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16 松永 美樹 1
しおりを挟む週末、金曜。
その夜、雨宮 聡の番である美樹が帰宅したのは深夜零時を過ぎてからだった。
だから正確には、明けて土曜と言う事になる。
平日はともかく、週末は殆ど気晴らしに飲みに行くので、こんなものだ。
下手をすれば、朝帰りになる事だってある。
番持ちだから流石に浮気は出来ないが、出来るものなら以前のように遊びたい、とむしゃくしゃする。
こんな状況になったのは自分を番にした雨宮のせいだ、と思っているので 極力顔を見たくなくてわざと在宅時間を減らしている。
美樹の中には自業自得という言葉は存在しないので、自分に都合の悪い事はほぼ自分以外の誰かのせいだ。
新婚とは名ばかりで、2人の生活はすれ違いだった。
幼い頃からの惰性とほんの少しの気紛れで、弟の恋人だった雨宮を誘惑した事を、美樹はずっと後悔していた。
後悔していると言っても、雨宮を樹生から奪った事を悪いと思っている訳ではなく、雨宮が思っていた以上にポンコツだったから。美樹が最初に誘った時の、運命を感じた、と言うセリフを真に受けていたらしいのだ。
樹生には徐々に匂わせで気づかせようと思っていたのに、未だ早いタイミングで現場を見られて、予定が狂った。
それだけならまだしも、動揺した雨宮が出した運命という言葉に、樹生にダメージを与えたくて同調したのも、良くなかった。
何時ものように悲しげに俯くか、諦め顔で去って自室に戻って泣くだろうと楽しみにしていたのに、まさかの祝福。
番になる約束をしていたという雨宮も、あっさり譲られて、美樹は内心戸惑った。
しかも、"運命"という言葉が悪かった。
外出して知人友人に会う度に祝福され、運命の番なんて本当にあるんだ、凄いね、と言われる。
最初は不味い事になったと思っていた。何処かで否定するか、やんわり逃げなければと考えてもいた。
だが、"運命の番"の当事者と言われる事は、美樹の肥大しきった承認欲求を擽った。
特別なΩ、他とは違う特別な番。そう言われているようで。
それに一部の関係者達には、雨宮が弟の樹生の恋人だった事も知られていた為、それを略奪した事に対する正当性も必要だった。
それでも未だ、こんなところで雨宮程度のαで妥協したくないという気持ちもあったが、時を同じくして 以前から狙っていたゼミの同期の氷室に、雨宮との事を持ち出され はっきりとフラれた。
「弟さんの恋人をね…。」
そう言いながら美樹を見た氷室の怜悧な瞳には、何の温度も感じられず、代わりに侮蔑が浮かんでいた。
流石の美樹も顔から火が出そうに恥ずかしくなり、その場を去った。そして、大学を卒業する迄 美樹は氷室に近づく事も出来なくなった。
雨宮とは、雨宮の高校卒業を待ち、番契約を結んだ。それと同時に雨宮の家の所有する物件であるマンションに移り住み、生活を始めた。
だから一応は新婚という事にはなる。
だが、美樹の心は略奪の熱からも既に冷めていた。
本当は雨宮と正式に番になる前に、何とかもっと条件の良いαに乗り換えたかった。
けれど、幼い頃からなまじ多少有名だったばかりに、今の状況の美樹に誘いをかけるαはロクな男がいなかった。
決まった相手がいる人間だと知っていてちょっかいをかける人間だ。美樹と同類で、奪う過程だけが楽しいという輩。
自分の事は棚に上げ、番の候補になんかならないと見下した。
結局、氷室以上のαも、運命なんてケチのついた美樹を奪い去ろうなんて考える奇特なαも現れず、美樹と雨宮は番になった。
誰よりも優れて生まれた筈の自分が、街の不動産会社の息子レベルの男の番におさまらなければならないなんて、と美樹は絶望した。
