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act18.魔女の挨拶

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アンドレイとの平和で楽しいピクニックを終えた翌日。
日も昇らないうちからプーシュカはばたばたと外出の準備をしていた。

キーロフが伯爵位を継承し領地アブルィーフに移り住んで以来、彼の邸宅を訪ねるのは初めてのことではない。
寧ろ、実家…エフスターフィイ家よりもずっと…勝手を知りつくす程度には通っている。

だからといって気安く立ち入る事は憚られるし、同じオルラン家の臣下でありつつも上位に位置するキーロフに…公的な場所で失礼な態度は取れないので、入念に気を使う必要があるのだ。


「まあ、服装指定してくれるのは助けるけどね」

贈られてきた訪問着に着替え、デュシーカやエフスターフィイ家の使用人に髪を結って貰う。
貴族令嬢が毎度同じドレスでいるというのは、家の沽券に関わることだ。
だが、公式訪問外ですらちょくちょく会っているキーロフ相手に、前回どのドレスを着用したかなど記憶の彼方に消えている。

「素敵。…とっても良くお似合いですよ」

立ち上がり、ライラック色のドレスがふわりと揺れる。
銀の髪が軽やかに光り、柔らかく清楚にプーシュカの美貌を引き立てる。
使用人たちも一斉にわあ、と顔を輝かせて褒めるのだが、プーシュカは複雑そうな顔でうーん、と唸った。
「…どこか障りがありましたか?」
何度も裾や胸元を確かめているプーシュカに対しデュシーカが首をかしげると、いいえ、とプーシュカが嘆息する。
「わかってる。わかってるのよ…オルラン家御用達の…いつもの服飾店で作ってもらってるのは。ディアーナ様のドレスが新調されるときに私も一緒に作って頂いているから。帝都にいる間も社交界用に新調したし、多分その時一緒に作らせたんだろうっていうのも、わかるのよ」
はあ、とデュシーカがとりあえず相槌を打つ。
「…でも、私の好みはともかく体形に合わせたデザインでぴったり揃えてくるところが正直ちょっと気持ち悪い」
プーシュカのその言葉に…思わずデュシーカをはじめ、使用人たちが噴き出した。

「それだけキーロフ様がプーシュカ様を見守っていらっしゃる…という事でしょう」
「確かに殆ど兄妹みたいなものだけど、…未婚女性の体形まで把握してるって結構な恐怖じゃない?」

実際の採寸に合わせたデザインの細かな調整は、熟達した縫製師による技量であることは間違いないのだが、それを差し引いても、『あいついつもこういう目で見てたのか』という疑念が拭えない。

「…こんな事にわざわざお金を使う位なら、もう少し自分の身なりに気を使えばいいのに。見た目だって悪くないんだから」

そう嘆息するプーシュカに、使用人たちもくすくすと笑う。

キーロフの外見は決して悪くない。
あの底意地の悪い、爬虫類を思わせる笑顔を常に浮かべさえしなければ、凛として涼し気な顔立ちだ。
常に黒基調で重々しい外套を羽織り、見るからに怪しい不審者然とした恰好さえしなければ、すらりと伸びた体躯も相まって中々に見栄えもする筈である。
性格と趣味嗜好と言動が原因なのだ。全てが致命的だった。

「ですが、他の貴族様のようにきっちりと整え、明るく華美な衣装を纏われるキーロフ様というのは想像がつきませんねえ」

デュシーカがくすくすと笑うと、プーシュカも頭でその想像を描いてみる。
爽やかな笑顔を浮かべる貴族…を装った詐欺師の姿がそこにいた。

「…それはそれで気味悪いわね、確かに」



準備を整えて馬車に乗る前、眠い目を擦ったアンドレイがディアーナに抱えられてプーシュカを見送る。

アンドレイの「おひめさまみたい」という一言に気分を持ち直したプーシュカは、軽やかな足取りで馬車に乗り館を後にした。




キーロフの所領地アブルィーフは、中央オルラン領から東…ピーク領からだと南東側にある。
オルラン領の中でもさほど重要視されている土地ではないためか、田舎度数的にはピーク領と大差はない。
距離はオルラン家本邸からさほど離れていないが、道路開発が進んでいない為、ピーク領からだと本邸へ向かう道を経由する必要がある。
その為、途中に本邸へ挨拶に伺う事も考慮した結果―――明け方の出発となったのだ。



