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33、君のことが好きだ
静寂の中、カルベスは眠り続けるミアのそばを離れなかった。
やがて窓の外が黄金色に染まり、紫紺の色へ移り変わっても、彼は無言のままじっと彼女を見つめていた。
星が瞬き始める頃、燭台の炎がわずかに揺れた。
それとほぼ同時に、ミアがゆっくりと目を開けた。
「ミア……!」
カルベスは椅子を弾くように立ち上がり、身を乗り出した。
しかし返ってきたのは思わぬ反応だった。
「あら、旦那様。おはようございます」
「っ……君ってやつは!」
カルベスは思わず声を上げた。
安堵と苦笑の入り混じった表情で、その目にはかすかに涙が滲んでいる。
ミアは体を起こそうとしたが、途端に力が抜け、ぱたりとふたたびベッドに沈んだ。
「体が重いです」
「そうだろう。君は毒にやられたんだから」
「……毒ではないと思ったのですが、私の判断違いでしたか」
ミアの口調はわかっていて飲んだことを認めているようだった。
カルベスは呆れ顔でため息をつき、冷静に話す。
「いや、確かに毒ではなかった。でも、塗り薬だ。しかも君は大量に飲んでいる。わかっているなら飲用をやめるべきだった」
「申し訳ありません。お茶をおかわりしてお腹の中を薄めれば大丈夫だと思っていました。これまでもそうしてきましたので」
さらりとそんなことを言われて、カルベスの表情が変わる。
そして、彼はぽつりと呟く。
「今後もそんなことをされては困る」
カルベスは一瞬躊躇したものの、意を決したように声を上げた。
「君に命令だよ、ミア。二度とそんなことをするな。絶対だ」
「はい、わかりました! 二度としません!」
ミアは驚いた顔で即答した。
カルベスは息を荒らげながら肩をわずかに震わせたあと、はぁっと深いため息をついた。
その瞬間、堪えていたものが一気に溢れるように目から涙がこぼれ落ちた。
「旦那様、大丈夫ですか?」
「……じゃ、ないよ」
「え?」
「大丈夫じゃないよ! もし君が死んでしまったらと思うと、俺は気が狂いそうだった」
「ご、ごめんなさい。そこまで想定しておりませんでした」
「本当だよ。君は頭がいいのに、想像力は著しく欠けているんだな」
「はい、すみません。暗記と計算以外は苦手なのです」
「っ……!」
カルベスは言葉に詰まり、口を閉ざす。
しかし涙が止まることはなく、ただ静かに泣き続ける。
ミアが目を丸くしたまま、ゆっくりと手を伸ばした。
細い指先がカルベスの頬に触れ、涙が滴り落ちる。
カルベスはその手を握り、深く息をすると乱れた呼吸を整えながら、どうにか口を開いた。
「君は俺のために我慢して茶を飲んだんだろう? 俺の妻として侯爵家に恥じないように、不味い茶を口にしても平気な素振りをしてその場を収めるつもりだったんだ」
「はい、そうです」
「それが君の役割だからか?」
「その通りですわ」
「……君は侯爵家の夫人である前に、唯一無二のミアという人間なんだよ」
「はい、そうですね」
「君は自由を好むだろう。侯爵家に縛られる必要はないんだ」
「それとこれとは別ですわ。役割を果たした上で、約束された自由を謳歌するのです」
「ミア……君は命を落としていたかもしれないんだ。怖くはないのか?」
「怖くありません。死ねばそれで終わりです。そこまでの運命だったということです」
けろりとした顔で平然と言い放つ。
カルベスにはわかっていた。
何をどう言おうと、ミアの価値観を変えることなどできないだろうと。
ならば主人として命令するしかないのだ。
しかし、どうしてもミアに伝えたいことがあった。
たとえ、伝わらなくても――
「俺は、君のことが好きだ」
ミアはわずかに目を見開く。
「君と一生添い遂げたいと思ってる。だから、君に途中で死なれると困るんだよ。これから1年、2年、10年、20年、もしかしたら50年……君とずっと、歳を重ねて生きていきたい」
カルベスはミアの指先に口づける。
そっと触れるような、慈しむような優しいキスだ。
それから彼女をまっすぐ見つめて、強くはっきりと告げる。
「これから先、君の命は俺が預かる。勝手に死ぬことは許さない」
ミアは驚き、即答しなかった。
しかしわずかな沈黙のあと、こくりと頷く。
