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43、ふたりきりの夜の空
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あれから、父は幾度となく公爵家にやって来た。
けれどエリオスは一貫して、会わないことを徹底した。
父は声を荒らげ、門の前で訴えるようにして「裁判を起こす」と言い張ったが、何日経ってもその兆候は見られなかった。
エリオスいわく、彼は実際に訴えを起こすことはできないのだろうと。だから、わざわざ脅し文句を言うためだけに頻繁に訪れるのだ。
さすがに何度も追い返されるうちに、父もようやく諦めたらしく、公爵家を訪れることはなくなった。
それとほぼ同じ頃、エリオスはハルトマン家へ手紙を出していた。
私の事情を丁寧に説明したのだと彼は言う。
まもなく、エレノア様から返事が届いた。
彼女は私宛にも手紙をくださった。
そこには「元気にしている?」とか「ちゃんと食事を取っているかしら」といった、温かく優しい言葉が並んでいた。
そして、最後にこう書かれていた。
『パーティで会いましょう』
オルナード国王室主催のパーティ前日の夜のこと。
私は緊張でなかなか寝つけなくて、そっと寝室を抜け出した。
庭園には月が浮かび、白い光が噴水の縁を淡く照らしている。
夜風が髪を揺らし、どこか遠くで虫の声がした。
私は石造りのベンチに腰を下ろし、ため息をつく。
明日は、セリスやアベリオにも会うことになるだろう。
それを思うだけで胸の奥がずっしり重くなる。
けれど、王子直々の招待を断ることはできない。
唯一の救いは、エリオスも同行してくれるということだった。
そんなことを思っていたときだった。
「レイラ、そこにいるのか?」
低く穏やかな声が近くからした。
私ははっとして立ち上がり、声のした方へ向き直った。
エリオスが杖を手に、ゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。
私が慌てて彼のそばまで駆け寄った。
「サイラスさんは一緒じゃないの?」
「夜の時間はひとりで過ごしたいんだ」
「危ないわ」
「平気さ。君がいるから」
思わず笑みがこぼれる。
彼の言葉はまっすぐで、いつも私の心に安堵感をもたらしてくれる。
「私がここにいるとわかって来たのね?」
「この邸宅の中で、君の気配だけが一番よくわかる」
「まあ、だったら私がどこにいるか、あなたには筒抜けなのね」
「そういうことだ」
そう言って、エリオスはわずかに口角を上げた。
私はそっと彼の腕を取って支え、ふたりでベンチに腰を下ろした。
彼は静かに空を仰ぐような仕草をした。
その横顔は月の光を受けて淡く縁取られ、どこか神秘的に見えた。
「レイラ、星は出ているか?」
「ええ。月もとても綺麗よ」
「そうだろうな。まぶしい光の形だけ、なんとなくわかる」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
「感覚で見えているの?」
「ああ、そうだ。実際の月がどんなものかは、昔の記憶を頼るしかないが」
彼の世界には、私が見ているものがどんなふうに映っているのだろう。
同じ夜空の下で、同じ光を共有できているのだろうか。
エリオスがそっと私の手に触れた。
そのまま、包み込むように握りしめてくる。
手のひらに伝わる体温とともに、彼の思いが流れ込んでくる気がした。
ああ、これが彼の心なのだと直感でわかった。
その瞬間、私の頭の中にぼんやりと光の景色が浮かび上がった。
けれど、それを見た自分に少し驚き、頬がじんわり熱くなった。
これは、エリオスの願望なのかしら。
「手が冷たいな」
「えっ……あ、そうね。明日のことを考えると緊張してしまって」
「じゃあ、このまま手を繋いでいようか」
「え?」
握られた手が、息を呑むほど熱かった。
いや、熱いのは私のほうかもしれない。
だって、エリオスから伝わってくる“思い”が、あまりにまっすぐで、そして少しばかり恥ずかしいものだったから。
この光景をそのまま絵に描くことができる。
でも、それをする勇気は、今の私にはとても持てなかった。
そんな私の迷いを見透かしたように、エリオスは小さく笑って言った。
「そんなに月が綺麗なら、俺の絵を描いてくれるだろうか?」
「エリオス……っ!」
「だめなのか?」
「だって、そんな……」
ああ、やっぱり気づかれていたのだわ。
私が、彼の心を察してしまったことに。
「それは、無理だわ」
「なぜ?」
「……答えなきゃだめかしら」
「俺は今、君に絵の依頼をしたのに断られたんだ。その理由が知りたい」
エリオスの声は静かな熱を帯びている。
私はその響きに胸が高鳴り、息をするのも忘れてしまいそうになる。
理由なんて、口にするのも恥ずかしい。
それでも、逃げずに短く答えた。
「あなたの中には、私しかいないんだもの」
「その通りだよ、レイラ。俺はずっと君のことしか考えていない」
そのひとことで、全身が一気に熱を帯びた。
もう手の冷たさなんてどこかへ消えて、むしろ汗が滲むほどだった。
