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第6章
しおりを挟む運命の日がやってきた。俺は朝から気もそぞろで他のテストの結果など覚えていないくらいだった。今この時、試合よりも胸の鼓動が激しくて止まらない状態だ。
「遼一くーん。なぁ?」
「あー早く先生来ないかな」
「はあ?」
巧は俺の目の前で手を振った。
「どうかした?」
「あ、いや、何でもない」
「何かすげー緊張してるようだけど、大丈夫?」
「うん。まぁ」
心ここにあらず、の俺の言葉に巧は首を捻った。
「数学ならおまえ得意分野じゃん。慌てることないし」
「あ、うん、そうなんだけど」
今は先生と付き合えるかどうかの勝負が掛かっている。満点でなくてはダメなのだ。
「おまえさ……」
「起立!」
野村先生がドアを開けて入ってきた。いつものクールな表情で、まったく判断できない。巧がいそいそと自分の机に戻っていった。先生から目が離せない。あまりにも堂々としていて、やっぱりダメだったのか? と気落ちする。どうせなら昨日むりやり奪ってしまえばよかった、などという乱暴な考えが浮かぶ。
「礼!」
ガタガタと席に座る音が重なる。手には大量のテスト用紙と教科書。俺は息を飲んだ。
「今日はテストを返します」
悲惨な声が辺りに響く。先生はふふっと小さく笑ってテスト用紙に触れた。
「はい。メモして。平均点は68点。赤点の生徒は今週の土曜の午後に補習して、その後救済措置を取ります」
みんな大笑いする。救済というか、土曜の午後に補習と再テストってどんな苦行だろう。先生はこちらを見ずにテストを配ろうとした。そして思いついたように付け加えた。
「二年始まって以来、私のテストで満点はありませんでしたが、今回、一人だけいます」
感嘆の声が広がる。もしかして、それは……。
先生が俺の方を真っ直ぐに見た。
「藤田遼一です。本当に頑張りました」
拍手が一斉に沸き起こった。テストを差し出され、俺は席を立った。やった。勝負に勝ったんだ。
「頑張ったね」
眩しい微笑みに何と返していいかわからず、ありがとうございます、とだけ言って受け取った。その後、先生は一人ずつにテストを返し始め、喜びや悲しみの絶叫をするヤツがいたりして、しばし教室の中は混乱した状態になった。
俺はテスト用紙のラストの問題の後に先生に見てもらえるよう、一言書いたのだ。何と返事があるだろうか。そもそも返事があるだろうか。
――旅行は箱根がいいと思います。
その下に先生の見慣れた文字が。
――君の好きなところに行こう。
俺は胸がいっぱいになって笑みが止まらなかった。今日は練習の前に数学資料室に突入だ。恋人として、キスももう当たり前のことになる。そんなひとつひとつのことがとても幸せに思えて、みんなにテストを配っている先生の顔を見つめていた。
「おーい、遼一、部活……」
「先行ってて!」
俺は鞄とスポーツバッグを持って数学資料室に走り始めた。近くなったら周りに人がいないか慎重に歩く。ドアに指を掛けて開くと先生が本棚に手を伸ばし、懸命に背伸びしているところだった。
「俺が取ります。これ?」
「あ、そう……」
本を取って渡し、ドアを締めに行くと先生はぎこちなく俺を見上げた。いつもの彼じゃない。それがかわいい。
「野村先生、俺と付き合ってください」
まずキスをしたいところだったがよく「順序を踏め」と言うから、俺は神妙に告白した。先生は困ったように眉を顰めて、それからふっと息を吐いた。
「君には負けたよ。試合もテストも、本当によくやった」
手が差し出される。意味がわからず、先生を見下ろす。
「これから、どうぞよろしく」
「先生……!」
その手を引き寄せて思い切り抱き締める。俺の中にすっぽりと収まった先生は、どうしていいかわからないようで、息を詰めて静かにしていた。
「先生、キスしていい? ……いや、その前に……」
俺は胸に顔を寄せている先生を覗き込んだ。
「今度から裕貴、って呼んでいい?」
「……二人の時は」
「俺のことは遼一で」
「……藤田じゃ、ダメか?」
「それじゃ何も変わらないじゃん。……まぁ、どっちでもいいけど」
そのまま腕の中の先生の額や瞼、頬や唇にキスし続けた。彼は真っ赤になって顔を一生懸命上げている。
「裕貴……裕貴」
「……部活はどうした?」
急に水を差されて軽く睨む。先生は照れ隠しに必死だ。
「今から行く。今度旅行のこと、一緒に考えよう? それから……」
俺はぎゅっと細い腰を抑え付けた。
「浮気は絶対、禁止だからな」
「……そういうことはしないよ」
「そうだよね、ごめん。変なこと言って。裕貴、……キスして?」