「帰郷と言いながらもする事が多いわねえ」

プーシュカが独り言を呟く。
それが自分の所為であることは理解しているため、愚痴という訳ではない。
本来ならもっとのんびりしても良いのだが、どうにも動いていないと気持ちが落ち着かないせいかあれこれ自分で用事を作ってしまうのが原因だ。

「そういうところもキーロフの影響かしらね。暫くユーリーと一緒にいようかしら」
「ユーリー様は平時殆ど訓練か、のんびりされるかですものね」
「元々気質がのんびりしているからね。騎士じゃなければ畑を耕すか、ゴルディみたいな木こりの方が向いてると思うわ」
「そうですか?…ユーリー様程戦場が似合う方もいらっしゃらないと思いますけど」
デュシーカの言葉に、プーシュカが目を丸くする。

「…もしかしてユーリーって、そこそこ強い方なの?」

デュシーカも、プーシュカの言葉に目を丸くした。







朝日が昇り、瑞々しい空気が風とともに吹き抜ける。

オルラン領の中心地であり、最も栄えている街…中央オルラン。
堅牢な要塞と城が一体化しており、その要塞の中にオルラン市民が暮らしている。
オルラン領で最も賑やかで、様々な物資が集まる主要都市だ。

大通りをまっすぐ抜ければ、一際目立つ城塞が都市を見下ろすように築かれている。
攻めるに難く、守りに易いオルラン城―――つまるところ、オルラン家本邸である。

質実剛健といった威圧感溢れる城は、皇帝の座する帝城のような華麗な装飾は全くない。
無骨としか言いようがないその城を、プーシュカは気に入っていた。


市民がエフスターフィイ家の馬車を見つけると、にこやかに礼をしたり手を振ったりする。
大通りを通るたびに見かける顔もちらほらある。
誰もが日々を一生懸命楽しんでいる様な明るさの中にも緊張感があり、穏やかながらもピッと背筋が伸びるような光景は見ていて気持ちがいい。

「ああ、帰ってきたって感じがする。…まだ帰らないんだけど」

今は挨拶のための立ち寄りだ。
臣下が主君を無視して通り過ぎるなど言語道断。

しかも今回は許可を貰っているとはいえ、オルラン家に立ち寄らずにピーク領へ帰郷している。
再び通り過ぎようものなら、不敬罪もしくは反意ありと見なされても文句は言えない。

既にキーロフ領訪問と、途中立ち寄り挨拶に伺う旨を早馬で伝えて貰っているため、問題はないはずだ。

がらがらと変わらない景色を眺めながら、城門を通り過ぎていく。
見覚えのある衛士…オルラン騎士隊の面々が馬車に向かって敬礼していった。





「お帰りなさぁい!プーシャ!」

馬車を降りてメインホールに行くと、どこか間延びした…気だるげな声が響く。
どちらからだろうと左右を見回すと、後ろから突然柔らかな感触に包まれた。

ふわりと甘い花の香りが漂い、思わずぼんやりとしてしまう。

「わぷ…ふぁ…た、ただいま戻りました、…ディアーナ様」

誰もがまず真っ先に視線が向かうだろう豊満な胸を惜しげもなく晒し、殆ど布とも呼べるほど肢体を強調する妖艶な服装。
どこか爬虫類を思わせる切れ長の青い目が涼し気な美女。
癖のある黒髪を長く伸ばし、後ろで纏めている貴婦人がプーシュカを抱きしめていた。

