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I. The little, little wish
凶獣
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太陽が色づき、影が伸びてゆく。オッペンハイムはドラウフゲンガー領と川ひとつ隔てた領地で、互いによく似ている。大平原のサーインフェルクに程近いだけあって、森はまばらに見えるばかりだった。それは森の代わりに農地が多く、豊かであることを意味する。最後の林を迂回すると、灰色の城が見えてきた。赤い旗はよくある、この地を守護してきた祖先の血を示すものだろう。城を取り囲む市街からは飯炊きの煙の列がもうもうと昇っている。
やがて農地が途切れ、市街の外れに至ったふたりは、リタの案内で歩を進める。
「質素な街だな」
ハインのつぶやきに、心のうちでルオッサは肯ずる。これだけの田畑があれば、市街では豪農や商人が幅をきかせているのが普通だ。それがここでは、豊かさは質や見た目を過剰に向上させるのではなく、量を増やす方にのみ働いている。自然にできた住人の気質と言うには不自然さがある。おそらく、相応の政策が働いているはずだ。
「中身はサーインフェルクの外れと変わらないかな。ちゃんと乞食や金貸しもいるし。あっちと違うのは、教会が大きいことかな?」
リタの言うとおり、通りの奥には赤い屋根の神の家があるのが、ここ町外れからもみえる。ルオッサにはあまり馴染みのない施設だ。可能ならば足を踏み入れたくないし、向こうもそうだろう。
ハインは、とルオッサが目をやると、片足がないように見える若い男に銅貨をはじいてやるところだった。男は杖をついて近寄ると、これ見よがしに転倒して、頭をすりつけてそれを拾った。ルオッサは興醒めした。
「ねえねえ、ハイン。あのものごい、あしついてない?」
「ああ、乞食ギルドの一員だろう。演技もうまいからな」
ルオッサが指摘すると、白い目でハインは返してきた。ルオッサの腹の底で火がつく。
「じゃあ、おかねもらってものごいしてるってこと?」
「そうだ」
「ハインはー、あのひとがまずしいひとじゃなくてもそーするの?」
「何を言う。喜捨は真教の重要な教えだろ?」
「あのひとが、たかいおかねをもらってても? もっとほどこさないといけないひとが、いるかもしれないのに?」
「どうしてそれが判る。仮に高給取りでも、高給が必要な理由があるかもしれないし、高給取りが裕福とは限らないだろう。それに、もっと貧しい人間がいれば、そいつにも施すまでだ」
ハインは目で、おまえは聖職者だろう、と言っている。
「……へー。ハインはやさしいんだね」
口とは裏腹に、胸の内では愚かなことだとルオッサは思った。
確かに、ここにサーインフェルクの神父がいたのなら、ハインを人間の手本のようにもてはやすだろう。みなこうあるべきだ、さすれば責め苦ばかりのこの世にも安らぎが広がるだろう、きっと彼のような者は死後に神の庭に導かれるはずだ――ところで、教会がさらに多くの貧しい人々を助くために寄進を願いたいのですが、当然貴殿は断ったりしませんよね?
「そうよ、ルオッサも聖儀僧なんだから分かるでしょ?」
「うん、すごぉい! あるじさまもおおよろこび!」
リタはルオッサの上っ面に満足したのか、前を向いた。
ああ、立派だとも。立派な教会のカモだ。無限の黄金なぞすべからく呪われており、ハインの考えは理想にすぎない。あまりにも青い。現実を知らなさすぎる。
だが、その青さがまたそそるのだ。
その理想が崩れる日を、ルオッサは待ちかねている。
城門で領主の蝋印を見せると、干し肉をクチャクチャ噛みながら、衛兵はじろじろとハインを眺めた。サーインフェルクから近いとはいえ、ここは人間の国。当然、犬人は目立つ。前の大戦役の影響でコボルトはいち早く人間の間に馴染み、小人と同じくらい見慣れたものになった。それでも地方では、人外はまだ偏見の目にさらされたままだ。
「私はハイン・ランペールと申します。領主殿に魔術師としての腕を買われ、お目通り叶った次第でございます」
「その犬とガキは?」
リタが「衛兵がさっきと違う」とつぶやく。ルオッサはたるんだ笑みのままだ。
「この犬は我が使い魔にございます。そしてこの少女は、弱冠八つにして天の宮の主より秘蹟をたまいし神官にございます。ともに今はなきウォーフナルタより、長く険しい旅を越えて参りました」
凛とした顔でリタはすましてみせ、ルオッサは慌てて聖印を取りだした。ルオッサは自分でも、胡散臭さが石ころ抱えてやってきたな、と思う。
「……まあいい。犬は厩へ繋いどけ。ガキのしつけはできてるんだろうな」
ぴくり、とハインが震えた。ルオッサは衛兵が地雷を踏んだことに憐憫の念を抱いた。同時に、コが付けばコボルトもゴブリンも同じに見える愚鈍さに食傷した。
「ところでクルト殿。食糧庫の横領は今日で終わりにしておいた方がよろしいですよ」
ハインが言葉のナイフを振りかざすと、衛兵は喉をつまらせた。
「はっ、はあ? なんで俺の名を――」
「家令殿が見ておられます。彼の忍耐を試すのであれば、それもよいかと存じますが」
「な、何のことやら――」
「お仲間の衛兵の中に、もう足を洗いたくて仕方ない方がおられるようです。その方が家令殿に許しを乞われたのですよ」
止めの一言に、衛兵は青くなった。
「あんた――いやあなたは、本当に秘術師なのか……?」
言外に「コボルトのくせに」がまだくっついていたために、ハインは攻撃的な微笑を浮かべた。
「三人でお目通り願ってもよろしいですよね?」
ハインは控え室として案内された部屋のドアを開けた。するりとリタが足元を抜け、ベッドに飛びこむ。
「疲れたー! さすがに往復はしんどかった!」
「苦労かけたな、リタ。しばらくゆっくりするといい」
「そうするよ。でもハイン、どうやってあの衛兵の弱味を握ったの。
わたしの目を使った?」
「それもひとつだけどな。単純に《遠見》しながら歩いていたんだ。
……結果はあの程度だったが」
「んあ? りょーしゅさまはみえなかった?」
「ああ。不思議と見当たらなかった。……不在だったのかもしれないが」
