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17、救われた過去(エリオス)
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俺にはレイラの姿が見えない。
どんな顔をして、どんな髪色で、どんな佇まいなのか、わからない。
ただ、その気配だけは確かに感じとれる。
そして、内面までもが伝わってくるのだ。
これまで出会った誰よりも、彼女は澄んだ心を持っている。
それだけ知っていれば、俺には充分だった。
どれほど高貴な身分であろうと、どれほど雄弁に語る者であろうと、人の内側には必ず表には出さない影が潜んでいる。
だが、視力を失って以来、俺にはその影がかえってよく見えるようになった。
あれは10歳の誕生日を迎えて間もない頃のことだ。
最後に目にした光景は、窓の外に浮かぶ満月の夜空だった。
幼い頃から病弱だった俺は、療養のため環境のよい郊外の森にある別邸で過ごすことが多かった。
その日は、侍女が目を離したわずかな隙に、盗賊にさらわれた。
薬を嗅がされ、数日のあいだ意識は混濁していた。命にかかわるほどではなかったが、持病のせいで副作用が強く出た。
やがて公爵家の騎士たちに救い出され、盗賊たちは捕らえられた。
しかし、俺の視界はだんだん狭まり、人の姿がぼやけていった。
医師たちはありとあらゆる治療を尽くしてくれたが、俺の視力は日ごとに失われ、ついに何も見えなくなった。
両親はひどく嘆き、俺の不運を呪った。
あの日、そばにいた侍女は自責の念に駆られて自ら命を絶とうとした。幸い一命を取りとめたものの、そのまま公爵家を去ってしまった。
残された俺は、無気力のまま毎日を過ごした。
周囲の者たちは気遣いの言葉をかけてくれたが、どれも心に届くことはなかった。
ただ一つ、最後に目にした満月の夜空だけが、鮮やかに、永遠に俺の記憶に焼きついていた。
その後、俺はさまざまな訓練を受けて、どうにか日常生活を送ろうと努めた。
しかし、思うようにできないことばかりで、苛立ちや絶望に呑まれる日も多かった。
ある日、使用人たちのひそやかな声を耳にしてしまった。
「公爵家の跡継ぎがこれでは、いずれどうなるのかしら」
「旦那様も、養子を迎えるほうがいいのでは?」
その言葉は刃のように胸に突き刺さり、心をずたずたにした。
俺さえいなければ、両親は別の跡継ぎを迎えられる。
そう考えるようになった。
13歳のとき、俺はすべてを終わらせようとした。
自室で壁伝いにバルコニーまで出ると、手すりを乗り越えて飛び降りようとした。
足をかけた瞬間、誰かに体ごと引き戻された。
このとき俺を止めてくれたのが、奇跡の絵を描くと噂される人物だった。
その人は俺に絵を描いてくれると言った。
俺には見えるはずがないのに、何を言っているのだろうと訝しく思った。
だが、その人の絵は確かに俺の目に映った。
それは、最後に見た美しい満月の夜空だった。
なつかしくなり、涙が枯れるほど泣いた。
やがて、その人は庭園に咲き誇る花々や、天使の舞う幻想的な光景など、さまざまな絵を見せてくれた。
不思議なことに、その絵を見ていくうちに俺の内面も変わっていった。
目の前に立つ人物の気配を、はっきりと感じとれるようになったのだ。
それだけではない。
相手の内面まで、自然と悟れるようになった。
心の声が直接聞こえるわけではない。しかし、その本質は隠しようがなく、俺にはそれが透けて見えた。
皮肉にも、視力を失ってからのほうが、むしろ人を見抜けるようになった。
この力に目覚めてから、わずかながら未来に希望を抱けるようになった。
騎士のあいだでは、戦場で暗号を伝えるために点字というものが用いられているらしく、俺もそれを学んだ。
18歳の頃には、それを使って執務をこなせるまでになっていた。
そして22歳で、父から爵位を継いだ。
それから5年が経つ。
かつて俺に奇跡の絵を見せてくれたあの人物を探したが、すでに数年前に亡くなっていたらしい。