誰あろう、英雄ラザレフの妻にしてプーシュカの主、悪名高きオルラン兄弟の実の母…ディアーナその人である。


「んもう、遅いわ!ずっと待っていたのよぉ!」

ぶう、と不満そうに口を膨らませ、無邪気に…けれど色気たっぷりに告げる。

「んー…肌荒れはないわね、良かったぁ。汚い帝都の空気でプーシャの白い肌が汚れてしまわないか心配だったんだから。大丈夫、いつも通り綺麗」

頬を撫でられ、ゆっくり離されると同時にプーシュカも臣下の礼を取った。

「帰郷のご挨拶をせず、申し訳ございませんでした。このとおり、無事帰参いたしました」
「ええ、あの人から聞いているわぁ。色々あって大変だったわね」
「はい…ディアーナ様はお変わりないようで安心いたしました。本日もとてもお綺麗でいらっしゃいます」
「あらそう?うふふ、流石プーシャは解ってるわ!どこぞの朴念仁とはほーんと大違いよねぇ」
朴念仁というのは、ユーリーを指しての事だ。
笑顔を浮かべながらもやや拗ねた口調なのは、母親とはいえ女性を褒める事に慣れていないユーリーに対する不満の表れだろう。
こういう時はラザレフが機嫌を取るのがお決まりとなっている。
しかし、普段は表になかなか出てこない夫人が出てきて、城の主の姿が見えないというのも妙だった。
「…えっと、ディアーナ様、…小父様は…?」
「あの人なら三日前くらいに西の方の査察に行ったわ。だから、挨拶しなくても大丈夫よぉ」

不満顔からにっこりと笑顔に変わり、頬に手を当てる。
んふぅ、と鼻を鳴らしてドレスを指さした。

「―――ところで、それ。新調したの?」
「ええ、キーロフから頂きました。…この後アブルィーフに向かうので」
そう答えると、ディアーナがふう、と溜息を吐く。
「やっぱり。だと思ったわぁ、あの子のセンスって、悪くはないのだけれどちょっと重たいのよねぇ」
「そうでしょうか…」

因みに、ポルタヴァ邸で着ていた…下品すぎない程度に体つきをこれでもかと強調させたドレスはディアーナが監修したものだ。
実を言えばあれはあれで恥ずかしかったのだが、主に着ろと言われてしまえば断れない。

「折角プーシャは見た目も体つきも素晴らしいんだから、もっと出さないと勿体ないわよぉ、ねぇ?」
目の前で豊満に揺れる乳房に、はは…と乾いた笑顔を浮かべる。

「や、止めてくださいよ母上…ぷ、プーシュカは痴女じゃないんだから…」

おどおどとした、柔らかな…聞き馴染みのある声が後方から響く。

「あ、ユーリーお早う」

振り返ると、汗をかいて上着を脱いだユーリーが入ってきた。
時間的に、早朝のランニング帰りだろう。
「お、お早う。…キーロフのとこに行くって?」
「そうなの。ユーリーも一緒に来ない?」

街道で分かれて以来会っていない筈なのに、幼少から余りに見慣れすぎた光景に『久しぶり』という言葉が出てこなかった。それはユーリーも同じだったようなので、気にせず会話を続ける。
ちらりとプーシュカのドレスを一瞥したあと、首を横に振った。

「…やめとく。き、機嫌損ねたらめ、面倒だし」
「そう?残念」
「まあ…お、俺もそれ、似合ってると思うよ。母上のは…その、め、目のやり場に困るから…」
顔を赤くして頭を掻くユーリーに、ディアーナがまたぷくーっ、と頬を膨らませる。
「まぁ、酷い。まるで私が痴女みたいじゃないの!」
「じ、実際痴女そのものじゃないですか。いい加減、と、年甲斐もない恰好と言動はひ、控えてくださいよ…みっともない…」
「聞いた?プーシャ!キーロフいいユーリーといい、ほんっと冷たいのよ!全く誰に似たのかしら…もうこんなのなんか放っておいて行きましょ!ゆっくりお茶でも飲んで、帝都の話を聞かせて?」
「いやいや…だから、プーシュカはき、キーロフの所に行くんですって」
プーシュカの肩を抱いて奥へと進もうとするディアーナの腕を、ユーリーが掴んで制止させる。