まあ、その可能性もある。だが、ルオッサはその線は薄いと考えた。事前調査でエッカルトの領地はここと、ドラウフゲンガー領のみであることが分かっている。通常、領主は領地を巡回して仕事をこなすものだ。昨夜のうちにドラウフゲンガーの館は簡単にあらためており、領主のような位の高い人間の出入りがいないことは確かめている。であれば、エッカルトはオッペンハイムのどこかにいる可能性の方が遥かに高い。わざわざ他人の領地にまで出向く用事があれば、どこかしらから漏れるものだ。つまり、エッカルトは側近にも極秘にどこかに移動していたか、さもなくば――
ハインの《遠見》を上回る、何らかの魔術的な手段で自らを隠匿していたことになる。
その時、ノックの音が入りこんできた。ハインがどうぞ、と声をかけると、整った身なりの年老いた男が入ってきた。ハインは、リタの心が「知っている人だ」と感じたのを知覚した。おそらく、オッペンハイムの家令だろう。
「ハイヌルフ様ですね。まもなく主の準備が整います。どうぞこちらへ」
ハインがリタの顔を見る。リタは首をかすかに振った。
「ありがとうございます。先程は我がしもべにも礼を尽くしてくださった様子。
厚きご好意に感謝いたします」
家令はあいまいにうなずいた。
食堂は一行の予想通りの内装だった。簡単な模様入りの壁紙と銀の燭台、肖像画のあるほかは贅沢品は一切ない。テーブルも彫刻すらない簡素なものだ。おそらく、この城でエントランスの次に豪奢な部屋なのだろう。
肖像画には赤髪の細い男が立ち、脇に金髪の女性が座っている。そしてふたりの間には金髪の少年が描かれている。ハインはその絵を一目で良い絵だと気に入った。絵画は細部に至るまで精緻ながら、どこか焦点がずれているようにぼけている――そう感じさせる未熟さが鼻につく。
しかしながら、それを覆して余りある、技量によらない熱量があったのだ。
他方、窓からは市街地が一望でき、黄金色の夕陽が差しこんでいる。執事に導かれて、ふたりは二十人掛けの長いテーブルに向かった。ハインはリタに部屋の隅の方で待機しているように指示し、決められた席に向かいながら、
「ルオッサ」
ハインが通りすぎつつ先ほどの情報を伝えると、ルオッサは前髪のなかでほくそ笑んだ。
「その読みは当たりだぜ」
「なら、いい。粗相するなよ」
ルオッサはおもしろい冗談を聞いたように笑った。自分にとってはその方が楽なのに。
ややあって、料理が運ばれてきた。ルオッサは召使いの目を盗んで、素早く呪文を発生させる。毒のたぐいは入っていない、という呪文の結果を確かめて、ハインに笑いかけた。
その直後に、臙脂色の衣装に身を包んだ男が入ってきた。髪は赤く、その顔は肖像画の男と同じだが、深いしわが刻まれ、厳しい眼差しをしている。
彼は部屋の隅に目をやり、眉をひそめた。
「犬人の魔術師――ハイン・ランペールだね。この度は我が城を訪れてくれて、大変、嬉しく思う。このエッカルト・オッペンハイムが歓迎しよう」
ルオッサの第一印象は、疲れた男というものだった。文字でみてとったとおり、この男はかなり神経質なたちだろう。そこへ何らかの不幸があったと見える。
ハインは立ちあがり、恭しく最大限の礼をとった。改めて名乗り、次にルオッサを紹介した。ルオッサはいつもどおり、不快でないよう心がけながら白痴の少女を装った。
「そして、私の秘術を知っていただきたく、もうひとりの旅連れを紹介したく存じます」
ハインがそういうと、部屋の隅でとぐろを巻いていたリタは起きあがり、犬でもできる礼を領主に見せた。
「ほう、なかなか躾のゆきとどいた犬のようだが――」
「そればかりではありません」
言葉を遮られた領主がハインを見、次にリタを見る。
「わたくしは、リタと申します。陛下においては見目麗しく、ご気分もよろしいご様子で何よりです。さらには畜生の身であるわたくしとも謁見してくださり、感謝の言葉は尽きません。本日は日が傾いてからの来訪にも関わらず、夕げの席まで設けていただき、わが主に代わってお礼申しあげます」
領主は言葉を失い、しばらく呆然としていたが、思いだしたようにハインを見た。
「いずこかより稚児のような声が聞こえたが、これは?」
「我が僕の肉声にございます。決して腹話術のような紛い物ではございません」
領主は目を白黒させたままだ。
「では――リタよ。そなたの生まれはいずこか」
「幼き日の記憶は人と同様、おぼろげにございます。しかしながら、ウォーフナルタの豊かな山野に生まれ落ちたと聞きおよんでございます」
「な、なるほど。主人の使いとしては伝令などを?」
「主にはそれを。加えて通訳や簡単な細工などを手がけております」
「なに?」
「口に道具をくわえて、足で固定すれば――」
「そちらではない」
ハインが咳払いをした。
「リタは犬ですから、元々はルテニア語を知らなかったわけです。人語で会話するためには、知性、発声器官――そして言語のすべてが必要でした。言語を習得させるため、《神々の舌》――つまり、この世界のあらゆる言語を解する呪文を用いたのです」
「それほど高等な秘術を、そなたは扱えると……」
ハインは謙虚にうなずいた。領主は居住まいを正し、リタに客として礼をとった。
「……よろしい。ではひとつ訊ねたいのだが、そなたは肉と魚、どちらが好みかね?」
「お気遣い痛み入ります、閣下。しかしながら、わたくしは畜生にして下僕ですので、主人や、まして閣下と晩餐をともにするわけには……」
領主は静かに微笑み、首を振った。
「……この身に余るご厚意、重ね重ね恐縮の至りにございます。では、厚顔無恥の極みにございますが、肉を所望いたします」
領主は満足そうにうなずいて、手を叩いて召し使いをゆかせた。
「驚愕と感心の限りだ、ランペール殿。犬が喋るだけでも信じがたいものを、このあたりの人間ですらあのように礼節を尽くせる者はそう多くおるまい」
「お褒めいただき、光栄です。ですが、その言葉はリタにもお授けください。あの言葉はあれが自ずから考え、発した言葉なのですから」
まったくそのとおり、と領主はリタにも労いの言葉をかけた。同時に召使いが質素な肉料理を運んできて、怪訝そうな顔でリタを見た。リタが床で構わないと伝えると、召使いは皿をおき、魔物でも見るような目でそそくさと退散した。
「ランペール殿。私は貴殿を安く見ていたようだ。それだけの力があるのであれば、私の思いもよらぬことができるのでは?」
「たとえば、どのような?」
不意に領主は、手のなかのワインを見つめた。静脈血のように暗く赤い酒は、夕陽を浴びても決して黄金色には染まらなかった。
