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第4章
しおりを挟む「え? メシ、家で食うの?」
バスケの練習が終わる八時頃にはもう腹ペコだ。部員のみんなでいつも家で飯を食う前に、帰り道にどこかに寄って軽く食べる。それがいつもの日課だった。だが今回は違う。
「ああ、ごめん。中間、点数アップさせたいんだわ」
先生との賭けにどんなことをしても勝たないと、同じ土俵に立つことができない。そう。これは勝負だ。絶対に負けられない。巧が耳元でこっそりと呟いた。
「遼一、女、できた?」
「えっ」
ある意味当たっているが……女ではない。俺は手を振った。
「できてない。俺、古文弱いじゃん? 少し勉強しとかないと」
みんなが先に歩いているのを見ながら、巧をそちらに行くよう手で促した。
「おまえ、勉強しなくてもバスケだけで大学行けるじゃん。いくつかもう声掛かってるんだし」
それは事実だった。俺は大学でもバスケを続けていく気でいる。そうなるとスポーツ特待生として大学に入ることになる。確かに勉強よりもバスケに集中して、いい成績を残す方が最善なのだが、今は違う道を考え始めていた。
「いやでもさ、スポーツ特待生って結果出せないとダメじゃん」
「自信ないの?」
「違う。不測の事態ってヤツ。俺のポジション、ケガ多いじゃん」
「ああ、まあね……。おまえセンターもできるからな」
俺のポジションはパワーフォワードだがゴール下とあってリバウンドする相手側の選手に全身で圧し掛かられることもままある。コートの端から端までダイナミックなプレイができるが、逆に故障もしやすい場所だ。
先生と出会ったことも大きい。ずっと一緒にいたいからケガをして心配させたり迷惑をかけたりしたくない。そう考えた時、スポーツ推薦よりも一般の受験を考え始めたのだ。先生の言う通り、俺は相当な自信家だと思う。
「確かに。故障したらそこで終わりだしな」
その言葉に頷くと急いで帰ることにした。
「だから一応勉強もしとかないと」
「遼一が保険掛けるなんて」
思わず答えに詰まる。そう。俺がそんな生き方を今までしてこなかったのを、巧はよく知っている。
「わかった。頑張れよ」
「ああ」
巧にはいずれ本当のことを話した方がいいのかな、と思いつつ、これは自分一人だけの問題ではないことを思い出す。先生に迷惑は掛けられない。俺は一人でひとつずつ先生との問題をクリアしていかなければならないのだ。
気持ちは落ち着いている。今はやることをやるだけ。俺はジョギングを兼ねて、家まで走って帰った。
それから試験の前日まで授業、バスケ、勉強を繰り返す日々が続いた。部活の後は疲れていて、家では宿題以外あまり勉強をしていなかった俺の変貌ぶりを見て、母は驚いていたが応援してくれていた。夜食を作ってくれたりもした。だが、これが先生を恋人にするためだとは思ってもいない母の期待の目に、少しの罪悪感があった。翌日に疲れを持ちこさないよう、なるべく零時までには就寝することにした。俺は古文が苦手だが、勉強のほとんどは数学だった。過去の試験の傾向からして先生は「ここが出る」などのサービスは一切しない。とにかく授業をしっかり受けることが先決。そして最後にそれらの総まとめに応用問題を出す。ここで引っ掛かるヤツが多い。ちょっと捻った問題が多いのだ。例に漏れず、俺もそのラストで点を落とす一人だ。赤点を出すヤツも多い。その後補習、再テストをして、まぁそこで何とか救われるという仕組みだ。容赦のないそのアップダウンで、みんなどの教科より数学のテストを恐れていた。
ある日の午後。窓際に座っている俺は秋の温かな日差しにやられて、数学の時間中にうとうとしてしまった。まったく電話をしていない状態で授業を受けるとその声が優しくて、つい聞き入ってしまう。「順序を踏め」と言われて、テストが終わって満点だとわかるまで連絡は禁止、と自分に課していた。しっかり授業を受けようと凝視していたが、彼は絶対にこちらを見ない。そんな状態だったのでその日つい居眠りをしてしまった。数字や公式とはどうしてこんなにも睡眠効果があるのだろう。シャーペンを落としそうになっては起き、を繰り返していた。少しずつ声が近付いてくる。先生の声はうっとりするくらい穏やかで、俺は余計眠くなっていった。
「そこでこの公式を使います。それでは、式に数字を当てはめてください」
その時だった。なにやら硬いものが手に触れた。ふと瞼を開くと先生の形のよい小綺麗な爪が俺の人差し指から親指をなぞっていった。その艶めかしい動きに俺は一気に顔が真っ赤になった。見上げた彼は小さく「起きなさい」と言って、その場を去って行った。何事もなかったかのように澄ました顔で教壇に向かっていき、机に教科書を置く。俺はじっと彼を見つめたが、こちらを見ることはついぞなかった。
