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黒の研究

黒の研究

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「さて、そろそろ来る頃かな?」

 燕尾服にも似たモダンな、というよりは瀟洒な黒を基調とした、ヒラヒラとしていながらも動きやすそうなドレスに身を包んだ寺城が、ゆっくりと長い桜のパイプをふかしながら呟いた。

 部屋の中には、俺と寺城、そして瀬葉。他にも隣の部屋と外に二人づつ、一階にも一人警官が隠れ配置されている。

 昨日俺は寺城に二つの所へ連絡をとるよう指示された。

 一箇所は警察、もう一箇所はホシの勤めている円タク会社。

 彼女はたったそれだけで全ての準備を終えてしまった。

 俺は彼女の観察力、記憶力、推察力に驚愕した。

 初めから全て承知であるかのようなそれに対し俺は、ある種の羨望のような物を抱くと同時に、それが人の領域を越えた超人的な何かではないかと恐れすら感じていた。

 しかし、真に恐ろしいのは、僅かな言動で己の思い通りに人を操る、いや、操る必要すらなく、自然とそう人が動いてしまう認識外の何かだ。

 彼女の観察力、記憶力、洞察力は、最小限の力で最上級の罠を作り出す。

 獲物は彼女の思い描いたとおりに踊り、彼女の悪魔の如き頭脳が創りあげた罠の中に自ら飛び込んでいくのだ。

 この小さく、美しく、可憐で恐ろしい女性は、その悪辣なる巣で焦る事もなく、凶悪な毒牙を磨きながら、獲物がかかる時を悠々とただ待っていた。

「来ました円タク……ホシです」

 エンジンの音が聞こえ、カーテンの隙間から外を覗いていた瀬葉が、ホシ、浮村の姿を確認すると、寺城以外の人物は緊張の糸が張り詰めた。

 階下からノッカーを叩く音が聞こえる。

 か弱い女性に危険な目にあわせる事は不本意であり、鳩村夫人には事情を説明し協力を仰ぐと「またか」と、大層冷めた顔で承諾されている。

 俺は再度ドアノッカーが叩かれ夫人の手をわずらせない為にも急いで階段を駆け下りた。

 下に着き、俺は一度ゆっくり深呼吸をし扉に手をかける。

「どうもぉ、帝都タクシぃでずぅ。寺城様はこちらでよろしいでしょうがぁ?」

 年齢は四〇歳半ば位だろうか、あの少年達の調べどおり、そして寺城の推理どおりの小男が、独特のなまりで挨拶をし軽く頭を下げた。

 俺は不自然にならないよう、慣れた作り笑顔を浮かべた。

「ええ、こちらであってますよ。実は荷が沢山ありましてね、大変申し訳ないのですが、少しでいいので上から運ぶのを手伝ってもらえませんか?」

 浮村は少し顔を歪めた。

「申し訳ねぇがぁ、オラ足があんま良ぐねぇはんで、重いもんはちょっと……」

 一瞬怪しまれたかと思ったが、男の目は怪訝そうというより、気分を害したようなそんな色が浮かんでいる。

 どうやら足の不自由さに劣等感を感じ、もしかしたら何か嫌な思い出でもあるのかもしれない。

「いえ、重いものはあまりないんですが、寺城さんは女性でしてね。服等とにかく数が多いんですよ。軽い物だけでいいので運んでいただけたら手間賃も出しますよ」

 事前に寺城から言い含められていたように言うと、男は納得し、また僅かに口元を緩めた。

「まぁ、軽いもんくらいなら大丈夫ではんで」

「ありがとうございます。階段は急ですので気をつけて」

 まんまと寺城の罠に嵌った男を二階へと誘導し、先に部屋に入るように促し、続いて俺も中へと入る。

 そして、気付かれ無い様に男と扉との間に立った。

「こんれは……美人さんばかりで羨ましい生活だぁな」

 男はあっけにとられた後、命知らずにも寺城と瀬葉を嘗め回すように眺め、約一名の額に青筋が浮かぶ。

 どうやら部屋の惨状と寺城達に気を取られ俺の動きには全く気が向いていないようだ。

「おっと、そんでオラは何を運べば良いだ?そごのお嬢さ二人だったらオラ喜んで一人で運ぶだ」

 男はお世辞にも整ったとは言えない顔の鼻の下をだらしなく伸ばし、にやにやと二人を視姦し、瀬葉は今にも殴り飛ばさんばかりに指先まで真っ白になるまで拳を握りこんでいる。