「――たとえば、そう。
この領土が脅かされた時に、民草と田畑を守ることなどは、いかがだろうか」
「雑作もないことです。農奴を歴戦の勇者に仕立て、天の火球で地を這う蒙昧な兵を焼き尽くしましょう」
「相手もそなたと同じ魔術師を雇い入れているやもしれぬぞ」
「なればこそ本懐というものです。私は魔術師でございます。戦士の戦い方にはとんと疎く、想像もつきませんが、魔術師の戦い方には精通しておりますよ」
そうハインが明朗に答えると、緊張の糸が切れ、領主はゆっくりとハインを見た。
「そうか。頼もしく心強い限りだ。
どうか、我がオッペンハイムに力添え願えないだろうか」
力強くハインが返事するのを、ルオッサは肉にかぶりつきながら見ていた。
なかなか堂に入った演技だ。見世物として悪くない。それにしても、エッカルトはころりと騙されている。あまりにもチョロいタマだ。もう少し注意深い領主なら、自分の飼っている勇士と決闘くらいはさせるだろう。
前情報でオッペンハイム領が分割され、諸侯に食い物にされているとはあった。こいつはずいぶん神経をすり減らしている。だからハインに無抵抗に騙されているのだろう。だがこれほど弱っているのならば、領土のこと以上によほど参ることがあっただろう――たとえば、身内の不幸など。
「ランペール殿。もし貴殿がよければ、どうかこのオッペンハイムに力を貸していただきたい。いくらでも礼はしよう」
「もったいないお言葉です。では、またすぐに厄介になっても?」
「無論だ。今晩からでも部屋を用意させる」
「ありがとうございます。しかし、今晩は旅の始末などもございます。また、追ってリタを使いにやりますので、ご容赦を」
「そうか……。ではそちらの少女は、これからいかがされるか」
ルオッサは「んあ?」とハインに警告した。
「この子はより多くの貧民に奇蹟をもたらすべく、ウォーフナルタから巡礼の旅をしております。陛下は真教を手厚く保護しておられる様子。よろしければ、オッペンハイムの教会にしばらくおいてみては?」
「なんと、かような幼子が。なるほど、そなたはその旅の道連れか。よろしい、そなたの信心にこたえようとも」
ルオッサはにっこりとハインに満面の笑みを投げつけた。
これはルオッサの言葉で「くたばれ粗チン野郎」という意味だ。
それはともかくとして、結局、領主が一度もあやしい素振りを見せることなく、会食は何事もなく終わった。
館を出ると、ハインは羊皮紙に得た情報を書きつけ、リタに持たせた。
「止水卿よね。帰りは明日になるよ」
「ああ、なるべく早くで頼む」
そういうハインの目を見て、リタは真意を読みとり、瞬きした。そして、リタが夜の闇に消えるのを見送ってから、ルオッサは前髪をあげた。
「気に入らねえなァ……」
「当座をしのぐための方便だ、そんなに怒るな」
「そっちじゃねェよ。被ィ刻印者にしちゃ、普通にすぎる。オマエもそう思ったろ?」
ハインは無言でうなずいた。問題を起こすような刻印者なら、何かしら人格に異常が出る。そしてエッカルトに何ら不審な点はなかった。ならば、可能性は限られる。ひとつは、エッカルトは竜の刻印を制御できている可能性。もうひとつは、今日はたまたま、機嫌がよかった可能性。
――最後のひとつは、あれはエッカルトではないという可能性だ。
「神隠しの原因をヤツに着せるなら、理由はひとつしかねえ。ハイン、ドラウフゲンガーに戻るぜ」
「……おまえもそういう結論になるか」
「はッ。それが貴族の答弁でなけりゃ、大した進歩だぜ。褒めてやらァ」
ハインが憎々しげにルオッサをにらんだ時、その腕をつかむものがいた。
それはすれた衣装をきた少女で、やつれた表情を化粧で覆い隠している。年はルオッサとほとんど変わらないだろう。
「お兄さん、どう? 今晩……」
色目を使われている、と悟ったハインは、愕然と目を見開いた。
「……そんなことはやめておけ」
そう震える声で言い、銀貨を差し出す。
それを少女は侮辱ととった。鋭い眼光を返し、ハインの手をはたき落とす。
地面にコインが転がった。
「あたしが乞食に見えるっていうのかい! この犬っころ、バカにしやがって!」
少女はそう言い捨てて身を翻した。かと思うと、気が変わったのか素早くコインを拾い、煙草を吸う男の元へ歩いていった。少女は男に無造作に殴られ、金を奪われる。
ルオッサは、前髪のなかで一部始終を眺めていた。見物だった。笑いをこらえるのに精一杯だった。ハインは呆然と少女の娼婦を見つめ、そして何かを噛み砕かんばかりに歯を食いしばり、自分の手をにらんだ。
「行くぜ、ハイン。……ククッ」
「何がおかしい……?」
ルオッサは答えずに歩き続けた。既に日は隠れた。市街を抜ければ、草原が藍に染まり、大空はわずかに残った紅の残り香を手放しつつあった。
無人の平原で、ルオッサは振り返った。
「何がだって? こっちが訊きてえなァ。面白くねェトコがあったかよ?」
堪えきれなくなったのか、ルオッサは腹を抱え、ゲラゲラ笑った。
赤い瞳を月光に光らせながら、ハインをあざわらった。
「娼婦を乞食と勘違いしてるトコから教えてやろうか?」
「……あんな幼い少女が、男に体を売っているんだぞ。そんなふざけた話があるか!」
「それが? カネを稼げりゃ大人さァ。オマエもいい買い手だと思われたんだろ。
まんざらでもないンじゃァねえのか?」
「……!」
ハインは魂の奥に眠る泥を感じた。それが、身じろぎしたのだ。
彼は絶望に毛を逆立てた。はねのけるように右手を振るう。
「そんな馬鹿なことがあるものか! 第一、望んでやっているわけがない。貧しさゆえに売るものが体しかなく、選ぶことなぞできなかったに違いない!」
「へーぇ。見てきたように言うじゃないか。だが、本当にそうかァ? 農奴と娼婦、体を売ってるのはどっちだろうなァ。かたや一日中働き続け、かたや一晩痛い思いをすりゃ終わる。体を売るのはラクなんだぜ」
「それは……成人ならば、わかる。だが、あれは子供だ。まだものの道理すらつかない幼女が、春をひさぐのは、道徳に反している!」
「テメエが今、話しているのは誰だ?」
ハインは反論できなかった。
ルオッサは爛々と野獣のように目を光らせ、耳元まで唇をつりあげた。
ハインは、目の前の幼女に畏怖した。
彼は改めて、ルオッサの深淵を見、その深さに思考を奪われた。
「道徳だァ? 道徳が飯を食わしてくれるのか? 道徳が体を暖めてくれるのか?
