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9 天秤の代償
しおりを挟む「離婚してるんだ。」
「え…?」
離婚。
思いもよらない言葉に動揺する斗真をよそに、雅紀はポツポツと語り始めた。
あの頃。あるアルファと惹かれ合った雅紀は、斗真への気持ちとの間で揺れた。
オメガにとって、これぞと思えるアルファとの出会いはその先の人生を左右する大きなチャンスだ。
番になれば突然のヒートによる他者への無為なフェロモンアピールが止むし、アルファは経済力を持つ者が多いから恵まれた生活が約束される。
実は貧困家庭とも言える環境で育った雅紀にとって、アルファの財力は至極魅力的だったのだ。
優しい斗真を愛している。
彼と恋人になれて嬉しい。
彼と抱き合うのは幸せだ。
何時までも一緒に居たい。
けれど、斗真はベータだ。
どんなに体を重ねても、オメガである雅紀のヒートの飢餓感を満たしてはくれない…。
結局、雅紀は斗真とアルファを天秤にかけ、出会って間も無いアルファを選んだ。
別れ話の席で斗真が見せた、痛みを堪えるような表情に…決めた筈の心が揺れた。まだ間に合う、やはり斗真への愛を選ぶべきなのではと。
けれど、斗真の表情は直ぐに全てを諦めたように凪いだ。
それを見た時、雅紀には斗真が自分を諦めてしまったのだとわかった。
何故だとも嫌だとも待ってくれともふざけるなとも、何一つの言葉も無く、斗真は雅紀を手放したのだ。
『わかった、幸せに。』
そんな餞の言葉だけをくれて、斗真は帰っていった。
雅紀を番にする為に雅紀の相手のアルファは、万が一の時には斗真に慰謝料すら払う用意をしていた。だが、受け取らずごねもせず、あっさり帰って行った斗真の潔さに些か拍子抜けしたような顔をしていた。けれど、雅紀には納得できた。
雅紀の知る斗真は、愛を金で換算できるような人間ではない。
誰よりも近くにいたからこそ、雅紀の抱えているジレンマを理解してくれていた。だから恨み言ひとつ言わず身を引いてくれたのだ。
それが痛いほどわかって、雅紀は泣いた。
だが、どんなに悔いても時計の針は巻き戻せない。
その後、2ヶ月ほどして訪れたヒートで、雅紀とアルファは無事に番契約を結んだ。それから籍を入れ、義実家やその親族達から祝福され、幸せになれたと思っていた。
伴侶となったアルファは雅紀を大切にしてくれた。だが、早く子供を欲しがった。
その為、2度目のヒートで避妊薬を飲まず、雅紀は身ごもった。伴侶は当然喜んだ。更に雅紀を大切に、丁寧に扱うようになった。
だが、雅紀が妊娠4ヶ月目に差し掛かった頃、それは起きた。
本当に、ある日突然に、伴侶のアルファに運命の番が現れてしまったのだ。
都市伝説のような存在とも言われていた、"運命の番"。
その存在は激流が流れるように雅紀の生活の全てを変え、奪っていった。
瞬く間に番となった伴侶とその運命の番。雅紀は自分でも訳の分からないままに番を自然解除されてしまっていた。そのショックで、子供は流産した。
病院のベッドの上でそれを告げられた時、雅紀は罰が下されたのだと思った。
愛していた恋人と、アルファと番になる人生を天秤にかけた傲慢さに、運命の神がそっぽを向いてしまったのだと。
伴侶だったアルファの実家からかなりの慰謝料を貰い、雅紀はまた一人暮らしを始めた。
番だったアルファと暮らし始めてからも通い続けていた専門学校は卒業していたが、番になったらまずは子供をと言われていたから就職活動はしなかった。同級生達に遅ればせながらになるが、就職先を探さなければならないと思った。
だが、すぐには動けなかった。
番解除と流産による体と精神への負担は大きく、体力も落ちていた為、通院していた病院の医師に休養を勧められたからだった。
自宅療養を始めて半年経った頃、ヒートが訪れた。体調が戻りつつあるのかと思い、ひとまず安堵した。だが、それはものの1日で終わってしまった。有り得ない事態に嫌な予感を感じて病院に駆け込んだ。
検査の結果、雅紀は不妊になっていた。流産した時に、医師に『もしかしたら…』と言われた事が現実になってしまったのだ。雅紀はもう笑うしかなかった。
これが自分が選んだ道の顛末なのだと思うと、虚しさだけが胸に広がった。
こんな結末の為に、自分は斗真の愛を裏切り、手放してしまったのか。
馬鹿だ。
馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。
……愚かだ。
会いたくてたまらなくなった。あの優しい、陽だまりのように穏やかな笑顔に。
そんな資格などありはしないのに。
1年遅れで就職活動を始めた雅紀は、専門学校時代の先輩が就職した先のサロンに紹介され、シャンプー係からの仕事を始めた。
そこで何年か勤務して、客の髪を切らせて貰えるようになった頃、郊外に新たな系列店を出す話が持ち上がった。
雅紀はそこのオープニングスタッフに手を挙げた。
その頃勤務していた店にストーカーじみた顧客がいて、環境を変えたかったのが一番の理由だった。
そうして引越し、新たな店にも馴染んできた頃、雅紀は住み始めたマンションの近くで斗真にバッタリ会った。
青天の霹靂と言っても良い再会に、雅紀の心臓は大きく跳ねた。
スーツを着て、学生だったあの頃よりも大人の男になった斗真の姿にときめいた。雅紀に気づいて少し困ったように微笑まれた時、懐かしさと嬉しさと愛しさで、涙が出そうになった。
やっぱり好きだ。
あの時アルファを選んだ筈なのに、心は斗真を求め続けていたのだと、認めるしかなかった。
だがその時既に斗真には、雅紀の知らないアルファの匂いが付けられていたのだ。
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