「ああ、それなんですがね――」

 予定ではある程度話しをして、警戒が緩んだ時に切り出すように言われていたが、これは既に時だ。

 何より今言わねば瀬葉が先に殴り倒してしまう。

 俺はポケットよりある物を取り出して見せた。

「これさっき拾ったんですが、運転手さんのですか?」

「……へ?…………っ!?」

 緩んでいた男の顔が驚きに固まった。

 この感情は驚愕、混乱、疑問、そして僅かな喜びと恐怖が一緒くたに混ぜ合わせたコクテールのようなもの。

 男は目を白黒させ震えながらもなんとか声を絞り出した。

「そ、それを何処で?」

 男は自分の声でその慌てぶりに気付いたのか、何とか平静を保つように懐から煙草を取り出そうとするも箱ごと取り落とし、結局煙草を吸う事無く尻のポケットにそれを戻した。

「ですからさっき(・・・)拾ったんですよ」

 善悪の吹き飛んだ異常者でもない限り、大抵の人間は嘘をつく際、その後ろ暗さから、表情や仕草、言動の不一致等いくらかのボロを出すものである。

 もちろん、相手が騙される可能性を考慮して行動している人間でもない限り、小さな嘘がそう簡単にバレる事もないだろうが、相手は推定殺人犯である。

 用心に越した事は無い。

 では、そうやってそのボロを防ぐのか。

 一番簡単な方法は、嘘をつかなければいいのだ。

 相手が勘違いするように、必要な情報を伝えず、紛らわしい言い方で、相手にとって都合の良い方向へ解釈するよう誘導し、嘘をつかず本当の事のみを伝えてやればいいのだ。

「て、手にとって確かめてみたい見せてくれ」

 もちろん完全に違和感を消す事は不可能だが、信じたい物、望んだ物が目の前にあわられた際、その誘惑、都合のいい幻想から目を逸らし、厳しい現実を直視することが出来るだろうが?

 そしてそれは、幻想が魅惑的であればあるほど、自分にとってかけがえのない物であるほどに抗い難い物となる。

「お、オラのだ」

 男から一切の疑惑の姿を消し、安堵と喜びが溢れ、櫛へ頬擦りをするその顔を伝った。

「そうですか、それはよk――」

「確保っ!!」

 それは瞬く間の事だった。

 瀬葉の合図で、隣室と入り口の扉の前で今か今かと待機していた警察官が飛び出し、浮村が正に鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔になったところを押さえ込もうと飛び掛った。

 しかし、浮村も反射的に身を翻し、最も近かった隣室から飛び出た警察官をかわすと、驚くべき速さで懐から右手で匕首を抜き、次いで飛び掛ろうとする比較的距離のあった入り口から飛び出してきた警官を牽制しつつ、人質にでもしようとしたのか寺城へと手を伸ばした。

「おとなし――っっ!!」

 寺城の側に控えていた瀬葉が、男の伸ばした左手を的確に蹴り抜いた。

「つぁっっーー!!」

 左手の指の内三本があらぬ方へとへし折れ、男は辛うじて匕首を持ったままの右手でそれを抑えた時、その体は足を払われ宙に舞い、再び地に着き、それを彼が認識した時には、右腕の間接を決めた瀬葉の大きな尻が彼の顔を地面に押し付けていた。