そんなモン、犬も食いやしねェ。ああいや、物好きな犬なら目の前にいたっけなァ?」
「……娼婦や男娼が早死になのは知っているだろう。胴元に稼ぎのほとんどを奪われ、彼らは使い捨てられる。彼らにも夢があり、与えられるべき幸福があったはずだ!」
「同じさァ。農奴も酷使され、いずれ体を壊して死ぬ。胴元が領主になっただけじゃねえか。それを教会は助けない。牛や馬と同じように、癒す費用が癒した後に生む価値を超える時のみ、もったいぶって低級な神聖呪文を使う。後はみんな貴族と戦さのための巻物にしちまう」
「おまえがそれをいうのか! 聖儀僧のおまえが!」
「クレリックだからさァ。教会は慈善団体じゃない――営利組織さ。領主や皇帝を出資者とした、な。末端には夢見がちなアホもいるかもしれねえが、司祭司教は雁首そろえて腐ってるぜ」
「……神は。神はどうだ」
神。
ハインが苦し紛れにくりだしたその言葉に、ルオッサは突然、萎えた。
「……神は助けてくれねえよ。神の腕が何本あると思ってんだ。
指ひとつで千人救おうと、足りやしねえ」
「では、何のために神を信じればいい」
「神はオマエのママじゃねえ。天の宮の主はな――」
言いかけ、「そんな下らねえ話はいい」と自ら切り捨てた。
ハインは顔に血色を取り戻す。
彼は希望をみた。再び、ルオッサのなかに光をみた。
「……ルオッサ。おまえは、なにが本物なんだ」
「なに?」
「おまえの道化の顔はまがいものだ。どうせルオッサも偽名だ。
……その人格もつくりものなんだろう?
俺は知っているぞ。リタと話す時のおまえの顔を」
少女は切歯が割れんばかりに食いしばり、一歩、後ずさった。
「ハイン。オマエには分からねえ。理解しようがねェ。アタシを誰だと思ってンだ?」
「……幼子だ。おまえは誇り高い少女だ。
その矜持ゆえに、強制されることを許せず、自ら道を――」
きし。
ハインは、声をのんだ。息をとめざるをえなかった。
不意に自らの身に降りかかった、獅子をも一息で殺すヒュドラのごとき殺気。人外の、心の臓を射砕く眼光。ハインは無意識に剣の柄を握らざるをえなかった。
少女は、月光の下、静かに燃える赤髪の中で、憎悪に震えていた。錆色のマントを翻し、幼女の細腕で背中のレイピアを握りしめている。細腕には無数の瘢痕がひしめき、わずかにのぞく刀身は、夜闇のように暗かった。肩で息をし、犬歯を剥き出して、欲求に耐えている。
ハインは身動きひとつしなかった。彼は少女がその剣を抜いたなら、即座に斬り殺す決意をした。決意とは裏腹に、その決意に彼は怯えた。もう二度と罪を重ねたくないと祈りながら、大義のためにその罪を積みあげてきた自分に吐き気がする。彼は使い魔との経絡を閉じた。自分が斬り殺してしまったのなら、愛犬になんと釈明すればいい。自分が斬り殺されてしまったのなら、愛犬はどうなるのだ。
決意は体に震えひとつ許さず、切り捨てる時の体の動きを反芻させつづける。
希望は、幼女が葛藤していることのみだった。ハインはそれに賭けるしかなかった。
凶獣の中に、まだ人が残っていることを、祈ることしかできなかった。
しゃりん。
長い長い刹那の後、ルオッサは剣を収めた。そして深く嘆息した。
「はは、ハ。あぶねえあぶねえ、つい、ヤっちまうとこだったぜ」
口はいつものにやけ顔に戻ったが、目は笑っていない。
「ルオッサ……すまない」
「……二度目はねェ」
ハインは安堵した。リタを悲しませずにすんだことに。
「ハイン。ひとつ、忠告しといてやる。麻薬はやめておけ」
「……何のことだ?」
「“正義”は麻薬なンだぜ。人を人形や亡者に仕立てあげ、人でなしに変える。
オマエのそれは、過ぎた独善だ。いずれ死体の山を築く」
ハインは、ルオッサから目を背けた。
「麻薬のように、どんな少量も許されないというのか」
ルオッサは答えず、ハインのポーチから煙草をスりとった。そして咥え、無言で火を要求した。ハインが手品で点火すると、大きくひとつふかす。
「ひでえ草だ」と悪態をついてから、先ほどの憎悪を叩きつけるように踏み消した。
「我欲のためだ、っつう方がまだ気に入るぜ。なあハインよォ」
やがて農地が途切れ、市街の外れに至ったふたりは、リタの案内で歩を進める。
「質素な街だな」
ハインのつぶやきに、心のうちでルオッサは肯ずる。これだけの田畑があれば、市街では豪農や商人が幅をきかせているのが普通だ。それがここでは、豊かさは質や見た目を過剰に向上させるのではなく、量を増やす方にのみ働いている。自然にできた住人の気質と言うには不自然さがある。おそらく、相応の政策が働いているはずだ。
「中身はサーインフェルクの外れと変わらないかな。ちゃんと乞食や金貸しもいるし。あっちと違うのは、教会が大きいことかな?」
リタの言うとおり、通りの奥には赤い屋根の神の家があるのが、ここ町外れからもみえる。ルオッサにはあまり馴染みのない施設だ。可能ならば足を踏み入れたくないし、向こうもそうだろう。
ハインは、とルオッサが目をやると、片足がないように見える若い男に銅貨をはじいてやるところだった。男は杖をついて近寄ると、これ見よがしに転倒して、頭をすりつけてそれを拾った。ルオッサは興醒めした。
「ねえねえ、ハイン。あのものごい、あしついてない?」
「ああ、乞食ギルドの一員だろう。演技もうまいからな」
ルオッサが指摘すると、白い目でハインは返してきた。ルオッサの腹の底で火がつく。
「じゃあ、おかねもらってものごいしてるってこと?」
「そうだ」
「ハインはー、あのひとがまずしいひとじゃなくてもそーするの?」
「何を言う。喜捨は真教の重要な教えだろ?」
