かげろうの夢

化野知希

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第三章、影さす追慕

一、かげろうのゆめ

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『どうしてもゆくというのか』
 疲れた顔の狼人の問いに、“自分”はためらいがちに頷いていた。視界に色はなく、焦点のあわない場所はすべからく空白。とびとびのその光景は、ぼろぼろのフイルムを無理やり継いだようだった。
『ここがお前の里に似ていると言っても、こんな寒村はごまんとあるだろう。それなのにお前は、俺と娘を置いてゆくのか』
 男は懇願するように、“自分”にびっこをひいて追いすがる。視界が下がり、足元を見つめる。銀色の、細く引き締まった脚だった。
『確かに、こんな村は珍しくない。でもね、あたしの里は、炭坑が元でダメになっちまったんだ。この村も炭坑を掘ったがために滅ぼうとしてる――あの時、あたしは何もできないガキだった。でも、今は違う』
 視界が、上がる。
『今度は、。そう思ったら、居ても立っても居られなくてさ……。
 ――もう、村長には話、通してあるんだ。あたしが帰らなかったら、役立たずの亭主と幼い娘の面倒は見てくれるってさ』
 視界は濁り、“自分”の手が雫を拭う。目の前の男は、愛する女を引き留めようと掲げた腕を、力なく下ろす。
 短い別れの言葉。振り返り、振り切るように戸を引く。
『おっかあ、どこいくの』
 意識が覚醒する。だ。よれよれのお下がりをまとう、泥だらけの少女。鼻水を垂らして、母親をじいっと見つめていた。そのあどけない短い鼻を、は知っている。
 “自分”は絶句し、口元を覆う。
 しゃがみ込み、頭を撫で、娘にかけた最期の言葉は。

 衝撃。大地を玄翁で叩き上げているかのような揺れ。最初は何が起こっているのか、夢と現実の区別もつかぬまま揺れを感じていた。けれども次の瞬間、庭で遊んでいた我が仔に思い至る。
 後は無我夢中で、泣きじゃくりながらあたしを呼ぶ風太を抱え、門の外まで駆け抜けた。幸い、揺れはそう長くはなく、家がつぶれるほどの強さでもなかった。
「おっかあああ……こわいいい……」
 しばらく呆然としていたが、胸の中でべそをかく風太に気づき、そしてその重みに耐えかねて下ろした。今年の夏、五歳の誕生日を迎えたかわいい息子は、もう抱き上げ続けるには重くなり過ぎていた。
「風太、もう大丈夫だから。母ちゃんが付いてるからね」
 風太はあたしの裾を涙で濡らす。あたしはその頭を、そっと撫でてやる。ずっと気がかりだった息子の耳は、まだ垂れたままだった。それでも、もう尻尾は一人前に巻いている。こんな早さなら、そのうち気付けば尋小に通っているだろう。
 それにしても、また変な夢を見ていた。しかも今まで見たことのない夢だ。残暑を避けて、昼にもならないうちから居眠りをしていた、怠け者のあたしへの警告だろうか。風太に目をやるが、涙はまだまだ止まりそうにない。こんな大きな地震に遭ったのは、生まれて初めてのことだろう。無理もない。
 そういえば、華子は大丈夫だろうか。
 あたしは心配になり、診療所に向かうことにした。息子も友達に会えば、少しは気がまぎれるだろう。
 診療所に向かうと、小さな腰巾着を連れた華子と鉢合わせた。彼女の息子である慧一郎は、父親によく似て小憎たらしい目をしている。慶一郎はそのくりくりの目を細めて、ぐずる風太を指さす。
「あー、またないてるよ。そんなんじゃ〝しょーさ〟になれないぞ」
 そういう慧一郎も耳を折り、涙の跡が目尻にある。挑発された風太は、精一杯強気に「なれるもん、おっとうみたいになるもん」と途切れ途切れに返す。こんなに隼一を慕っている我が子を見るに、胸にこみ上げるものがあった。自分の下腹部をさする。風太が誕生日に欲しがったものを、ふと思い出したのだ。
「ああ、あなた、けがはなくて」
 あんたこそ、と華子に訊ね返しかけ、総毛立った。いつになくすっぽりと頭巾をかぶっているなと思えば、その陰にちらりと血のにじんだ包帯が見えたからだ。どこかけがをしたのかと訊ねると、彼女はあたしの剣幕に後ずさった。そして頭巾を深くかぶり直すと、耳をぶつけてしまったの、と答えた。