 浮村は苦痛に歪んだ顔を怒りに染上げ、憎い警官達へ怒声を浴びせた。

「警官!横暴!オラが何したって言うだ!!こん役立だずの狗共がぁっ!!」

 瀬葉は尻の下で喚きたて、暴れる浮村の腕に手錠を嵌めると、見下したままに口を開く。

「貴様が自分の物だと認めた櫛は、死体とともに殺人現場で発見された物だ」

「それがどした!それだけでオラが犯人だと決め付けるでねぇ!!」

 浮村の反論に瀬葉は軽く鼻で笑うと、腕を捻り上げた腕を手錠ごと他の警官に渡し、大きな尻を浮村の上から持ち上げた。

「何、たとえそれで十分でなくとも、刃物を抜いて寺城さんに襲い掛かった。それだけで理由は十分だ」

「巫山戯るな!警官は人権を守れ!!」

 一見学のない下級労働者、凶悪な殺人犯のようで、権利、人権なんて言葉を咄嗟にのたまう事に瀬葉は僅かに眉を上げた。

「犯罪者にしてはどうして人権難しい言葉を使うようだがな、大きく間違っているぞ」

 浮村の胸倉を掴み、女性である自身よりわずかに背の低い彼を持ち上げるように腕を捻り上げた。

「人権なんてものは、真面目に国に尽くす義務を果たしている者だけに与えられる権利なんだ。犯罪者にはそんな大層な物が存在するわけないだろうが」

 彼女はそう言うと投げ捨てるように彼をまた警官に押し付けた。

「べ、弁護士を呼べ!」

 浮村は叫ぶが、警官達の態度に変化は無い。

 彼の言い分にも一理あるが、我が国の警察機構はそれなりに有能で、それ以上に誇り高い。

 一度逮捕されてしまえば、家宅捜索など強引に証拠を集め、たとえ見つからなくとも本件以外の罪で拘留し続け、執拗な取調べで心身共に無事ではすまず、時間が経てば経つ程に傷は増え、余程でもない限り本意、不本意問わず自白する事となる。

 浮村も徐々に冷静さを取り戻してきたのか、その事が頭を掠めたのか、表情に脅えが見えてきた。

 そこへ寺城は近寄ると彼の耳元で聞こえないほど小さく呟いた。

 しかし、それは鏡面の如き水面に落ちた羽虫の波紋の様に遍く伝わった。

「君の行いは復習ではなく断罪だ。君は間違っていないのだろう?その正しさを公に訴えればいい。アイツが君から何を奪ったか教えてご覧?」

 その小さく蠱惑的な囁き、重く心に沈みこむんだドロドロに溶けた砂糖の如き誘い、浮村は救いを求めるように転げ込んだ。

「そ、そうだ。オラは悪くねぇ。悪いのはアイツなんだ。良太だ……良太が有江を殺したんだ!オラと有江は愛し合っていただ。それを奴はオラがいない間に……それにオラは悪くねぇ!大体本当は――」

 浮村の訴えは、チョロチョロとした水漏れのような言い訳が、徐々に堰を切ったかのようにその口から責任転換へと変わり噴出した。

「あの時あそこで奴と会わねば殺しなんてしなかった!あの会社も悪いだ!あの会社がオラを雇わねばこんな事起きなかっただ!オラをあの会社を教えた奴が悪い!あの日オラにあんな所まで走らせた奴がっっ!っっ!!ガッハ!!?」

 延々と責任転換と言い訳を続ける浮村の口に寺城が杖を突き入れた。

 杖が訛りの割りによく回る舌を喉の奥へと無理矢理押し込むと、浮村は苦しげにえずき必死にそれを掴むが、大して力を入れているようにも見えない寺城のそれを押し返す事は出来ないでいた。

 彼女は深いそうに見下しながら言った。

「君はいつも通り客を拾った。そしてそれが憎くて憎くて殺したくて仕方なかった駑馬だった。それは神の起こした偶然だった。しかし君はその偶然を偶然で終わりにする気はなかった。君に金を払い降りて行く駑馬を見送ると君は――」

 寺城は押し込んだ杖をそのままに俺に披露した推理の総まとめをゆっくりと語りだした。

 その深く、美しく、禍々しくも落ち着いた奈落の如き語りに、最初はもがき苦しんでいた浮村も次第にその話しに聞き入ると、抵抗が弱まり、顔色が徐々に青ざめていった。

「初めは殺すつもりなどなかったのだろう?しかし、彼の悪びれない態度に君は衝動的に脅しの為に持っていた匕首で衝動的に刺してしまった。積もり積もっていた思いがあったのだろう?君は慌てながらも心は澄んでいた。故に慌てて逃げ出すでもなく、自首をするでもなく、思いつく限りの工作をし、しっかりと鍵を閉めなおしその場を後にし――」

 この時、彼女の語りの矛盾に気付いた者は何人いただろうか?

