偽装で良いって言われても

Q.➽

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数ヶ月振りの日本の空気。飛行機を降り立った瞬間から妙に鼻に馴染むその匂い。
レザーのボディバッグだけが荷物らしい荷物の橙はまるで只街歩きに出たような出で立ちで、国際線の乗客としては身軽過ぎる。だがどうせ必要な物は服を含め全て実家と高城の家にあるのだから。バッグの中もパスポートや身分証の類、スマホと財布という最小限の物しか入っていなかったから、検疫や入国審査にも時間は取られなかった。
このまま知った顔に会ってしまう前に、一刻も早くタクシーに乗ってしまおうと考えていたのだが…。

「橙様。」

到着ロビーに出て直ぐに、聞き慣れた声がした。
気が進まないが仕方無く声の方に視線をやると、やはり見慣れた顔があり、視線が合うと綺麗な姿勢で頭を下げてきた。
短い黒髪の、少し酷薄そうな細い目をした黒いスーツの三十代半ば程の男。

「…日浦。」

彼は高城家の使用人の一人だ。高城に代々仕える家は幾つかあるが、その内の一つである日浦家の長男で、今は篠宮の下について働いていた。その日浦が橙の帰国を出迎えたという事は、既に高城には伝わっているという事だ。
日浦が青秋や篠宮の指示無くして勝手に動く事は有り得ない。

「お車はあちらに。」

「…青兄が寄越したのか?」

「いえ…。」

日浦はそれだけ言って口を噤んだ。何だ、そのハッキリしない物言いは。
橙は若干苛ついたが、口には出さなかった。
考えにくいが、まさか青秋には伝わっていないのだろうか。もしくは伝わっているけれど橙に対しての差配を篠宮に任せたという事なのか。
釈然としないものの、意地を張る性格でもない橙は素直に車に乗り込んだ。





「え?橙?」

「青兄~!!」

勝手知ったる高城家。高城家の中には橙の部屋もあるのに何故か別棟の違う部屋に誘導しようとしていた日浦と篠宮の制止を振り切って青秋の部屋に向かった橙は、仕事中の青秋の部屋をノックもせずに開けた。
驚きに目を丸くしている青秋に抱きつくと、仄かに青秋の使っているお香の香りがして、モヤモヤしていた溜飲が少し下がった。
やはり青秋は知らなかったようだ。どうやら篠宮は青秋と橙の接触を避けたかったようだと気づいたが、その理由がわからない。問い詰めても、あの腹芸に長けた篠宮が答えるとも思えない。
高城の親類達といい、篠宮といい、一体何なのだ。橙は自分を追って青秋の部屋に入ってきた篠宮と日浦を睨みつけた。
若い日浦はそうでもないが、篠宮は少し息切れしている。

「どうしたんだ。何時帰ってきた?未だ帰国予定は先じゃなかったか。」

下ろせば鎖骨に掛かる程度の長さの黒髪を緩く後ろに束ね、落ち着いた濃紺無地の紬の部屋着を着た青秋は、久々に見ても惚れ惚れする程美しい。
日本にも国外にも‪α‬の友人は多くいるけれど、青秋程に秀麗な男は知らない。
身内贔屓でも何でも、橙は世界中の‪α‬の中で青秋が一番だと思っている。

「青兄の婚約者候補が来てるって聞いて、見に帰って来た。」

橙が正直にそう言うと、青秋の口元が少し引き攣ったので、首を傾げる。

「…駄目だった?」

「いや、そんな事は無いが…。」

青秋は動揺を押し隠してそう答えたが、その目は橙から逸らされ伏せられた。
橙の母親である葉月の叔母からは、橙は向こう半年か一年は留学先から戻さないと聞いていた。だから青秋は、橙が国外にいる内にさっさと愛の無い結婚と子作りをして、義務を果たしてしまおうと考えていたのだ。契約相手になるであろう麻生兄弟は、何方が青秋の相手になったとしても、子供を産めばきっと離縁を選ぶだろうから、上手くすれば橙と面識を持たせる前に全てが済むかもしれないと、少し狡い事を考えたりして。
煩い親戚連中も、成す事を成しさえすれば、橙を呼び戻す事に文句はつけるまいと思う一心だったのたが、まさかこんなに突然その橙が帰って来てしまうとは。

青秋はちら、と篠宮を見た。篠宮は申し訳無さそうに目で謝罪してくるが、何故橙の帰国が自分の耳に入っていないのか。その辺を後で篠宮に突き詰めねばならない。

それにしても相変わらず橙は可愛い。首に回された腕や、至近距離で見える首は若干の少年ぽさは残しているが、既にしっかり大人の男のものだ。体臭に僅かに混じるフレグランスはユニセックス。橙のような長身でそれなりに体格の良いイケメンが、主張の強過ぎない香りを好むのは、付き合ってきた女達の影響だろうか。そう思うと、青秋は少し胸が苦しい。
橙が女好きなのも遊び好きなのも今に始まった事ではなくて、見守るスタンスでいようと割り切った気でいたのに、彼の言動の端々に女の影が見えてしまう瞬間には慣れきらない。
青秋だって橙の知らない所ではそれなりに男と遊んでいるのだから、こんな嫉妬は筋違いのものだとわかっているのに身勝手なものだと自分でも思うが、それでも止められないのが嫉妬というものだ。
青秋は抱きついてきた橙の背中に腕を回し、その体の感触を確かめた。

(やっぱり一番、しっくり来る。)

こんなにも自然に腕に馴染む体温が絶対に自分のものにはならないのだと、それが青秋には切ない。




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