人生、詰んだ。本気でそう思った。
だが、意に染まない番関係にでも、そこそこのメリットはある。
実家にいた時よりは経済的にはランクアップしたし、雨宮の義両親には受けが良く、外面さえ良く振舞っていれば可愛がってくれるし、何かと便宜も図ってくれる。
面倒な事もあるにはあるが、待遇は悪くない。
何より、番がいる事によって、発情臭は互いにしか作用しなくなる。抑制剤無しで生活出来るのは快適だ。
ヒートの時だけ利用する同居人と思えば良いか、と 美樹は妥協したのだ。
正直、樹生の恋人だったから誘っただけで、雨宮は美樹の好みでは無かったのだ。
雨宮だってルックスはなかなかだが、美樹の理想はもっとずっと高い。
美樹の理想は、氷室。
大学の入学式で氷室の姿に目を奪われてから、氷室 蓮巳は美樹の理想そのものになった。初めての一目惚れだ。
その上、氷室は大企業の御曹司で、顔立ちは男らしい美貌なのに物腰は穏やか。
誰にでも分け隔てない所が育ちの良さを物語っている。
とうとう出会えたのだ、と美樹の胸は高鳴った。
氷室こそ、全てを兼ね備えた 誰もが認めるαの中のαだ。
なのに、彼の隣はガラ空き。
婚約者がいるとも番がいるとも聞かない。
恋人程度なら、奪ってしまえば良いのだからいる内に入らない。
美しい氷室の隣には、美しい自分こそが相応しいだろうと、美樹はアタックを開始した。
けれど、氷室が美樹に興味を示す事は無かった。
それでも男関係を身綺麗にしていれば、未だ氷室からの好感度は悪くなかったのだろうが、口説かれるのが自分の魅力の証明だと考えている美樹がそれをやめる事は無かった。
美樹は、αはαの匂いは嗅ぎ取れないと思っていた。
まさか氷室が、毎回違う匂いを付けて歩いている美樹に対して、身持ちの悪いΩなのだと認識しているなんて思いもしない。
袖にされる理由がわからず、プライドの高い美樹は躍起になって氷室に接触した事もあった。
それでも流され続けて、そして件の雨宮との騒動だ。
どうせ雨宮の事が無くても可能性などなかったのだが、氷室が雨宮の事を理由にして自分を完全に遠ざけた事で、美樹は雨宮を疎んじているのだ。
完全なる勘違いと逆恨みなのだが、美樹という人間にはそういう正論は通じない。
そして、雨宮を避ける為に美樹は外で時間を潰して帰って来る。
性欲の強い雨宮を、ヒート時以外は相手にしたくない。
そういう気持ちもあった。
以前はめげずに誘ってきていた雨宮も、最近では諦めたのか大人しくなり、帰っても自室から出て来ない事もあるが、たまにリビングで鉢合わせると物欲しそうな顔をされる。それが嫌だった。
以前は狙ったように誘いをかけてきていた週末も、美樹が夜半過ぎに帰れば、まず顔を会わせる事は無い。
それに気づいてからは、余計に遅く帰宅するようになった。
ところが、今夜は様子が違っていた。
「おかえり。」
美樹が帰宅すると、廊下の奥のリビングのドアが開いて雨宮が顔を出して出迎えたのだ。
久々に見る雨宮は、目の下が黒ずんでだいぶ窶れているように見えて、美樹は内心嗤った。
愛する美樹に相手にされない事で、そんなに憔悴するなんて、と。
高慢な美樹は、雨宮の気持ちが自分にあると思っている。
雨宮の様子を見て、たまには抱かせてやっても良いか、とも思った。
以前は男が切れた事がなかった自分だ。番以外に拒否反応が出るおかげで、浮気で発散も出来やしないのだから。
それに、ここ迄思い詰められると、少しは可愛くも思えてくる。
ところが、雨宮は少しの笑みも見せず、美樹の機嫌を取ろうともせず、只、一言だけ言ったのだ。
「番関係を解消したい。」
と。
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