「承知しました。旦那様の許可なく命を投げ出すようなことは、今後一切いたしません」
カルベスは何か言いかけたが、口を閉じた。
これ以上自分の気持ちをぶつけても、ミアにはほとんど伝わらないだろう。
今はただ、命令だとしても、彼女がともに生きてくれるだけでよかった。
カルベスはミアの額にそっと触れ、乱れた髪を優しく撫でる。
そしてたった一言、囁くように告げる。
「愛している」
その言葉と同時に、彼はミアに口づけをした。
燭台の明かりに照らされ、薄暗い室内にふたりの影が浮かび上がる。
それらはしばらく重なったまま、静かに時間が流れた。
カルベスがゆっくり顔を離す。
その瞬間、ミアの目から静かに涙が伝って落ちた。
その表情は変わらない。悲しみも苦しみも、作られた笑みもなく、感情のない人形のように無表情のままだ。
それでも、見開かれた目から、静かに涙だけがこぼれる。
「……ミア?」
「申し訳ありません。旦那様の涙につられて涙腺が緩んでしまったようです」
「え……?」
「変ですね。こんなことは初めてです。両親が死んだときも涙は出ませんでしたから」
相変わらず淡々とした口調だ。
カルベスはふっと笑みを浮かべ、穏やかに問いかける。
「涙がつられて出るということは、少しは俺に感情移入してくれたのか?」
「わかりません。他人の感情なんて理解できませんから」
「……そっか。じゃあ、今どんな気持ち?」
ミアは少しだけ首を傾げる。
「んー、胸の奥がとても熱くて、同時に針で刺されるみたいに痛む感じです」
「それは俺に少なくとも情があるということかな」
「旦那様がそうおっしゃるなら、そういうことでしょうね」
それが愛情ではなく同情でも、今はそれでよかった。
今後どうなるかはわからない。
一生想いは伝わらないかもしれないし、そうでないかもしれない。
そんな気持ちを抱いていたときのことだった。
ミアがふいにぽつりと呟いた。
「私は今、少し怖い気持ちがします」
「え? どうして」
もしや怖がらせすぎただろうかと、カルベスは訝しむ。
するとミアは予想外のことを口にした。
「旦那様と離れることを想像したら、背筋がひやりとして、胸の奥が刃物で刺されるような痛みがしました。怖いです」
「それは……俺も同じ気持ちだ。君のことが好きだから」
「でしたら、私も旦那様のことが好きなのでしょうか?」
「えっ……!」
カルベスは瞬く間に赤面した。
しかし、これはミアの一時的な感情の起伏なのかもしれないと思い、冷静になる。
最近のミアはカルベスに対してだけ感情の揺れが激しくなるときがあるから。
「それは、わからない。けど、そうだったら嬉しい」
カルベスは頬を赤らめながら照れくさそうに微笑む。
ミアはわずかに視線をそらし、淡々と話す。
「実は、旦那様がマデリーン様とダンスをしているときも、なんだか少し感情が乱れました」
「え? そうなの?」
「いつもなら他人のダンスなんてまったく興味ありませんが、私は旦那様のことが気になってしまい、何度も目で追いましたから」
「それは俺もそうだ。ダンスの途中ずっと、ミアが他の男と話しているだけで気分が悪くて、すぐにでも駆けつけたかった」
「なるほど。これが好きという感情ですか」
ミアがカルベスの目をまっすぐ見つめて言った。
カルベスは赤面しながら、わずかに震える指先で、そっとミアの頬を撫でる。
それから顎の線を辿るようになぞったり、耳朶に触れたり、髪を梳いていく。
ミアは目を閉じて、わずかに熱を帯びた吐息をこぼす。
それが、カルベスの理性を静かに揺さぶった。
「こうして俺に触れられて、どういう感じ?」
「気持ちいいです」
「じゃあ、そういうことだ」
カルベスがふっと小さく笑うと、ミアも静かに笑みを浮かべた。
ミアの微笑みはいつものようなあっさりしたものではなく、静かながら熱を帯びた喜びの表情だった。
「不思議ですね。好きなのに、胸が痛くて涙が出るなんて、厄介な感情です」
「そうだよ。だから、こんなにも君が愛おしいんだ」
カルベスは微笑みながらミアの髪を撫でる。
するとミアは頬を淡く赤らめて、ぼそりと言った。
「厄介ですが、悪くない感情です」
ふたたび燭台の明かりに照らされて、ふたりの影が重なった。
長い夜が、静かに更けていく――
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