「ふんだ!帰ってきてるくせにプーシャがいないと顔も見せないようなろくでなしなんて放っておけばいいのよ!わざわざお尻痛めてまで行くことないわ!」
つーん、と顔を背けて拗ねるディアーナに、ユーリーはげんなりとした顔で溜息を吐く。
「…キーロフ、挨拶来てないの?」
「う、うん。…お、親父に会いたくないんだろ」
「ああ、成程…」
プーシュカが頷いて、微笑みながらディアーナに向き合う。
「ディアーナ様、私がキーロフを連れて参ります」

しかし、ディアーナは顔をそむけたまま拗ねた姿勢をそのまま続ける。
「嫌よ、無理やり来てもらったって嬉しくなんかないわ」
「一人じゃ恥ずかしいんですよ。本当はキーロフ、ディアーナ様が大好きなんですから。きっと、私を呼んだのもそういう事情だと思いますよ?」
「…そう?」
ディアーナがちらりとユーリーへ顔を向けると、ユーリーもうんうん、と頷く。

「そう…。…まあそうよね、年頃ですものね…一人でママに会いに来るなんて言ったら、領主としての立場もないものねぇ~!全く、いくつになっても素直じゃないんだからぁ!」
途端に花が咲いたように上機嫌になり、うふふと笑う。
「しょうがないわねぇ、プーシャ、迎えに行ってあげてくれる?」
「はい、ディアーナ様の為なら喜んで」
にこりと笑うプーシュカに、ディアーナが更に上機嫌になって笑う。
「ほーんと、プーシャは良い子ねぇ~~もぉ~大好きよ!」
そう言ってまたプーシュカの頭を胸の内に引き入れてギュウ、と抱きしめられた。

こういう時下手に暴れるとかえって窒息することを…幼少の頃から身をもって知っているプーシュカは、そのまま身動き一つせず無心でやり過ごす。



「…。…じゃあ、行ってくるわね」
機嫌が直り、部屋に戻っていくディアーナの背を見送り、ユーリーの方へ向き直る。
「い、行ってらっしゃい。…で、できれば、プーシュカも早くこっちに戻ってくれると助かる」
心底げんなりしたユーリーが乾いた笑いを浮かべていた。

歯止め役である父親不在プーシュカ不在という、暴走に拍車がかかる状態のディアーナを一手に引き受けるユーリーの心労は推して知るところだ。
プーシュカ自身はディアーナの奔放なところは楽しくて好きなのだが、血を分けた身内…それも息子からみれば心情的に相当きついものがあるだろう。
プーシュカも苦笑する。

「そうね、…その方が良さそうだわ」





中央オルランを出て、片道2時間半ほどでアブルィーフ領に到達する。

非常に高低差の多い山の麓にあるアブルィーフは、夏が近づくこの時期は殆ど霧に包まれておりまるで隠れ里の様な雰囲気がある。

オルラン領では東の方にあるというのに、未だ空がさほど照らさないのは大きな山々によって阻害されているからだろう。
物静かで時が止まったような世界は、森の妖精か何かが住んでいそうで幻想的だった。

コーン、コーン、と、木を叩く音が遠くから響く。

清涼な空気を窓から取り入れながら、馬車はゆるやかな坂道を登って行った。


程なくして、森の中に開けた山間の町が見えてくる。
石造りの歩道が整備されているのは町いっぱいまでで、それ以外は簡単に均された土の道が続いていた。

ダークウッド基調の木は高床式で建てられ、尖がった屋根も相まっておとぎ話の舞台に出てくるような可愛らしい作りになっている。

そのうち一番大きな建物がキーロフ邸だ。
後ろには湖が広がり、テラスの一部は湖の上へと突出している。

落ち着いた雰囲気のこの町は、プーシュカにとって非常に居心地がよくお気に入りの土地だ。




「ようこそお出で下さいました、プーシュカお嬢様。主ともども、お待ち申し上げておりました」

天辺が禿げた白髪の老人…キーロフの家令であるサイガ・イジェフスクが邸宅の門前で待ち構えていた。
流麗な動作で礼を取り、馬車から降りるプーシュカに手を差し伸べる。

「久しぶりね、サイガ。元気そうで何よりだわ」
プーシュカが笑顔を浮かべてその手を取り、ふわりと地に降り立つ。
「お嬢様も一段とお綺麗になられましたな。わたくし共はてっきり、ライラックの精が迷い込んだのかと見間違えてしまいましたよ」
老紳士然とした軽やかな世辞に、プーシュカがくすくすと笑う。

