺なのだが、こっちは事前に用意していた言葉が中々出ない。

「一部屋でよろしいですか?」

 答えないから困らせてしまっている。予定通り一部屋だと答えれば良いだけなのに、つい昼間の出来事が頭を過ってしまい、更には瑛士君がまだ未成年だなんて余計な情報まで湧いてくる。

「えっと……」
「一部屋で。支払いって今日ですか? 明日?」
「本日お願いします」

 見かねた瑛士君が割り込んで来た途端、劇的にスムーズになった受付作業にお姉さんも若干嬉しそうだ。申し訳ない。

「手間取る所あった? 何か気になる?」
「いや……何でもない」

 ただ今日は何となく瑛士君と同じ部屋で寝泊まりするのに抵抗がある、なんて事を言える訳がない。旅先だからいつもより意識しちゃって……などと恥じらいながら口にして許されるのは可愛い女の子だけだと俺だって分かっているつもりだ。

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