残念に思った。
爵位を継いだことを伝えたかったのだが、それは叶わなくなった。
どんな顔をして、どんな髪色で、どんな佇まいなのか、わからない。
ただ、その気配だけは確かに感じとれる。
そして、内面までもが伝わってくるのだ。
これまで出会った誰よりも、彼女は澄んだ心を持っている。
それだけ知っていれば、俺には充分だった。
どれほど高貴な身分であろうと、どれほど雄弁に語る者であろうと、人の内側には必ず表には出さない影が潜んでいる。
だが、視力を失って以来、俺にはその影がかえってよく見えるようになった。
あれは10歳の誕生日を迎えて間もない頃のことだ。
最後に目にした光景は、窓の外に浮かぶ満月の夜空だった。
幼い頃から病弱だった俺は、療養のため環境のよい郊外の森にある別邸で過ごすことが多かった。
その日は、侍女が目を離したわずかな隙に、盗賊にさらわれた。
薬を嗅がされ、数日のあいだ意識は混濁していた。命にかかわるほどではなかったが、持病のせいで副作用が強く出た。
やがて公爵家の騎士たちに救い出され、盗賊たちは捕らえられた。
しかし、俺の視界はだんだん狭まり、人の姿がぼやけていった。
医師たちはありとあらゆる治療を尽くしてくれたが、俺の視力は日ごとに失われ、ついに何も見えなくなった。
両親はひどく嘆き、俺の不運を呪った。
あの日、そばにいた侍女は自責の念に駆られて自ら命を絶とうとした。幸い一命を取りとめたものの、そのまま公爵家を去ってしまった。
残された俺は、無気力のまま毎日を過ごした。
周囲の者たちは気遣いの言葉をかけてくれたが、どれも心に届くことはなかった。
ただ一つ、最後に目にした満月の夜空だけが、鮮やかに、永遠に俺の記憶に焼きついていた。
その後、俺はさまざまな訓練を受けて、どうにか日常生活を送ろうと努めた。
しかし、思うようにできないことばかりで、苛立ちや絶望に呑まれる日も多かった。
ある日、使用人たちのひそやかな声を耳にしてしまった。
「公爵家の跡継ぎがこれでは、いずれどうなるのかしら」
「旦那様も、養子を迎えるほうがいいのでは?」
その言葉は刃のように胸に突き刺さり、心をずたずたにした。
俺さえいなければ、両親は別の跡継ぎを迎えられる。
そう考えるようになった。
13歳のとき、俺はすべてを終わらせようとした。
自室で壁伝いにバルコニーまで出ると、手すりを乗り越えて飛び降りようとした。
足をかけた瞬間、誰かに体ごと引き戻された。
このとき俺を止めてくれたのが、奇跡の絵を描くと噂される人物だった。
その人は俺に絵を描いてくれると言った。
俺には見えるはずがないのに、何を言っているのだろうと訝しく思った。
だが、その人の絵は確かに俺の目に映った。
それは、最後に見た美しい満月の夜空だった。
なつかしくなり、涙が枯れるほど泣いた。
やがて、その人は庭園に咲き誇る花々や、天使の舞う幻想的な光景など、さまざまな絵を見せてくれた。
不思議なことに、その絵を見ていくうちに俺の内面も変わっていった。
目の前に立つ人物の気配を、はっきりと感じとれるようになったのだ。
それだけではない。
相手の内面まで、自然と悟れるようになった。
心の声が直接聞こえるわけではない。しかし、その本質は隠しようがなく、俺にはそれが透けて見えた。
皮肉にも、視力を失ってからのほうが、むしろ人を見抜けるようになった。
この力に目覚めてから、わずかながら未来に希望を抱けるようになった。
騎士のあいだでは、戦場で暗号を伝えるために点字というものが用いられているらしく、俺もそれを学んだ。
18歳の頃には、それを使って執務をこなせるまでになっていた。
そして22歳で、父から爵位を継いだ。
それから5年が経つ。
かつて俺に奇跡の絵を見せてくれたあの人物を探したが、すでに数年前に亡くなっていたらしい。
残念に思った。
爵位を継いだことを伝えたかったのだが、それは叶わなくなった。
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