「あのひとが、たかいおかねをもらってても? もっとほどこさないといけないひとが、いるかもしれないのに?」
「どうしてそれが判る。仮に高給取りでも、高給が必要な理由があるかもしれないし、高給取りが裕福とは限らないだろう。それに、もっと貧しい人間がいれば、そいつにも施すまでだ」
ハインは目で、おまえは聖職者だろう、と言っている。
「……へー。ハインはやさしいんだね」
口とは裏腹に、胸の内では愚かなことだとルオッサは思った。
確かに、ここにサーインフェルクの神父がいたのなら、ハインを人間の手本のようにもてはやすだろう。みなこうあるべきだ、さすれば責め苦ばかりのこの世にも安らぎが広がるだろう、きっと彼のような者は死後に神の庭に導かれるはずだ――ところで、教会がさらに多くの貧しい人々を助くために寄進を願いたいのですが、当然貴殿は断ったりしませんよね?
「そうよ、ルオッサも聖儀僧なんだから分かるでしょ?」
「うん、すごぉい! あるじさまもおおよろこび!」
リタはルオッサの上っ面に満足したのか、前を向いた。
ああ、立派だとも。立派な教会のカモだ。無限の黄金なぞすべからく呪われており、ハインの考えは理想にすぎない。あまりにも青い。現実を知らなさすぎる。
だが、その青さがまたそそるのだ。
その理想が崩れる日を、ルオッサは待ちかねている。
城門で領主の蝋印を見せると、干し肉をクチャクチャ噛みながら、衛兵はじろじろとハインを眺めた。サーインフェルクから近いとはいえ、ここは人間の国。当然、犬人は目立つ。前の大戦役の影響でコボルトはいち早く人間の間に馴染み、小人と同じくらい見慣れたものになった。それでも地方では、人外はまだ偏見の目にさらされたままだ。
「私はハイン・ランペールと申します。領主殿に魔術師としての腕を買われ、お目通り叶った次第でございます」
「その犬とガキは?」
リタが「衛兵がさっきと違う」とつぶやく。ルオッサはたるんだ笑みのままだ。
「この犬は我が使い魔にございます。そしてこの少女は、弱冠八つにして天の宮の主より秘蹟をたまいし神官にございます。ともに今はなきウォーフナルタより、長く険しい旅を越えて参りました」
凛とした顔でリタはすましてみせ、ルオッサは慌てて聖印を取りだした。ルオッサは自分でも、胡散臭さが石ころ抱えてやってきたな、と思う。
「……まあいい。犬は厩へ繋いどけ。ガキのしつけはできてるんだろうな」
ぴくり、とハインが震えた。ルオッサは衛兵が地雷を踏んだことに憐憫の念を抱いた。同時に、コが付けばコボルトもゴブリンも同じに見える愚鈍さに食傷した。
「ところでクルト殿。食糧庫の横領は今日で終わりにしておいた方がよろしいですよ」
ハインが言葉のナイフを振りかざすと、衛兵は喉をつまらせた。
「はっ、はあ? なんで俺の名を――」
「家令殿が見ておられます。彼の忍耐を試すのであれば、それもよいかと存じますが」
「な、何のことやら――」
「お仲間の衛兵の中に、もう足を洗いたくて仕方ない方がおられるようです。その方が家令殿に許しを乞われたのですよ」
止めの一言に、衛兵は青くなった。
「あんた――いやあなたは、本当に秘術師なのか……?」
言外に「コボルトのくせに」がまだくっついていたために、ハインは攻撃的な微笑を浮かべた。
「三人でお目通り願ってもよろしいですよね?」
ハインは控え室として案内された部屋のドアを開けた。するりとリタが足元を抜け、ベッドに飛びこむ。
「疲れたー! さすがに往復はしんどかった!」
「苦労かけたな、リタ。しばらくゆっくりするといい」
「そうするよ。でもハイン、どうやってあの衛兵の弱味を握ったの。
わたしの目を使った?」
「それもひとつだけどな。単純に《遠見》しながら歩いていたんだ。
……結果はあの程度だったが」
「んあ? りょーしゅさまはみえなかった?」
「ああ。不思議と見当たらなかった。……不在だったのかもしれないが」
まあ、その可能性もある。だが、ルオッサはその線は薄いと考えた。事前調査でエッカルトの領地はここと、ドラウフゲンガー領のみであることが分かっている。通常、領主は領地を巡回して仕事をこなすものだ。昨夜のうちにドラウフゲンガーの館は簡単にあらためており、領主のような位の高い人間の出入りがいないことは確かめている。であれば、エッカルトはオッペンハイムのどこかにいる可能性の方が遥かに高い。わざわざ他人の領地にまで出向く用事があれば、どこかしらから漏れるものだ。つまり、エッカルトは側近にも極秘にどこかに移動していたか、さもなくば――
ハインの《遠見》を上回る、何らかの魔術的な手段で自らを隠匿していたことになる。
その時、ノックの音が入りこんできた。ハインがどうぞ、と声をかけると、整った身なりの年老いた男が入ってきた。ハインは、リタの心が「知っている人だ」と感じたのを知覚した。おそらく、オッペンハイムの家令だろう。
「ハイヌルフ様ですね。まもなく主の準備が整います。どうぞこちらへ」
ハインがリタの顔を見る。リタは首をかすかに振った。
「ありがとうございます。先程は我がしもべにも礼を尽くしてくださった様子。
厚きご好意に感謝いたします」
家令はあいまいにうなずいた。
食堂は一行の予想通りの内装だった。簡単な模様入りの壁紙と銀の燭台、肖像画のあるほかは贅沢品は一切ない。テーブルも彫刻すらない簡素なものだ。おそらく、この城でエントランスの次に豪奢な部屋なのだろう。
肖像画には赤髪の細い男が立ち、脇に金髪の女性が座っている。そしてふたりの間には金髪の少年が描かれている。ハインはその絵を一目で良い絵だと気に入った。絵画は細部に至るまで精緻ながら、どこか焦点がずれているようにぼけている――そう感じさせる未熟さが鼻につく。