手紙にあったとおり、庭園の随所に植えられているライラックの木が柔らかく優しい薄紫色に染め上げていた。
「ふふ…いつ見ても本当に綺麗ね。香りを楽しめないのは残念だけど」
剪定され、均一に揃えられたライラックは成長を止めて香りを漂わすことがない。
甘く良い匂いがして好きなのだが、それだけが残念だった。

「キーロフが帰ってきて、大変でしょう?」
ほほ、とサイガが楽し気に笑う。
「とんでもない。冬の間、雪と一緒に積もらせた仕事を代わって頂きましたので、暇になってしまいましてな。こうして一番にお嬢様をお出迎えができることは嬉しい限りです」
庭園を歩きながら、サイガが楽しげに案内する。
「ああ、それで珍しく連絡がなかったのね」

領主の仕事が溜まりに溜まっていて、躍起になってこなしているという事らしい。

「とはいえ、流石のキーロフ様もお戻りになって以来ずっと瓶詰ですから、すこぶるご機嫌が宜しくございません。ですので是非とも、お嬢様のお力添えを」
「成程ね…テラスでお茶を頂きたいのだけど、良いかしら?」
プーシュカがそう尋ねると、サイガは嬉しそうに微笑んで頷いた。
「その様に仰ると思いましたので、既にご用意はできております」



湖面の上に突き出したテラスはひんやりとしているが、霧が立ち込めている事もあってとろりと溶けそうな、不思議と柔らかい空気に包まれている。
まだ朝ということで少々肌寒いが、陽の光が霧に包まれてぼんやりと明るい。
この景色がプーシュカは一番気に入っていて、キーロフ邸に滞在するときはよくこのテラスでお茶を飲むようにしていた。
ケープを貸してもらい、熱い紅茶をちびちびと飲みつつのんびりとした気持ちで寛ぐ。

一杯目が飲み終わる頃、大きな黒い影がのっそりと現れテーブルの対面側…湖面からは並行の椅子に座る。
寝不足というより、寝起きといったようだった。
ぼんやりと…普段の張り付いた笑顔が抜けており、頭を掻きながらプーシュカを見つめた後、微かに口元を綻ばせる。

「お早う。…はい気付けの一杯、どうぞ」
既に用意されていた空のカップに、プーシュカ手ずからポットの紅茶を淹れて差し出した。
「ん」
ふぁ、と欠伸をした後カップに口を付ける。

「…随分早かったな」
熱い紅茶で多少目が覚めたのか、もう一度欠伸をして柔らかな笑顔を浮かべた。
「寄ったんだろう?」
その言い振りから察するに、今時分も本邸に引き留められている頃だと踏んでいたのか、それで多少余裕があると見て寝ていたのだろう。
プーシュカが苦笑する。
「小父様、三日前から西の方に査察に出たんですって。だから、そんなにはかからなかったわ。…もう少し遅い方が良かった?」
「いや、嬉しいよ。…なるほど査察ね…だからか。…というか、よく母上あのひとに捕まらなかったね?」
「ユーリーが止めてくれたから」
「ふーん…」
満足そうに笑んで、机にもたれかかりプーシュカを見つめた。

「…どうしたの?」
「いや…想像通りよく似合ってるから。可愛い」
気の抜けた、ふにゃりとした顔で…普段とは別人のように、優しく笑う。
こういう笑顔を浮かべられるのなら、もっと評判も上がるのに…と言いたくなる気持ちを抑える。

