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5 自覚

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新学期が始まって少し経った頃、ある女生徒が周に告白したという噂が校内を席巻した。

以前より更に近寄り難くなり、ハードルが高くなったどころではないのに随分勇気のある猛者だ、いや向こうみずだ、身の程知らずだ、と皆、口さがない。

そしてその噂は当然橙空の耳にも入った。

結果としては、

『君、受験しないの?』

と、呆れたように見下されて終わったという。
その言葉はつまり、

受験生なのに告白?気楽なご身分だね。というかだからって他人の受験勉強邪魔するつもり?

という意味であろうと、女生徒は受け取ったという。

これは深読みではなく実際に周も思っていた事なのだが、それを聞いた橙空はガーンと何かで頭を横から殴られたような衝撃を受けた。

つまり、周が橙空に復縁してくれと言い寄ってくる訳なんかなかったという事だ。
だって、受験期に突入するから…。

最初、女生徒が振られたとい聞いた迄は、そりゃそうだろうと嘲笑った。
けれど、どうやら頭を本格的に受験にシフトした周には、もう誰も取り付く島もないようだと気づいてしまった。


それならそれでも、別に良いじゃないか、と橙空は気を取り直そうとした。
だが、何故か気持ちがぐらぐらするのだ。
別に、好きな訳ではなかった筈なのに。何時も自分より上にいる周に一泡吹かせて上に立ちたかったからしていただけで、気持ちなんか無かった。無かった筈だ。


目を細めて自分の動きを追う周の、優しい瞳を思い出した。
素っ気ないようでいて、実は何時でも橙空を優先してくれていた事も、あれは気の所為なんかではなかった。

キスをした時は 周の唇も、橙空の頬に添えられた大きな手のひらも、少し震えていた。
大切そうに大切そうに、まるで脆いものに触れるかのように、触れるだけのキスだった。
心がほわりと暖かくなるような。


だから確信できたのだ、周の心を手に入れたと。


その嬉しさを、自分のくだらないプライドの為に胸の奥に押し込めて、絶好のチャンスが来たと下克上を優先したのは橙空自身だ。


周を傷つけて、恋心も自尊心も踏みにじってやって、そうしたら自分の気が済むのだと、そう信じていた。
そして、実行してしまった。

橙空だって周を好きになってしまっていた癖に。




「あああー!!もう!!」

噂を聞いた日、学校にいる間中、ずっと悶々として、帰宅した自室の中で橙空は枕に顔を埋めて叫んだ。

もう少し素直に自覚していれば。あんな馬鹿な振り方なんかしなかったのに!と、後悔した。

もさい格好で伸びっぱなしの髪に半分隠れていても、分厚い眼鏡でガードされていても、周はカッコ良かった。
周の部屋に2人でいる時は勉強の邪魔になる前髪を橙空がゴムで括るかピンで止めるかしてやっていて、目が疲れるからとマッサージや目薬を点す為に眼鏡を外していたから、橙空は完全な周の素顔を普通に見ていた。

同じ男から見ても惚れ惚れする程に整っていて、不覚にも、奇跡のような造形だと見蕩れる事もあった。
考えてみれば橙空とは全くタイプの違う美貌なのだから、何方がより良いかなんて比べる方が不毛だ。
カッコ良いものはカッコ良いし、綺麗なものは綺麗だ。
成績だって、元々の素養もあるけれど、それだけでずっとトップを取り続けでいられる訳では無い。
飄々としているからわかり辛いけれど、周はちゃんと努力していた。それも、付き合い出してからわかった事だ。

橙空は傍にいる事を許されて、それをつぶさに見てきた筈なのに。


橙空は枕を抱き締めて泣いた。
くだらない自己満足と引き換えに手放してしまったものが、あまりに大きかった事に気づいてしまった。

せめて、違う言い方をしていたら…。よりによって、

『やっぱり女が良い』

なんて…。

完全に男は無いって宣言してしまった。
周は、自分から告白してグイグイ迫っといて、何それ?と思っただろう。
それでも、本人がそう言うのだから仕方ないと納得したんだろうか。
何時の間にか橙空を優先するようになっていた周なら、有り得るような気がした。

『やっぱり合わないみたい。』

とか、

『しばらく距離を置きたい。』

とかなら、戻れる可能性を残しておけたかもしれないのに、嬉々として最も傷つける言葉を厳選していたあの時の自分が憎い、と橙空は歯ぎしりした。




しかしどんなに後悔しても状況が変わる事は無く。

それから後も、稀にすれ違う事があった時にすら、周の目に橙空が映し出される事はなかったし、橙空も完全な拒否を恐れてリアクションは起こさなかった。

別れた直後の周のように、橙空は無自覚の内に未練がましい視線を周に送るようになっていたが、当の周はそれに気づく素振りはなかった。

周は更に成績を伸ばし、二学期に入ると 当初の志望よりランク上の大学に志望校を変えた。
またしても噂でそれを聞いた橙空は、どんどん周が遠くなっていくのを肌で感じていた。

危機感。

このまま離れて、この先の人生、関わる事すらなくなってしまうのだろうか。

完全に自分で潰してしまった恋を、今更追いかける自分は見苦しいと、わかっている。
でも足掻きたかった。
復縁の可能性は無くても、僅かにでも姿を目にできる距離でさえ、いられたら…。



無謀だろうが、同じ大学に進学できたら、と頑張っていたつもりだった。
でも、思うようにいかない。

模試の結果を握りながら、橙空は唇を噛んだ。







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