しかしながら、それを覆して余りある、技量によらない熱量があったのだ。
他方、窓からは市街地が一望でき、黄金色の夕陽が差しこんでいる。執事に導かれて、ふたりは二十人掛けの長いテーブルに向かった。ハインはリタに部屋の隅の方で待機しているように指示し、決められた席に向かいながら、
「ルオッサ」
ハインが通りすぎつつ先ほどの情報を伝えると、ルオッサは前髪のなかでほくそ笑んだ。
「その読みは当たりだぜ」
「なら、いい。粗相するなよ」
ルオッサはおもしろい冗談を聞いたように笑った。自分にとってはその方が楽なのに。
ややあって、料理が運ばれてきた。ルオッサは召使いの目を盗んで、素早く呪文を発生させる。毒のたぐいは入っていない、という呪文の結果を確かめて、ハインに笑いかけた。
その直後に、臙脂色の衣装に身を包んだ男が入ってきた。髪は赤く、その顔は肖像画の男と同じだが、深いしわが刻まれ、厳しい眼差しをしている。
彼は部屋の隅に目をやり、眉をひそめた。
「犬人の魔術師――ハイン・ランペールだね。この度は我が城を訪れてくれて、大変、嬉しく思う。このエッカルト・オッペンハイムが歓迎しよう」
ルオッサの第一印象は、疲れた男というものだった。文字でみてとったとおり、この男はかなり神経質なたちだろう。そこへ何らかの不幸があったと見える。
ハインは立ちあがり、恭しく最大限の礼をとった。改めて名乗り、次にルオッサを紹介した。ルオッサはいつもどおり、不快でないよう心がけながら白痴の少女を装った。
「そして、私の秘術を知っていただきたく、もうひとりの旅連れを紹介したく存じます」
ハインがそういうと、部屋の隅でとぐろを巻いていたリタは起きあがり、犬でもできる礼を領主に見せた。
「ほう、なかなか躾のゆきとどいた犬のようだが――」
「そればかりではありません」
言葉を遮られた領主がハインを見、次にリタを見る。
「わたくしは、リタと申します。陛下においては見目麗しく、ご気分もよろしいご様子で何よりです。さらには畜生の身であるわたくしとも謁見してくださり、感謝の言葉は尽きません。本日は日が傾いてからの来訪にも関わらず、夕げの席まで設けていただき、わが主に代わってお礼申しあげます」
領主は言葉を失い、しばらく呆然としていたが、思いだしたようにハインを見た。
「いずこかより稚児のような声が聞こえたが、これは?」
「我が僕の肉声にございます。決して腹話術のような紛い物ではございません」
領主は目を白黒させたままだ。
「では――リタよ。そなたの生まれはいずこか」
「幼き日の記憶は人と同様、おぼろげにございます。しかしながら、ウォーフナルタの豊かな山野に生まれ落ちたと聞きおよんでございます」
「な、なるほど。主人の使いとしては伝令などを?」
「主にはそれを。加えて通訳や簡単な細工などを手がけております」
「なに?」
「口に道具をくわえて、足で固定すれば――」
「そちらではない」
ハインが咳払いをした。
「リタは犬ですから、元々はルテニア語を知らなかったわけです。人語で会話するためには、知性、発声器官――そして言語のすべてが必要でした。言語を習得させるため、《神々の舌》――つまり、この世界のあらゆる言語を解する呪文を用いたのです」
「それほど高等な秘術を、そなたは扱えると……」
ハインは謙虚にうなずいた。領主は居住まいを正し、リタに客として礼をとった。
「……よろしい。ではひとつ訊ねたいのだが、そなたは肉と魚、どちらが好みかね?」
「お気遣い痛み入ります、閣下。しかしながら、わたくしは畜生にして下僕ですので、主人や、まして閣下と晩餐をともにするわけには……」
領主は静かに微笑み、首を振った。
「……この身に余るご厚意、重ね重ね恐縮の至りにございます。では、厚顔無恥の極みにございますが、肉を所望いたします」
領主は満足そうにうなずいて、手を叩いて召し使いをゆかせた。
「驚愕と感心の限りだ、ランペール殿。犬が喋るだけでも信じがたいものを、このあたりの人間ですらあのように礼節を尽くせる者はそう多くおるまい」
「お褒めいただき、光栄です。ですが、その言葉はリタにもお授けください。あの言葉はあれが自ずから考え、発した言葉なのですから」
まったくそのとおり、と領主はリタにも労いの言葉をかけた。同時に召使いが質素な肉料理を運んできて、怪訝そうな顔でリタを見た。リタが床で構わないと伝えると、召使いは皿をおき、魔物でも見るような目でそそくさと退散した。
「ランペール殿。私は貴殿を安く見ていたようだ。それだけの力があるのであれば、私の思いもよらぬことができるのでは?」
「たとえば、どのような?」
不意に領主は、手のなかのワインを見つめた。静脈血のように暗く赤い酒は、夕陽を浴びても決して黄金色には染まらなかった。
「――たとえば、そう。
この領土が脅かされた時に、民草と田畑を守ることなどは、いかがだろうか」
「雑作もないことです。農奴を歴戦の勇者に仕立て、天の火球で地を這う蒙昧な兵を焼き尽くしましょう」
「相手もそなたと同じ魔術師を雇い入れているやもしれぬぞ」
「なればこそ本懐というものです。私は魔術師でございます。戦士の戦い方にはとんと疎く、想像もつきませんが、魔術師の戦い方には精通しておりますよ」
そうハインが明朗に答えると、緊張の糸が切れ、領主はゆっくりとハインを見た。
「そうか。頼もしく心強い限りだ。
どうか、我がオッペンハイムに力添え願えないだろうか」
力強くハインが返事するのを、ルオッサは肉にかぶりつきながら見ていた。