 そうか地震で、立派な耳を。あたしの表情に華子は、大したことはないの、と取り繕う。詳しく聞くに、どうやら診療所は多少薬瓶を損ねた程度で済んだらしい。ただ、村の中で頭を打った人などがいるらしく、往診にゆかねばならないようだ。
「もし都合がつくなら、慧一郎を預かってもらえるかしら。夕方まで帰って来られないかもしれないのよ」
「おれ、ひとりでも平気だよ!」
 不満げに声を張り上げる小さな仔兎を、彼女は小声で何か言って諭した。すると途端に、じゃあしかたないなあ、とこちらに駆け寄り、風太の手を握ってきた。どう言って聞かせたか知らないが、慣れたものだ。
「――露子ったら、最近、誰ともあってないみたいだから。そっちも確かめておきたくて」
 そう顔を伏せる華子を見て、あたしも旧友のことが気にかかった。露子は女中として正式に暇をやってから、めきめきと商才を発揮して独立した。だが、数年前からぱったり人前に姿を見せなくなっている。こんな時だ、独りで閉じ込められでもしていたら事だ。
「ああ、よろしく頼むよ。あたしも少し旦那の仕事場を覗いたら、家で待ってることにするから」

 日光は鋭く照り付ける一方、山あいを抜ける風は黒く湿っていた。あどけない会話をする子供たちを時折かえりみては、羽織の袖にある守り刀に手をやる。稲刈りを控えた田畑に黄金色の波が吹き抜けるが、その穂にかつての重みはない。
 村を外れていくらか歩くと、三本の煙突が銛のように突き立った工場が見えてくる。その煙突も今ではもうもうと煙を吐くのは一本きりで、世の工場の在り方はここにも見える。とんと暇になったふたつの棟は、烏の足跡のような蔦がびっしりと覆っている。一方、煤をまき散らすひとつの棟だけが、今もこざっぱりとしている。
 その時、ふと、工場の屋根に踊る霊を見る。焼けたトタンの陽炎、その上。ふわりふわりと、赤い霊と黄色い霊が遊んでいる。月夜には妖精が輪を作って踊る、そんな話を聞いたことがあるが、ちょうどそんな具合に楽しげだった。霊たちの寿命は短い。山から生まれ、日を見て育ったのならば、月を見ることはない。霊のことを“日限り”や“蜻蛉”と呼ぶこともあるくらいだ。彼らに意思はなく、日の光や吹く風、川の流れのようなものだと知っていても、折をみて空想することがある。
 彼らは眠るのだろうか。眠るのならば、どんな夢を見るのだろう。かつてこの地にいた竜は、長くまどろみの中にいた。浅い眠りの中で、どんな世界を見るのだろう。そこは、目覚めているよりも幸福な、安息の地だろうか。
「おばさん、あれが火の霊なの」
 足元を見ると、慧一郎がガマの穂で屋根の上を指している。少し驚くが、そういえば子供の頃は霊が自然と見えるものだったか。うなずき、「別のやつが混じってるけど分かるかい」と聞いてみる。それも地の霊とぴたりと言い当て、得意気に背伸びしてみせる。素直に感心し、「誰から教わったんだい」と訊ねてみると、父親が教えてくれたという。
「でもいつになっても父上は、のりとも手ふりもちっとも教えてくれないんだ。いっつもいそがしいっていってさ……」
 この仔は親にしょっちゅう口答えするが、家の外では別人のように聞き分けがいい。そんな仔がすねる姿は、見ていてとてもいじらしい。
「尋常小学校に行くようになったら、嫌でも教わるさね」
 そういって頭を撫でてやるが、誰に似たのか、仔ウサギは「子どもあつかいしないでよ」と払いのける。
 そうこうしていると、ガマをいじくって遅れていた風太が、ようやく追いついてきた。「いかないの」と訊くので、工場は危ないから待っているように言い聞かせる。しかし、「おとうさんにあいたい」と駄々をこねる。
 すると慧一郎が「夜中までおきてまってれば」と諭す。その口調に、とんと姿を見せなくなった華子の旦那を思い出す。格好付けたがるところは父親譲りで、分別の良さは母親譲り。良くも悪くも、慧一郎はまさしくふたりの息子だった。
 そんな慧一郎を見ていると、風太にも思うところが出てくる。たとえば、いまひとつ朗々としたところがあれば、といった感じだ。でも、もちろん風太にも我が仔ながら誇らしいところはある。風太はひとたび自分のやるべきことだと思えば、誰が何と言おうとやり通す。先日も玄関先だけ草をむしってもらおうと思ったのだが、戻ってみれば庭は丸裸になっていた。この仔は大物になるかもしれない、そんな気持ちになる一方で、その純粋過ぎるところがどこか空恐ろしくもあった。

