旦那様には想い人がいるようなので、私は好きにさせていただきます!

水川サキ

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12、妻が、愛人を持つ?


 賑わう町の一角、高級洋装店の前で、カルベスはマデリーンに腕を引かれながら店に入った。
 気乗りしないカルベスの横で、マデリーンはドレス選びに目を輝かせる。
 カルベスがぼんやりしているせいか、マデリーンが眉をひそめた。

「もう、カルベスったら。そんなにお父様のことを気にしても仕方ないわ。使用人も奥様もついているし、あなたがいなくても変わらないわよ」

 カルベスはミアのときと同様、岩のように固まった。
 だが、どうにか口を開く。

「まあ、そうだが……俺の、存在価値……」

 ぶつぶつ呟くカルベスをよそに、マデリーンは目についたドレスを次々と店主に手渡しながら弾んだ声を上げた。

「これも試着するわ! あ、それからこの色違いも持ってきてちょうだい!」

 カルベスはその光景をぼんやり眺めながら、深いため息をついた。
 父の具合がよくないということを理由にしたが、実は違う。
 ディルクが自分の留守中にミアに接近するのではないか、ということを危惧していた。

 ディルクの言葉が何度も頭の中で反響するのだ。

『僕は気になるなあ、奥さんが』

 冗談だと思いたいが、あながち本気かもしれないとカルベスは思った。
 10年の付き合いだからこそわかる。
 ディルクは本気になれば、あっさりと人の心に入り込み、惹きつける男だ。
 そしてミアは、確実に彼の好みのタイプだ。

(なんだこの痛み……胸の奥が針で何度も刺されているような気分だ。それに息苦しいほどもやもやする)

 マデリーンが着替えをしているあいだ、カルベスは並んだドレスを眺めていた。
 その中で、淡いピンクのドレスに目を留める。
 ひらりとしたレースに控えめな装飾だが、パールが照明を受けてほのかに輝き、上品な印象を与えている。

(ミアに似合いそうだな)

 カルベスはそのドレスをミアがまとっている様子を想像した。
 次の瞬間、どんっと視界を遮るように、試着を終えたマデリーンが立った。

「カルベス、どうかしら?」
「えっ……」

 カルベスは言葉を失った。
 マデリーンは赤と紫の色が大胆に交じり合う独特のドレスを着ていた。
 照明を受けて艶めく色彩が、妖艶さと大人の色気を際立たせている。
 普段のマデリーンは赤やブルーやオレンジといったはっきりした色を身につけているが、これはそれをはるかに上回る強烈なインパクトがある。

「せっかく恋人と過ごせる時間だもの。大人っぽくしたいわよね」
「え、うん……もう少し、控えめでも……」
「まあ、カルベスの好みではないの? じゃあ、これはやめるわ。そっちの赤一色にしてちょうだい」
「俺に合わせることはないよ。好きなドレスを着ればいい」
「だめよ。今夜のためにあでやかにしなければならないわ」
「……今夜?」

 首を捻るカルベスをよそに、マデリーンはさっさと着替えに向かった。

 濃い薔薇のような赤のドレスを着たマデリーンと、馬車に乗ってレストランへ向かい、そこで豪勢な昼食をとった。
 この町でも一番腕の立つシェフの料理だったので、マデリーンは満足してくれるだろうとカルベスは思っていたが、意外なことに彼女はほとんど料理を残した。

「ドレスが窮屈で入らないの」
「もう少しゆったりしたドレスにする?」
「だめよ。勝負ドレスなんだから」
「はぁ……」

 カルベスはため息をつくと、自身は綺麗に料理を平らげた。

 そのあとは、劇場へ向かった。
 最近この町で評判の高い観劇で、マデリーンはそれを絶対に観たいと言っていた。
 物語は数年ぶりに再会した恋人たちが愛を語り合うという内容だ。
 マデリーンはカルベスの手をぎゅっと握って、恋人たちが抱擁するシーンを見つめている。
 その横でカルベスは表情を強張らせながら目を見開いている。

 役者の男がディルクに似ているのだ。
 カルベスにはまるでディルクがミアを抱きしめているように見えた。
 カルベスは頭の中でさまざまな想像を繰り広げた。
 ディルクがミアに愛の告白をし、抱擁し、ふたりがキスをする寸前――

「……カルベス、カルベス」
「え?」
「終わったわよ」

 マデリーンの声で我に返ったカルベスは周囲を見まわした。
 すでに観客は立ち上がり、劇場の出口へと列を作っている。

「カルベスったら、感動しすぎて動けなくなったのね」
「あ、ああ。そう、かな……」
「まるであたしたちの物語だったわね」

 カルベスは心ここにあらず、内容がまったく頭に入っていなかった。

 急に罪悪感に襲われた。
 せっかくマデリーンが遠方から会いに来てくれて、初めてのデートだというのに、自分は妻のことばかり考えている。
 このままデートを重ねてもマデリーンをがっかりさせるだけだろうと思い、カルベスは思いきって思いを打ち明けた。