 最初は「殺したくて仕方なかった」と言っていたが、先ほどは「殺す気はなかった」と言っている。

 見渡す限りこの違いに反応したのは、俺と警部くらいなもので、他の警官達どころか、語られている、犯行を起こした当人であるはずの浮村すら気付いていない。

 そして、彼女の恐るべき目は語っている。「嘘だ。最初から殺すつもりだったのだろう」と。

 声色が、抑揚が、僅かな動作が、彼女の全てが、まるで真っ白な紙に墨汁を落としたかの様に心に沁み渡っていく。

 彼女の言葉が皆を共感、共振させ、それこそ自身の真実であると誰もが信じてしまいそうになってしまうのだ。

 あの部屋に隠されていた阿片なんかよりも彼女の声の方が、何倍も甘く恐ろしい麻薬なのだ。

「――。さて、ボクの推理に大きな間違いはあるかな?」

 寺城の外宇宙よりも暗く深い深淵の瞳に魅入られ、浮村は僅かに震えながら呆けたように首を左右に振った。

 彼女は男の口から杖を引き抜き、ゆっくりとソファーに腰掛けると、静かに目を瞑りゆっくりとパイプをふかした。

「大体……全部あってるだ。まるで全部知っているみたいだ」

 浮村は悪夢の後のように憔悴しきった顔で小さく呟く。

「ボクは知っていたんだよ」

 寺城がそう言うと彼は完全に諦めたかのようにゆっくりと頭が下がった。

「ほら立て!詳しい事は署で詳しく聞かせてもらうぞ」

 瀬葉が促し、警官達によって引っ立てられると、浮村は訴えるように声を上げた。

「待ってけれ!全部話すから!話すから最後に聞いて貰いたい事があるだ!」

 瀬葉は寺城の方を確認すると、仕方がないといった風に足を止めた。

「オラがアイツを殺したのは、あいつが有江を殺したからだ」

 浮村はポツポツと、言い訳をするでもなく、責任を擦り付けろでもなく、ただ、誰かに自身の真実を知っていてもらう為に話し出した。

「有江は、村一番の器量良しで、その上気立ても良く、オラみたいな不細工なチビ相手にも優しくしてくれただ。だから、同年代どころか上も下も男達は皆有江に夢中だった――」

 浮村は彼女がどれほど優しく、美しく、素晴らしい女性であったか、その場にいる誰もが飽き飽きするほど熱心に語った。

 それは信仰に近いほど情熱的で妄信的だった。

 彼は、彼女に近づきたくて努力を重ね、そんな彼を彼女も心の中で愛していたに違いないと繰り返し語った。

「――だども、何を勘違いしたか、駑馬の奴が有江にちょっかいを出し始めただ。確かにアイツは顔もまぁまぁで親が村の名士で成金だったから、有江もあんま強く言えながった。だがら、オラは何とかしようと、東京さ一山当てにきただ。こう見えて成績は学校で一番だったんで義塾大学にも入れただ……だども、上手くいけなかった」

 まずは、学問を身に付けようとした浮村だったが、帝都と故郷との違い、人間関係が上手くいかず、次第に大学にも行かないようになり、資金も尽き下宿も追い出された。

 彼には行く先も帰るところもなく帝都の闇に沈んでいった。

「ところで大学に通う資金はどうしたんだい?」

 寺城は見透かすように浮村の眼を見ると、彼はそれから逃げるように視線をそらした。

「……村から借りただ」

 盗み癖はその時にはすでにあったようだ。

 下宿を追い刺される前から、大学や日雇いの仕事がない時は、盗みを働き生活の糧としていたらしい。

 大学、仕事、盗み、その割合は日に日に盗みが占める割合が大きくなっていき、下宿を追い出される頃には盗みを働いている以外は、遊び歩いているという生活だったようだ。

「だども、オラだって良心があるだ。いつかちゃんとした仕事にありついて、一旗上げた日にゃあんな事からは足を洗って有江を迎えに行くって、毎晩のように有江にもらった櫛に誓っただよ」

 彼のその語りに瀬葉や警部、警察の面々の顔から呆れと諦めの表情が窺がえた。

「神様はいるもんだ。そんなオラの願いが通じて、今のタクシ-会社で人員を募集してるって聞いて行ったら、丁度募集の紙を張ってるところでよ。免許も取らせてくれるって言うから飛びついただ」