 心細そうにする風太に手を振りながら、ところどころ錆が浮いた階段を昇る。二階の作業場の中は、騒々しくごった返していた。多くの人間に交じり、隼一はたくさんの人間に指示を飛ばしつつ頭を抱えている。彼はあたしをみとめると、きみか、と溜息交じりに顔を上げた。
「顔見て溜息とは、ご挨拶だね」
 まるでいつかのように嫌味を投げると、隼一は苦虫を噛み潰したような面持ちで煙草に火をつけた。
「すまない。このところ、苦境続きでね」
「苦境、ね。戦争が終わったら、暇ができるんじゃなかったのかい」
 思わず、矢継ぎ早に普段の鬱憤が噴出する。
「あの仔、誕生日を楽しみにしてたんだよ。最近じゃ稽古もつけてやってないみたいじゃないか」
「……悪いとは思ってる。だけど、不況がここまで来てるんだ。このままじゃ、この工廠は閉鎖になる。そうなれば今以上の人数が路頭に迷う。何より、ぼくが――」
「そんなにこの工廠が大切かい!」
 業を煮やして飛び出た怒声に、彼はひるんだ。周りの工夫もぎょっとしてこちらを見、またか、という顔で作業に戻る。彼は何か言を継ごうとして、火をつけたばかりの煙草をもみ消し、
「――分かった。今晩きちんと話しあおう。用事は、それだけかい」
 そこで、今度はあたしの耳が萎れた。
 ……こんなことを言いにきたのではなかったのに。目を逸らし、先の大きな地震が心配で来たことを告げると、彼はさも当然のように、
「ああ、それなら問題ないよ。どの炉も何ら影響を受けていないし、坑道も幸い崩落していない。作業員もみな、無傷か軽傷だよ」
 またか、とあたしは首を振る。「違うよ、あんただよ」
 隼一は狼狽し、所在なさげに目をそらす。
「あ、ああ。ぼくは工廠長室でふんぞり返っていただけさ。何ともないよ」
「そうかい。それなら、いいんだ」
 やりきれない気持ちを胸に沈め、踵を返す。
「勝子、今晩は定刻に帰る! だから、待っていてくれ!」
 後ろからの声に、あたしは振り返らなかった。

 陽が沈み、空は深い紫に染まっていた。
 縁側の外に目をやると、強風のいだく霧雨が、桜の葉を湿らせていた。月のない夜半、裸電球の明かりに照らされる庭を見て頬杖をつく。もう台風の来る季節なのに、不思議な雨だ。
「おばさん! それで、そのつづきは。はやくおしえてよ!」
 視線を戻すと、慧一郎が子供らしくきゃんきゃんと吠えている。
「わかったよ、うるさいねえ」
 苦笑しながら、森の霊を呼ぶ祝詞を暗唱する。慧一郎はきらめく短刀を小さな両手で握りしめ、一所懸命にそれに続く。
 事の発端は、慧一郎が翡翠の短刀を息子に見せびらかしていたことだった。原石をのみで荒く削っただけの小刀は、紛れもなく召霊術師の焦点具として作られたもので、聞けば父親からもらったという。そういえば、あの優男も森のが十八番だったが、多分あれの使っていたものとは別物だと思う。焦点具を変えれば、霊を使役する際の癖も変わる。ゆえに召霊術師は、そうそう得物を変えないものなのだ。
 何とはなしに、あたしも似たようなものを持っている、とざくろ石の短刀を見せると、慧一郎はきらきらと目を輝かせた。そういえば召霊術に興味を持っていたなと気づき、華子が迎えに来るまでの暇潰しにと、霊を遣う手ほどきをしたあたしが間違いだった。何も知らないゆえか、次から次へと何でも知りたがり、おまけに覚えが良くて反復させるいとまもない。
 すぐにあたしと慧一郎のやりとりに興味をなくした風太は、寝っ転がって床の間の刀たちを眺めている。静かに眠る三振りの刀剣。隼一の大太刀と、喜三郎の鍛えた脇差、そしてあたしの父の愛刀。近頃の風太のお気に入りは、飛びぬけてどでかい大太刀だ。隙あらば抜いてその輝きを眺めようとし、その度に叱っているが一向になおらない。
 風太を見張りつつ片手間に教えるうち、慧一郎はとうとう召喚・使役・返戻の基礎を習得し、遠見の術まで成功させてしまった。
「すごい、すっげえ! おとうさんのみせてくれたのは手品じゃなかったんだ、おれにだってできるんだ!