俺は急いで黒板に書いてあることをノートに書き取る。落としてやる。絶対に落としてやる。文句を言わせずその線の細い身体をがむしゃらに抱いてやる。膨れ上がる強烈な欲望に気付いているのかいないのか、先生は涼しい顔で窓の外を眺めていた。
「怖い怖い、どうしたの、遼一」
急に覗き込まれて、びっくりして肩を揺らす。
「何だ、巧か」
「何だ、はないっしょ」
目の前の席に腰を掛けて、巧はにやにやと笑った。
「……何だよ」
「おまえさ、古文の渡辺センセーを落とすつもり?」
「はあ?」
訳が分からず、首を捻った。
「何で? 俺が?」
「そうそう」
古文の渡辺先生は、二十代中盤だろう。かなりくびれのある体型で、男子生徒が彼女を見る目はいつも熱い。美人というわけではないが今風の容姿にあの豊満な身体。確かに狙うヤツは多いに決まっている。だが巧は大きな勘違いをしていた。落とすは落とすにしても相手が違う。それを言うつもりはなかったが。
「おまえ古文苦手じゃん。今回頑張ってるのってそれじゃないかってバスケ部でのもっぱらの噂ですよ」
「やめてくれよ」
そりゃ渡辺先生はいい女だ。そのスタイルにも興味はある。だが、今の俺の頭の中は野村先生のことでいっぱいだ。
「え、違うんだ。じゃ何でかねー?」
「理由はこの間言っただろう?」
「まぁ、そうなんだけどさ。あ、野村先生、女子に囲まれてる。羨ましいねぇ」
巧の視線の先を見る。女子たちに囲まれて教科書を開いている先生がいた。数学のことなら何でも教えるという言葉にかこつけて彼と話したいだけなのだろう。頬杖をついてその端正な横顔を見る。穏やかに愛想を振り撒き、和やかに談笑している。何だか気にくわない。
「野村先生のことさぁ、女子どもは完全に狙ってるよなー」
「へぇ」
「あれだけ綺麗な顔してたらさ、ちょっと変な気になるよな」
「……変な気って?」
「ほら、男でもちょっとドキッとするというか……。何で俺を睨むのさ」
「あ、いや。そんなふうに見えるのかな、あの先生」
「あれはモテますよ。他の先生、あ、当然、女だよ? 狙ってるって噂だし」
「誰が」
「東田先生とか。いいよなぁ。抱きつきてぇ」
東田か。この学校一の美人と言われる保健医。野村先生狙いだったのか。でも今はとりあえず俺と約束をしている段階だ。落ち着け、と復唱する。しかし先生は静かにしていても目立つし、みんなに好かれる。何だか焦る。
さっきの爪先の感覚が甘く、指に残っている。先生がどんな結果を待ち望んでいるかまだよくわからないけど、さっき起こした、ということは脈があると思う。付き合う気がなければ寝せておいて満点を取らせなければいいのだから。それとも闘いはフェアに、ということだろうか。それはそれで何だか手助けされたようで気が引ける。
「俺の知る限りじゃ野村先生を落としたヤツはまだいねえな」
ぎくりとして巧を見る。多分学年一の情報持ち。彼が言うなら本当だろう。
「いや、番号とかメアドゲットしたっていう話聞いたことねぇし」
「……それマジ?」
「うん。いろんな女子が告ってるみたいだけど、いつも数学資料室から出てくる時は沈んだ顔してるしなぁ。かわいそう」
俺にだけ教えた、携帯の番号とメールアドレス。同じ生徒でも女子はダメだが、俺ならいいのか? 先生は俺のことが好きなのか? また都合のいいように解釈したくなる。
「ねぇねぇ教えろよー。遼一」
「いや、真面目に一般入試で行こうかって。言ったじゃん。この間」
「ほんとにそれで行くつもりなんだ。それでバスケの強豪大学は結構大変だと思うけど」
「まぁ。でもまだ一年あるし。頑張ってみようかなって」
「ふーん」
腕の中で緊張しているその姿、ハスキーな声音、小さな泣きボクロ。何だかいろんなことが頭の中でないまぜになり、巧の言葉に集中できなくなる。
生徒とは付き合えない、男はダメだ、と言ったくせに自分のしていることは何だ。きっと俺と付き合いたいんだ、とそう思わざるを得ない。思わせぶりなことをして、いつも俺を惑わせている。
絶対にテストで満点を取る。そして堂々ともう一度告白して、了承してもらう。これは約束だ。勝負なんだ。負けるわけにはいかないし、正直、今は負ける気がしなかった。向こう側で女子に囲まれて微笑んでいる先生を見ながら、やっぱり彼のことが好きなんだ、と再確認していた。
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