「君の姿が見たい。君の顔が見たいんだ。俺が今、望んでいるのはそれだけだ」
その声音から、エリオスの切実な思いが深く伝わってきた。
けれどエリオスは一貫して、会わないことを徹底した。
父は声を荒らげ、門の前で訴えるようにして「裁判を起こす」と言い張ったが、何日経ってもその兆候は見られなかった。
エリオスいわく、彼は実際に訴えを起こすことはできないのだろうと。だから、わざわざ脅し文句を言うためだけに頻繁に訪れるのだ。
さすがに何度も追い返されるうちに、父もようやく諦めたらしく、公爵家を訪れることはなくなった。
それとほぼ同じ頃、エリオスはハルトマン家へ手紙を出していた。
私の事情を丁寧に説明したのだと彼は言う。
まもなく、エレノア様から返事が届いた。
彼女は私宛にも手紙をくださった。
そこには「元気にしている?」とか「ちゃんと食事を取っているかしら」といった、温かく優しい言葉が並んでいた。
そして、最後にこう書かれていた。
『パーティで会いましょう』
オルナード国王室主催のパーティ前日の夜のこと。
私は緊張でなかなか寝つけなくて、そっと寝室を抜け出した。
庭園には月が浮かび、白い光が噴水の縁を淡く照らしている。
夜風が髪を揺らし、どこか遠くで虫の声がした。
私は石造りのベンチに腰を下ろし、ため息をつく。
明日は、セリスやアベリオにも会うことになるだろう。
それを思うだけで胸の奥がずっしり重くなる。
けれど、王子直々の招待を断ることはできない。
唯一の救いは、エリオスも同行してくれるということだった。
そんなことを思っていたときだった。
「レイラ、そこにいるのか?」
低く穏やかな声が近くからした。
私ははっとして立ち上がり、声のした方へ向き直った。
エリオスが杖を手に、ゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。
私が慌てて彼のそばまで駆け寄った。
「サイラスさんは一緒じゃないの?」
「夜の時間はひとりで過ごしたいんだ」
「危ないわ」
「平気さ。君がいるから」
思わず笑みがこぼれる。
彼の言葉はまっすぐで、いつも私の心に安堵感をもたらしてくれる。
「私がここにいるとわかって来たのね?」
「この邸宅の中で、君の気配だけが一番よくわかる」
「まあ、だったら私がどこにいるか、あなたには筒抜けなのね」
「そういうことだ」
そう言って、エリオスはわずかに口角を上げた。
私はそっと彼の腕を取って支え、ふたりでベンチに腰を下ろした。
彼は静かに空を仰ぐような仕草をした。
その横顔は月の光を受けて淡く縁取られ、どこか神秘的に見えた。
「レイラ、星は出ているか?」
「ええ。月もとても綺麗よ」
「そうだろうな。まぶしい光の形だけ、なんとなくわかる」
その言葉に、私は小さく息を呑んだ。
「感覚で見えているの?」
「ああ、そうだ。実際の月がどんなものかは、昔の記憶を頼るしかないが」
彼の世界には、私が見ているものがどんなふうに映っているのだろう。
同じ夜空の下で、同じ光を共有できているのだろうか。
エリオスがそっと私の手に触れた。
そのまま、包み込むように握りしめてくる。
手のひらに伝わる体温とともに、彼の思いが流れ込んでくる気がした。
ああ、これが彼の心なのだと直感でわかった。
その瞬間、私の頭の中にぼんやりと光の景色が浮かび上がった。
けれど、それを見た自分に少し驚き、頬がじんわり熱くなった。
これは、エリオスの願望なのかしら。
「手が冷たいな」
「えっ……あ、そうね。明日のことを考えると緊張してしまって」
「じゃあ、このまま手を繋いでいようか」
「え?」
握られた手が、息を呑むほど熱かった。
いや、熱いのは私のほうかもしれない。
だって、エリオスから伝わってくる“思い”が、あまりにまっすぐで、そして少しばかり恥ずかしいものだったから。
この光景をそのまま絵に描くことができる。
でも、それをする勇気は、今の私にはとても持てなかった。
そんな私の迷いを見透かしたように、エリオスは小さく笑って言った。
「そんなに月が綺麗なら、俺の絵を描いてくれるだろうか?」
「エリオス……っ!」
「だめなのか?」
「だって、そんな……」
ああ、やっぱり気づかれていたのだわ。
私が、彼の心を察してしまったことに。
「それは、無理だわ」
「なぜ?」
「……答えなきゃだめかしら」
「俺は今、君に絵の依頼をしたのに断られたんだ。その理由が知りたい」
エリオスの声は静かな熱を帯びている。
私はその響きに胸が高鳴り、息をするのも忘れてしまいそうになる。
理由なんて、口にするのも恥ずかしい。
それでも、逃げずに短く答えた。
「あなたの中には、私しかいないんだもの」
「その通りだよ、レイラ。俺はずっと君のことしか考えていない」
そのひとことで、全身が一気に熱を帯びた。
もう手の冷たさなんてどこかへ消えて、むしろ汗が滲むほどだった。
「君の姿が見たい。君の顔が見たいんだ。俺が今、望んでいるのはそれだけだ」
その声音から、エリオスの切実な思いが深く伝わってきた。
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