「申し訳ないんだけど、そろそろ帰宅してもいいかな?」
「え? だめよ! これから夜の時間があるわ」
「父の具合が心配だ」
「だから! お父様の具合が悪くなっても奥様がいるから大丈夫でしょ!」

 この理由はもはや通じない。
 だから正直な気持ちをぶちまけた。

「妻が心配で」
「はあ? どうして奥様が心配なの? あの人は元気じゃないの!」
「ディルクもいるし」
「あら、ちょうどいいじゃない。ディルク様は独身だし、奥様との仲を深めていただければいいわ。そうすれば奥様も愛人が持てるから寂しくないわよ」
「……妻が、愛人を持つ?」

 カルベスは血の気が引いたような顔で立ち尽くす。
 そんなことなど気にも留めず、マデリーンは鼻歌を口ずさみながら馬車の前に立つ。

「カルベス! 早くして。あたしたちの大切な夜の時間が始まるわ!」

 カルベスは放心状態のままふらつく足取りで馬車に乗り込む。
 その胸中は混乱していた。

(妻が愛人を持つ。相手はディルク。いや、俺に反対する権利はない。だが、ディルクではなく俺の知らない相手にしてほしい、というのは俺のわがままだろうか?)


 ふたりを乗せた馬車は、夕暮れの丘の道をゆっくりと走っていった。
 やがて辿り着いたのは、貴族御用達の静かなコテージ。
 入口では数人の職員が恭しく出迎える。

「星がよく見える天窓のお部屋をご用意いたしました。今夜は晴れていますので星が綺麗に見えるでしょう」

 職員からそのように言われると、マデリーンは手を叩いて感激の声を上げた。

「まあ、素晴らしいわ! まるで、星たちがあたしたちを歓迎してくれているみたいね!」

 この夜の晩餐も豪勢な料理が並んだが、マデリーンはほとんど手をつけず、代わりにデザートのケーキやプディングばかりを口にした。
 カルベスはドレスを着替えるように提案したが、やはりマデリーンは拒絶した。

(そのドレスに何の意味があるんだろう?)

 疑問を抱きつつも、カルベスは出された料理をきちんと完食した。

 そして夜、カルベスは星の見える部屋にマデリーンとふたりきり。
 部屋はそれほど広さはないが、豪華な調度品が並び、ベッドには上質なシーツがかけられている。
 ふかふかのソファには大きなクッションが置かれ、マデリーンはカルベスの手を取るとそこへ腰を下ろした。

「ねえ、今夜はあたしたちにとって最高の夜になりそうよ」
「……え? うん」
「ワインで乾杯でもしようかしら?」
「いや、俺はいいよ」
「まあ、ではすぐにでもベッドで横になる?」
「ああ、そうしよう。今日は疲れただろうし、ゆっくり休養しよう。俺は着替えてくるから」
「え?」
「マデリーンも早く着替えたほうがいいよ。その格好だと疲れるだろう?」
「へ? だ、だって……」
「どうかした?」

 マデリーンは呆然とした顔をしていたが、やがてその表情に怒りが滲み出た。
 そしてカルベスの袖を掴み、ぐいっと引っ張る。

「ちょっとカルベス! 今夜はあたしたち、ふたりきりなのよ!」
「ああ、うん。そうだね」
「どうしてそんなに冷静なの? あたしたちはここで愛を育むのに」
「え、えーっと、それってつまり……」
「あたしはこの日のためにずっと会えなくても耐えてきたの! カルベスと恋人同士のことをするために!」

 カルベスは言葉に詰まった。
 マデリーンの言いたいことはわかるが、その気になれない。

「マデリーン、落ち着いて」
「落ち着けないわよ! 何のためにカルベスを高揚させるドレスを着ていると思っているの?」
「ええー……ぜんぜんそんな……」
「カルベスはあたしのこと愛していないの?」

 問われて、ふと思う。
 マデリーンを愛しているのかどうか、自分でもわからなくなっている。

 無言になるカルベスに、マデリーンは激昂した。

「もういいわよ! カルベスなんて嫌いよ! うわああああんっ!」
「ちっ、ちょっと、マデリーン。泣かないでくれ」
「いやよいやよカルベスのばかああああっ!」
「わかった。わかったから、ちゃんと話し合おう」
「話したいわけじゃないの! 愛し合いたいの! それができないならもういいわ!」
「えー……」

 マデリーンはわんわん泣いたあと、泣き疲れたのかベッドの上で眠り込んでしまった。
 ようやく静かになったマデリーンを見て、カルベスは深いため息をつく。
 ふと見上げると、天窓の向こうに無数の星がきらめいて見えた。

「星が、綺麗だなぁ……」

 カルベスはぽつりと呟いた。

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