 元々頭は悪くなく、すぐに免許を取得した浮村は、人間関係は苦手なままだったが、なんとか毎日真っ当に働きに出ることが出来るようになったという。

 しかし、運命とは美しくも意地の悪い残酷な邪神なのだろうか。

 生活に僅かだがゆとりの出来た浮村は一度こっそりと村に帰ったのだ。

 だが、村の金を盗んだ男の家族は村八分にあい、既に廃墟同然であった。

 そして、何により辛かった事。

「有江は大昔にアイツと結婚して、村を出て行ってた」

 愛する者は去り、懐かしき村人は敵となり、家は燃え、両親は死んだ。

 そんな絶望に打ちひしがれ、失う物すらなくなった彼に邪神は微笑み続けていた。

 普段は滅多に行く事のない地区で拾った客が因縁の相手だったのだ。

「オラは最初奴に気が付かなかっただ。だども、降りる瞬間、奴の嫌味ったらしい横顔を見て奴だって気づいた。最初は少し悩んで、降りた後様子を見て追いかけただ」

 浮村は目を爛々と光らせヘラっと黄ばんだ歯を見せ笑った。

「匕首さ後から突きつけた時の驚きかた面白かったな~。いつもオラを馬鹿にしてた奴が、オラだとわかった瞬間すぐに脅すように謝るんだで?おかしくて笑っちまっただ」

 そう言った浮村の顔に既に笑みはなく、目が怒りに爛々と怪しい光を灯していた。

「あの野郎、勝手にペラペラ話しやがってよ。オラの……オラの有江に手を出しやがった挙句、強欲な腹黒女だって馬鹿にして、その上有江は……っ!」

 あの糞女、何年も前にくたばっちまいやがった。 

「オラ許せなかった。好きな、愛し合った女性を奪われ、馬鹿にされ、罵られ、こんな脅されながら機嫌をとるような屑に……っ!!絶対アイツが虐め殺したんだ!!!」

 そう言って俯いた顔を上げた浮村の瞳には、それが正しい事だという絶対的な確信、狂気に彩られた強い意志が篭っていた。

「寺城さん?」

 言いたい事を言い切ったのか、素直に従い警察に連れられて行く浮村の背の向こう側を見るように、窓辺でパイプを咥えたまま動かない寺城に声をかけた。

「なんだい?今ボクはそれなりに機嫌がいいんだ。何だって答えてあげるよ?」

 そう言うと、彼女は振り返りるとゆっくりとソファーに歩み寄り、そのまま倒れるように横になった。

「寺城さんはどうして探偵を?」

 俺はそれなりに自分の実力、能力に自身があった。

 自惚れや自己陶酔のみではなく、それは実際に学業や習い事、よろしくない連中との実地訓練、様々な場面、一見無謀とも思われるような事まで繰り返し、成果により証明してきた。

 世界はなんて張り合いのない、詰まらない物なのだと。

 故に今日まで、仰ぎ見る人物など数えるほどしかいなかったし、大抵の物事、世の有象無象を見下し侮ってきた。

 彼女は一体何なんだ?

 僅か数日、彼女の後をついて回っただけで、彼女の能力の高さをありありと見せ付けられた。

 俺など井の中の蛙でしかないとそう知らしめる、まるで人知を超えた仙術の如きその力。

 多少、いやさかなり人格面に問題を抱えてはいるが、女性のみであろうと彼女が望めば、どのような高位高官、富も地位も名声も思いのままだろう。

 にもかかわらず、彼女はこんな倉庫の如き場所で一介の私立探偵なんて興信所の真似事のような仕事に甘んじ、身を危険に曝し続けている。

「仕事という物は二種類存在する。一つはその日のお飯を食べる為の物。もう一つは自らが果たすべきと決めた使命という名の仕事。僕のやっている探偵業はね後者なのさ」

 彼女はゆっくりとパイプを拭かせ、その夜空の如き瞳をその紫煙の中に薄っすらと輝かせた。

「歴史も人生も社会もそれら絵画なんだよ。それらを描くには幾つもの絵の具を混ぜ合わせ相応しい色を作り出さねばならない。しかし、その時一際扱いに注意しなければいけない色がある。何色かわかるかい?」

「……黒ですか」

 彼女は真珠のような白くエナメル質の歯を艶かしく光らせ、パイプの吸い口を噛みながら小さく笑った。

「そうだ。黒はなくてはならない色だが、少しでも多いと全てを黒へと染上げてしまう。だからボクはその黒が余計に混じってしまわないよう、慎重に取り除き量を調整する。それがボクがなすべきと定めた仕事。詩的な言い方をするならそうだね……黒の研究とでも言おうかな?」

 寺城さんはそう言うと俺の顔を少し見てこう付け加えた。

「君もいつか、果たすべき仕事が見つかるといいね」

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