「ああ、そういえばお礼がまだだったわね、ありがと。…まあ、ディアーナ様からは不評だったけどね」
「あの人は露出狂すぎるんだよ…娼婦じゃあるまいし、いい年こいて何やってんだか」
ふう、と溜息を吐いて肘をつき、頬に手を当てた。
「ん…ってことは今、ユーリーが1人であの人の相手してんのか。気の毒に」
「他人事だと思ってるみたいだから言うけど、貴方もこれから行くのよ?」

プーシュカの発言に、寝ぼけ眼が見開く。

「…嘘でしょ?」
「連れていくって言っちゃったもの」
にやりと笑うプーシュカに、頭を抱えてまた椅子にもたれ掛かった。
「嘘だろーーーあーーープーシャの馬鹿」
「最初からユーリーと一緒に挨拶に行けば済んだ話でしょ。一人だけ逃げようったってそうはいかないんだから」
「ピークと違ってここは中央通らなくて済むからその方が早いんだよ。仕事が溜まってるし」
「じゃあ行かない事にする?…多分小父様が戻ってきたら相当怒ると思うけど」
「んあーーーーーーー」
頭をぐしゃぐしゃと掻きまわして、頭を天井に向けながら唸る。
キーロフが真剣に悩む様子に多少の溜飲が下がり、プーシュカは意地悪な笑顔から息を吐いて真顔に戻った。

「ところで、いくつか話があるのよ」
「ン」
ちらりとプーシュカの顔を見て―――再び体を起こし、体をプーシュカの方に向けて座り直す。
「…早く来たのは、その件で?」
先程までの柔らかさが消え、…その黒い目には厳しくも真剣な光が宿っていた。
プーシュカは頷き、口を開く。
「一つは、イオアン大叔父様の事。もう一つは、小父様…いえ、貴方も含めたオルラン家の事。それからものすごーく素敵な男の子に会ったことと、最後にニコライ殿下の事。…どれからにする?」
「思ったより多かったけど一番聞き捨てならない所から行こう。…素敵な男の子って?」
おや、とプーシュカが目を丸くする。
それが一番だとは思っていなかったので、素直に答える。

「私に弟ができてたの」
「ああ、なんだ、弟…。…え?…知らされてなかったの?」
ほっと安堵した後、別の意味での驚きがキーロフとプーシュカ双方を襲った。
「えっ、知ってたの?」
「結構前からっていうか、何年か前…生まれた時かな?こっちにも知らせが来たよ。何だっけ名前…」
「アンドレイ」
「ああ、そうだ、アンドレイ。…えっ、今いくつ?」
「もうすぐ6つだって。…え?知ってたなら何で教えてくれなかったの?」
「いやだって普通にプーシャには真っ先に連絡行ってると思うでしょ。…あー、道理で今まで話題に上らなかったわけだ…6年も全く知らされなかったって凄いな」
腑に落ちたような顔で、キーロフがああー、と何度か首を頷かせる。
「そうか、6つか…」

対してやや納得がいかないプーシュカは、ううん、と首をひねっていた。
「ああ…まあ…考えてみればそうか、キーロフもオルラン家だし話は行くわよね…」
「全く話題に出なかったから俺だって今の今まで存在を忘れてたよ。…んで、どうなの?見た目は」
「普通よ。お父様とお母様によく似て、ものすっごく可愛いの」

プーシュカの答えに、キーロフはそうか、と頷く。―――それ以上は追及しなかった。


段々と霧が晴れて、晴れ間が差すと湖面がきらきらと光り輝いている。
寒さもだいぶ和らいでいき、紅茶も薄っすらと冷めつつある。

「んじゃ次…ニコライ」

紅茶を飲みつつ、キーロフが先を促す。

「殿下から贈り物が届いたの。アクセサリー一式だったんだけど…」
「えっ気持ち悪っ」
思わず顔を顰めたキーロフに、プーシュカは多少複雑そうな顔をしてキーロフを眺めた。
貴方も大概なんだけど…とは言わず、心に留めておく。