先生は腕の中でもぞもぞと身動きしながら背伸びをして、頬に触れるだけのキスをした。
「それじゃない」
「……うん」
目を閉じた俺の唇にしっとりと吸い付くようなそれが触れる。そっと舌で舐めると背中がびくっと震えた。唇も舌も噛みたい。すべてを俺のものにしたい。早く、早く、と全身が言っている。それを察知したのか、先生は顔を離し、胸を叩いた。
「部活に行きなさい。早く」
「裕貴さん、……俺、裕貴さんのこと抱きたいんだけど」
先生は覚悟していたのか、驚くことなくすんなりと答える。
「恋人同士なら……」
「また順序ですかー?」
「そういうこと」
先生は人差し指の節を顎に当てて笑った。それがとても優しい表情で、俺は心から嬉しくなって、もう一度むりやりキスをする。
「行ってくるね。今夜、電話する」
「……わかった」
振り返ると先生の穏やかな笑みがそこにあって、俺は胸が熱くなるのを感じていた。
「裕貴さん? 俺」
「今日も部活、お疲れ様」
「裕貴さんこそ、学校お疲れ様」
二人で何だか気恥ずかしくなって照れ笑いをする。本当に恋人同士になったんだな、と思うと、何だかすべての景色が変わって見える。
「どうした? 藤田」
「いや……俺たち、マジで恋人同士になったんだって思ったら」
「そうだね。不思議な感じだね」
「裕貴さん、男もイケるんじゃん」
「生徒に男もイケます、なんて告白する教師は聞いたことがない」
「ホントにイケるんだ」
「……たまにね」
大人の付き合いってヤツか。何だかちょっと気にくわない。男の腕に抱かれている先生は容易に想像できて、俺はひどく嫉妬する。だが浮気はしないと約束してくれたし、二股するような人じゃない、と信じている。こうして先生の素顔がひとつひとつ俺のものになっていく。その優越感は例えようのないくらいの快感だった。
「あのさ、旅行なんだけど」
「気を付けなさい。テスト用紙は誰が見ているかわからない」
「普通テストは先生がしっかり管理してあるものだろう?」
「それはそうだけど……」
「箱根がいいと思うんだけど。近いし」
「私と裸の付き合いがしたいの?」
ほらまた。お預けを食らわせるくせに、よく煽ってくる。冗談のようでそれは冗談になっていない。もちろん一緒に温泉に入りたいし、夜は……したい。先生はよく順序と言うけれど、こういうことは勢いもあると思う。
「君の好きなところならどこでもいいけれど……。ご両親は泊まりに対してどう思っていらっしゃるの?」
「何か先生みたいだな」
「担任ではないが、数学を受け持っている。立派な教師と生徒だ」
「友達んち泊まるって言うけど」
「……嘘をつくのか?」
「じゃ先生と恋人になりました。先生と行きます。これでいいのか?」
先生は黙ってしまった。恋人同士と言っても、俺達には、なかなか超えられないものがいくつもある。俺は構わないが、彼はその立場として難しいものがあるだろう。わかっているから、うまく立ち回らないとやっていけない。
俺は机の上のカレンダーに手をやる。十月もほぼ終わり。連休と言えばすぐにくる文化の日の土曜と日曜の二連休しかない。気分を変えてそれを伝えるとしばらく考えた後、いいよ、と言った。
「でも秋の箱根って高いんだよね。今の十月から十一月に掛けて。びっくりした」
「金のことはいい。私が出すから」
「そうはいかないよ。その……恋人同士だし」
「気持ちはありがたいけど、生徒の出してくれる金っていうのはちょっとな。大人のプライドも汲んで。それに気晴らしがしたかったんだ。宿は私が決めておく」
「じゃ、お昼くらい出させてよ。ね?」
先生は少し嬉しそうに笑って言った。
「いいから。その代わりどこに行くのか、詳細を決めてくれ。私はそういうことに疎い」
「俺が決めちゃっていいの? デートプラン」
「いいよ。楽しみにしているからね」
電話を切った後、最高潮にいい気分だった。実はもうすでに買ってきてある箱根の本を取り出してベッドへ寝転ぶ。どこに行こうか。考え始めると楽しくてしようがない。初めての彼女とのデートだってこんなにはしゃいだりしなかった。先生は俺にとって特別な存在だ。彼にとってもそうであってほしい、と思うのは早計だろうか。これから先、長い。ゆっくり大事な時間を紡いでいければいい。そうして卒業したら一緒に住みたい。そこまで考えて、俺は気が早いな、と苦笑する。思ったより早く付き合いを始めてくれたし、そんなに俺のことを悪くは思ってはいないはず。ずっと一緒にいたい、またキスしたい。先生の事だけを考えて、俺は秋の夜長を過ごしていた。
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