 ねえ、もっとほかのもおしえてよ!」
 その時、しとどに濡れた華子が縁側に駆け込んできた。なおもせがむ慧一郎を適当にあしらい、傘を畳む彼女に駆け寄った。手拭いを渡しながら、ひどい風だね、と言葉をかける。
「ええ、台風でも近づいているのかしら。ラジオじゃそんなこと、いっていなかったけれど」
 聞くと、村で大事に至った人はいなかったようだ。あたしが露子のことを聞くと、彼女は不意に動きを止めた。
「つゆ――ああ、露子ね。会えなかったの」
 どうやらうつる病にかかったようで、華子と会うのすら随分渋ったらしい。だが扉越しの声は元気そうだった、と華子は続けた。
 それならまあ、大丈夫か。よし、と振り返ってしゃがみ、不服そうな顔の慧一郎をわしゃわしゃと撫でる。「今日はここまでだよ」と言うと、慧一郎はいつになく癇癪を起こし、飛び跳ねた。この仔がこんなに言うことを聞かないのは珍しい。華子は困った顔で言い聞かせようとするが、いつもにまして譲らない。彼女は困窮してややきつめに声を張るが、それでも弱弱しくしか叱れない。その様に、あたしは一計を案じることにした。戸棚の奥から黄ばんだ冊子を取り出し、ごねる慧一郎に差し出す。
「ほら、あんたは誰かに似て出来がいいんだ。おまえなら、こいつがあればひとりでも勉強できるだろ」
 安い藁半紙を麻紐で縛っただけの、薄い墨で書かれた本。少し中身をぴらりと見ただけで、面相の悪いその表情は、屈託のない笑みに様変わりする。他方、華子はぎょっとした顔をする。
「あなたそれ、お母さまの遺品でしょう。そんな大切なものを――」
 長い耳を折る華子に「いいんだ」と言ってやる。
「あたしはもう、あの術式を全部そらで唄える。それに、うちの息子は刀剣にしか興味ないみたいだしね。受け継がなきゃ、宝の持ち腐れさ」
 戸惑う母親とは対照的に、慧一郎は口悪くも礼を言った。そして本を大事に大事に華子の革鞄に入れると、ぺこりと一礼する。かえるの、と風太が寄ってきて、手を振った。彼女は何度もあたしへねぎらいの言葉をいい、それでは、と母子で手を振って帰って行った。
 がらがらと閉められたガラス戸から、風太はあたしに目を移す。
「おっとう、おそいね」
 鼻息ひとつ、相槌ひとつ。とっくに定時は過ぎている。風太が短い鼻づらをくあ、とあける。晩飯も終わり、眠いのだろう。先に寝とくか、と訊ねると、宙を見つめる。昼の考えがよぎったようだが、次には目を擦り擦り、うなずいた。
 畳に布団を敷き、明かりを消し、風太を寝かしつける。あたしは縁側に座り、待つことにした。雨戸を背に、ひとり、雨と闇夜にぬらされていく庭を眺めて。
 ふと、昔、露子が言っていたことを思い出す。
 どんなに激しい恋を経たとて、三年で飽きてしまう――すべての男と女がそうでないにしろ、かけらほどの真実は含まれているように思う。
 あたしは隼一を、きっと今でも愛している。あいつと、あいつと愛しあった証である風太のことを、間違いなく。
それでもあたしは、家族が三人揃わないことを不服に思い、寂しがる息子を見ては苛立ちを募らせる。疑いはあいつだけでなく、あたしの胸中の誓いにも向けられる。
 霧雨はいつしか大粒の雨になっていた。庭木の葉が弾かれ、ぱらぱらと音を立てる。風は強くなる一方だ。縁側まで雨が吹き込んでくる。暗い空の向こうには雷雲すらも望める。
 あっという間だった五年間を、どこかで懐かしく思う。あたしの腹に二人目が宿ったのも、つい昨日のよう。
 手慰みに懐から小刀を取り出し、闇の中で輪郭を追う。
 ぼう、と石榴石が暗い輝きを灯し、あたしは目を見開いた。祝詞も唱えぬのに、焦点具が共鳴するわけはない。次には小刀だけでなく、その背景にも青白い光。顔を上げた。
 それは、一瞬の稲光だった。
 紫の閃光の中、両翼を光に縛られた竜。その影は飛んでいるものとは到底思えなかった。飛翔ではない、投擲だ。それはちょうど投石器で天高く放り投げられた弾丸のごとく、風を切る音すらなく視界を横切っていった。
 あかがね色の瞳。薄らぎゆく閃光の中、竜のそれがあたしを見た。いいや、あたしであって、あたしでないものを見ていた。