なかなか堂に入った演技だ。見世物として悪くない。それにしても、エッカルトはころりと騙されている。あまりにもチョロいタマだ。もう少し注意深い領主なら、自分の飼っている勇士と決闘くらいはさせるだろう。
前情報でオッペンハイム領が分割され、諸侯に食い物にされているとはあった。こいつはずいぶん神経をすり減らしている。だからハインに無抵抗に騙されているのだろう。だがこれほど弱っているのならば、領土のこと以上によほど参ることがあっただろう――たとえば、身内の不幸など。
「ランペール殿。もし貴殿がよければ、どうかこのオッペンハイムに力を貸していただきたい。いくらでも礼はしよう」
「もったいないお言葉です。では、またすぐに厄介になっても?」
「無論だ。今晩からでも部屋を用意させる」
「ありがとうございます。しかし、今晩は旅の始末などもございます。また、追ってリタを使いにやりますので、ご容赦を」
「そうか……。ではそちらの少女は、これからいかがされるか」
ルオッサは「んあ?」とハインに警告した。
「この子はより多くの貧民に奇蹟をもたらすべく、ウォーフナルタから巡礼の旅をしております。陛下は真教を手厚く保護しておられる様子。よろしければ、オッペンハイムの教会にしばらくおいてみては?」
「なんと、かような幼子が。なるほど、そなたはその旅の道連れか。よろしい、そなたの信心にこたえようとも」
ルオッサはにっこりとハインに満面の笑みを投げつけた。
これはルオッサの言葉で「くたばれ粗チン野郎」という意味だ。
それはともかくとして、結局、領主が一度もあやしい素振りを見せることなく、会食は何事もなく終わった。
館を出ると、ハインは羊皮紙に得た情報を書きつけ、リタに持たせた。
「止水卿よね。帰りは明日になるよ」
「ああ、なるべく早くで頼む」
そういうハインの目を見て、リタは真意を読みとり、瞬きした。そして、リタが夜の闇に消えるのを見送ってから、ルオッサは前髪をあげた。
「気に入らねえなァ……」
「当座をしのぐための方便だ、そんなに怒るな」
「そっちじゃねェよ。被ィ刻印者にしちゃ、普通にすぎる。オマエもそう思ったろ?」
ハインは無言でうなずいた。問題を起こすような刻印者なら、何かしら人格に異常が出る。そしてエッカルトに何ら不審な点はなかった。ならば、可能性は限られる。ひとつは、エッカルトは竜の刻印を制御できている可能性。もうひとつは、今日はたまたま、機嫌がよかった可能性。
――最後のひとつは、あれはエッカルトではないという可能性だ。
「神隠しの原因をヤツに着せるなら、理由はひとつしかねえ。ハイン、ドラウフゲンガーに戻るぜ」
「……おまえもそういう結論になるか」
「はッ。それが貴族の答弁でなけりゃ、大した進歩だぜ。褒めてやらァ」
ハインが憎々しげにルオッサをにらんだ時、その腕をつかむものがいた。
それはすれた衣装をきた少女で、やつれた表情を化粧で覆い隠している。年はルオッサとほとんど変わらないだろう。
「お兄さん、どう? 今晩……」
色目を使われている、と悟ったハインは、愕然と目を見開いた。
「……そんなことはやめておけ」
そう震える声で言い、銀貨を差し出す。
それを少女は侮辱ととった。鋭い眼光を返し、ハインの手をはたき落とす。
地面にコインが転がった。
「あたしが乞食に見えるっていうのかい! この犬っころ、バカにしやがって!」
少女はそう言い捨てて身を翻した。かと思うと、気が変わったのか素早くコインを拾い、煙草を吸う男の元へ歩いていった。少女は男に無造作に殴られ、金を奪われる。
ルオッサは、前髪のなかで一部始終を眺めていた。見物だった。笑いをこらえるのに精一杯だった。ハインは呆然と少女の娼婦を見つめ、そして何かを噛み砕かんばかりに歯を食いしばり、自分の手をにらんだ。
「行くぜ、ハイン。……ククッ」
「何がおかしい……?」
ルオッサは答えずに歩き続けた。既に日は隠れた。市街を抜ければ、草原が藍に染まり、大空はわずかに残った紅の残り香を手放しつつあった。
無人の平原で、ルオッサは振り返った。
「何がだって? こっちが訊きてえなァ。面白くねェトコがあったかよ?」
堪えきれなくなったのか、ルオッサは腹を抱え、ゲラゲラ笑った。
赤い瞳を月光に光らせながら、ハインをあざわらった。
「娼婦を乞食と勘違いしてるトコから教えてやろうか?」
「……あんな幼い少女が、男に体を売っているんだぞ。そんなふざけた話があるか!」
「それが? カネを稼げりゃ大人さァ。オマエもいい買い手だと思われたんだろ。
まんざらでもないンじゃァねえのか?」
「……!」
ハインは魂の奥に眠る泥を感じた。それが、身じろぎしたのだ。
彼は絶望に毛を逆立てた。はねのけるように右手を振るう。
「そんな馬鹿なことがあるものか! 第一、望んでやっているわけがない。貧しさゆえに売るものが体しかなく、選ぶことなぞできなかったに違いない!」
「へーぇ。見てきたように言うじゃないか。だが、本当にそうかァ? 農奴と娼婦、体を売ってるのはどっちだろうなァ。かたや一日中働き続け、かたや一晩痛い思いをすりゃ終わる。体を売るのはラクなんだぜ」
「それは……成人ならば、わかる。だが、あれは子供だ。まだものの道理すらつかない幼女が、春をひさぐのは、道徳に反している!」
「テメエが今、話しているのは誰だ?」
ハインは反論できなかった。
ルオッサは爛々と野獣のように目を光らせ、耳元まで唇をつりあげた。
ハインは、目の前の幼女に畏怖した。
彼は改めて、ルオッサの深淵を見、その深さに思考を奪われた。
「道徳だァ? 道徳が飯を食わしてくれるのか? 道徳が体を暖めてくれるのか?