「…正直、手紙の方は頭がくらくらしたから、しっかり読んでないんだけど。なんで急に贈り物なんかしてきたのかしら…」
「断ったんじゃなかったのか?」
「ええ、はっきりとお断りしたんだけど…」
「じゃあ突っぱねて突き返す。返事も出さない、近づかない」
憮然としたキーロフに、プーシュカが首をひねる。

「でも、登城したときにばったり会ってしまったら…気まずくない?」
「今まで出くわした事なんてなかったろ?それに、変に気を持たせたらダメだ。いざとなったら急病ってことにして、本邸にこもってればいいよ」
「まあ、それはその通りね」
ふむ、と頷くプーシュカに、キーロフが不機嫌そうに口を尖らせた。
「念のため、その一式は俺に預けて。俺から突き返しておくから」
「ええ…?相手は仮にも皇子殿下よ、あんまり失礼なことは…」
「していい。以上。次」
「ええ…?」

困惑しながらも、それ以上刺激しない方がいいと判断したプーシュカが続ける。

「残るはイオアン大叔父様と、貴方達の話ね。」
「予想だけど、その二つはセット?」
「正解。…もしかして、やっぱり知ってたの?」

何を、とは言わずにいるプーシュカに対し、キーロフは黙って見つめる。

「…プーシャの言いたいことは大体想像がつくよ。だからまずは、イオアン…様の方を聞かせて」
「…わかった」
プーシュカが軽く息を吐いた後、…モヤークに行った事、そこでイオアンと会った事、そこで聞いた内容を伝える。



話し終えた後、ゆっくりと長い沈黙が続いた。

「…やっぱり、生きてたか」
ふう、と…複雑そうな顔でキーロフが呟いた。
「やっぱりって?」
「イオアンの事を話す親父が、どうもきな臭くて。間違いなく嘘をついている、というよりは…自分でそう納得しようとしてる節があった。墓参りに行く話も聞かないし、そもそも俺にまで隠す理由がない」

確かに、と、プーシュカが頷く。
オルラン家の直系――キーロフだけは、ラザレフから真実を聞かされていなければならない筈だ。
同時に、プーシュカの心にくしゃりと皺ができる。

「…やっぱり、貴方は知っていたのね。…いつから?」

―――いつから、銀の血の事を?

プーシュカの目が、キーロフを捉える。

「…最初からだよ。プーシュカが来た日、…詳しい話は成人してからだけど…プーシュカが俺の、本当の主君だと、…そう親父から言われた」

キーロフもまた、プーシュカの目を捉えていた。

「嘘。…だって、私が最初にオルランへ来たのは4歳の頃よ。貴方はまだあの時、―――7歳だったでしょう?」

今のアンドレイより、一つ年を重ねた程度。
そんな幼い頃から、…キーロフはオルラン家の―――エフスターフィイの秘密を背負わされていた。

「親父が当時の俺に伝えても大丈夫だと判断したんだ。…実際、今の今まで隠して通せてたわけだし」

そう言って、静かに紅茶を啜る。
その姿はいつもと変わらず平然としていて…そして、

―――ひどく…違う人間のように思えた。


「じゃあ…、貴方が今までやってきた、魔女の眷属だとか、騎士だとかって遊びは、」
「遊び?」

真っ直ぐに…どこまでも真剣な表情でプーシュカを見据え、…張り付いたような笑顔を浮かべる。

「…さあね、遊びに見えてたんなら良かったよ」
「はぐらかさないで!」

思わず手を机にばしりと叩き、立ち上がる。

「…じゃあ、…今までずっと、私の事を大事だって、…大切にしてくれるのも…、全部、そういう役目だから?」

ずきり、と、心にヒビが入っていく。
喉が渇き、

「―――全部、『銀の血』だから?」


「…」

プーシュカの問いに、キーロフは目を瞑る。
やや沈黙した後、ゆっくりと溜息を吐いて。

「…まさか、そんな訳ないだろう?」

その日一番の―――プーシュカにとって一番見たくない、意地の悪い張り付いた笑顔を浮かべて見せた。
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