 そう気づいた瞬間、凍った風が腹の中まで通り抜けていくように感じた。それほどの筆舌に尽くせぬ恐ろしさだった。怒り、憎しみ、苦しみ。紛れもなく因縁浅からぬあの竜であり、寸分違わぬ姿形でありながら、その瞳孔の奥に燃ゆる感情に、畏怖を、根源的な恐怖を覚えずにはいられなかった。
 刹那は終わる。一瞬の光景は無音のままに消え、後には輝く暗雲と遠い雷鳴、強い雨脚の音色だけが残された。
 焦点具を見る。稲光に慣れた目では、その輪郭は分からなかった。夢を見たのか、と一瞬考える。その淡い期待は、次の一瞬に脆くも打ち砕かれる。
 焦点具が、さっきよりも強く、不吉な赤い光を放ち始めた。
 全身を黒い風が走り抜けるような、不快感。その意味が、あたしには分かった。
 。あの竜の中には今も、母さんがいる。ゆえに竜が意志を持ってその力を揺り動かせば、血を継ぐあたしの霊質も共鳴し、ざわめく耳鳴りのように感じる。
 祈るように顔を上げる。豪雨が雷光に照らされていた。
 あの時と同じだ。あの時の、五年前の災厄が、再び訪れる。予感ではない、直感にも似た確信だった。五年前が空に暗雲立ち込め始めた頃であったとするなら、今は既に嵐吹き、雷が落ちる直前だ。
 ゆらりと立ち上がる。するりと手から短刀がこぼれ落ちることに、気を払う余裕はなかった。どうすればいい。みな、じきに竜に生命を吸われ倒れるだろう――それに、気づくことすらないまま。今からならみなを隣村まで逃がせるだろうか。いや、覚醒しきっていない時ですら弱い者は半日と持たなかった。あの竜は完全に目覚めていた。おそらく、華子のような体の弱い者は既に変調をきたして――
 そうだ、風太は! 弾かれたように布団をめくる。
 風太の顔をみて、あたしはくずおれた。その顔には、玉のような脂汗があった。浅く速い息と、熱を持ちながら蒼褪めた顔……。
 もうこんなに――。
 目の前が真っ暗になっていく。このままでは、この村は。母さんが守ってくれた、母さんがあたしと父さんのために遺してくれた村は。風太と隼一と、華子やたくさんの隣人の暮らす村は。
 歯を食いしばりながら知恵を絞るが、何も浮かばない。当たり前だ。五年前だって、策なんてひとつたりともないまま、西の古道へ足を踏み入れたのだ。
 その時、ふと縁側に燐光を見つけ、焦点具の存在を思い出す。そうだ、こんなことをしてる場合じゃない。風太を助けなければ! 焦点具を掴んで息子の脇に座り、震える口でどうにか祝詞を唱える。赤い輝きを、命のひとかけらを与え、火照りの収まるのを祈った。
 やがて、顔に赤みが戻り、呼吸が整いはじめた。ほっと一息つくが、こんなものは時間稼ぎにしかならない。あたしの霊質も無限ではない。ただですら、水子に今も分け与えている最中なのだ。村人全員を救うなんて、できっこない――。
 不意に雑多な思い出、小さな幸福が思い起こされる。脳裏に浮かぶ様々な記憶の中に、子供の頃の憧憬を思い出す。矢の飛び交う戦場を走り回り、戦傷者を癒して回った幼き聖女のことを。
 ああ、あの幼い聖女のように、全てを救うことができたなら。
 その時だった。唐突でか細い、それでも確かな声がした。
『できるよ』
 それは極限状態がなす幻聴だったのかもしれない。あるいは、あたしの無意識の発声だったのかもしれない。
 ともかくそれは、母さんの声だった。覚えていないはずの、先代の狼憑きの声。少なくともあたしには、そう聞こえた。
 そうして、あたしはその声に気づかされたのだ。
 ぎりりと歯を食いしばり、あたしは決意した。
「風太……隼一。あんたも、あんたとあたしの息子も、あたしのモンだ!
 神だろうが何だろうが、決して渡さない。
 渡してたまるものか!」
 稲光を背後に、息子の寝顔を見て自嘲する。
 つまるところ、あの日、華子が言ったことは正しかったのだ。まさしくこのことを言い当てていた――あたしらは、似た者夫婦だ。あたしという女は、結局はお前と同じことをする。
「でも、分かるだろ? あんたなら、さ……」
 だからさ――この仔を、頼んだよ。
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