そんなモン、犬も食いやしねェ。ああいや、物好きな犬なら目の前にいたっけなァ?」
「……娼婦や男娼が早死になのは知っているだろう。胴元に稼ぎのほとんどを奪われ、彼らは使い捨てられる。彼らにも夢があり、与えられるべき幸福があったはずだ!」
「同じさァ。農奴も酷使され、いずれ体を壊して死ぬ。胴元が領主になっただけじゃねえか。それを教会は助けない。牛や馬と同じように、癒す費用が癒した後に生む価値を超える時のみ、もったいぶって低級な神聖呪文を使う。後はみんな貴族と戦さのための巻物にしちまう」
「おまえがそれをいうのか! 聖儀僧のおまえが!」
「クレリックだからさァ。教会は慈善団体じゃない――営利組織さ。領主や皇帝を出資者とした、な。末端には夢見がちなアホもいるかもしれねえが、司祭司教は雁首そろえて腐ってるぜ」
「……神は。神はどうだ」
神。
ハインが苦し紛れにくりだしたその言葉に、ルオッサは突然、萎えた。
「……神は助けてくれねえよ。神の腕が何本あると思ってんだ。
指ひとつで千人救おうと、足りやしねえ」
「では、何のために神を信じればいい」
「神はオマエのママじゃねえ。天の宮の主はな――」
言いかけ、「そんな下らねえ話はいい」と自ら切り捨てた。
ハインは顔に血色を取り戻す。
彼は希望をみた。再び、ルオッサのなかに光をみた。
「……ルオッサ。おまえは、なにが本物なんだ」
「なに?」
「おまえの道化の顔はまがいものだ。どうせルオッサも偽名だ。
……その人格もつくりものなんだろう?
俺は知っているぞ。リタと話す時のおまえの顔を」
少女は切歯が割れんばかりに食いしばり、一歩、後ずさった。
「ハイン。オマエには分からねえ。理解しようがねェ。アタシを誰だと思ってンだ?」
「……幼子だ。おまえは誇り高い少女だ。
その矜持ゆえに、強制されることを許せず、自ら道を――」
きし。
ハインは、声をのんだ。息をとめざるをえなかった。
不意に自らの身に降りかかった、獅子をも一息で殺すヒュドラのごとき殺気。人外の、心の臓を射砕く眼光。ハインは無意識に剣の柄を握らざるをえなかった。
少女は、月光の下、静かに燃える赤髪の中で、憎悪に震えていた。錆色のマントを翻し、幼女の細腕で背中のレイピアを握りしめている。細腕には無数の瘢痕がひしめき、わずかにのぞく刀身は、夜闇のように暗かった。肩で息をし、犬歯を剥き出して、欲求に耐えている。
ハインは身動きひとつしなかった。彼は少女がその剣を抜いたなら、即座に斬り殺す決意をした。決意とは裏腹に、その決意に彼は怯えた。もう二度と罪を重ねたくないと祈りながら、大義のためにその罪を積みあげてきた自分に吐き気がする。彼は使い魔との経絡を閉じた。自分が斬り殺してしまったのなら、愛犬になんと釈明すればいい。自分が斬り殺されてしまったのなら、愛犬はどうなるのだ。
決意は体に震えひとつ許さず、切り捨てる時の体の動きを反芻させつづける。
希望は、幼女が葛藤していることのみだった。ハインはそれに賭けるしかなかった。
凶獣の中に、まだ人が残っていることを、祈ることしかできなかった。
しゃりん。
長い長い刹那の後、ルオッサは剣を収めた。そして深く嘆息した。
「はは、ハ。あぶねえあぶねえ、つい、ヤっちまうとこだったぜ」
口はいつものにやけ顔に戻ったが、目は笑っていない。
「ルオッサ……すまない」
「……二度目はねェ」
ハインは安堵した。リタを悲しませずにすんだことに。
「ハイン。ひとつ、忠告しといてやる。麻薬はやめておけ」
「……何のことだ?」
「“正義”は麻薬なンだぜ。人を人形や亡者に仕立てあげ、人でなしに変える。
オマエのそれは、過ぎた独善だ。いずれ死体の山を築く」
ハインは、ルオッサから目を背けた。
「麻薬のように、どんな少量も許されないというのか」
ルオッサは答えず、ハインのポーチから煙草をスりとった。そして咥え、無言で火を要求した。ハインが手品で点火すると、大きくひとつふかす。
「ひでえ草だ」と悪態をついてから、先ほどの憎悪を叩きつけるように踏み消した。
「我欲のためだ、っつう方がまだ気に入るぜ。なあハインよォ」
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