湯屋「憩い湯」奇談

さち

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久しぶりに父に会いに行きます③

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 夕食の時間になると赤鬼と青鬼が膳を運んできた。このふたりはかつて惶葵の元にいたが、自分がここを離れる時に雪音と伊織に仕えるようにとおいてきたのだった。いくつか言葉を交わしていると伊織がやってくる。赤鬼と青鬼は惶葵と伊織が向かい合って座るのを見て嬉しそうに笑みを浮かべて部屋を出ていった。
「あの狐はどうした?」
玉城は一緒ではないのかと尋ねると、伊織は苦笑して肩をすくめた。
「たまには親子水入らずでゆっくりしろと言われました」
「なるほど。気を遣ってくれたわけか」
目を細めて穏やかな表情になった惶葵に伊織がうなずく。ふたりは手を合わせると久しぶりに親子で食事をした。

「どこかにお出掛けのようでしたが、どちらまで行ってきたんですか?」
食事の後、茶を飲みながら伊織が尋ねると、惶葵は「神楽山まで」と言った。
「神楽山の天狗の生き残りがいると言っていたな?会えるだろうか?」
「はい、大丈夫です。執務室に呼びますから、お父さんも来ていただけますか?」
伊織の言葉にうなずいて惶葵は立ち上がった。伊織もそれに続いて立ち上がる。ふたりは部屋を出ると執務室に向かった。
「壱号館は随分賑やかになったな。私がいた頃は、弐号館や参号館のほうが主な稼ぎになっていたのに」
「はい。時代の流行りもあるのでしょう。お母さんが亡くなって少ししてから、少しずつお客さまが増え始めました」
他愛ない話をしながら執務室まで歩く。数分の距離だが伊織にはいつもより短く感じた。
 執務室では玉城が仕事をしていた。玉城は惶葵も一緒だったことにわずかに首をかしげた。
「律華さんと藤華さんに用があるそうです」
玉城の顔を見て伊織はクスッと笑いながら言った。それを聞いて玉城が参号館に内線をかける。惶葵が応接用のソファに座ると伊織は自ら茶をいれた。

 律華と藤華はほどなくして執務室にやってきた。なぜ呼ばれたのかわからないという顔をしたふたりは、執務室にいた惶葵を見てますます困惑した表情を浮かべた。
「父がおふたりに聞きたいことがあるそうです」
伊織にそう言われてふたりは惶葵の向かいに座った。伊織と玉城はそれぞれ自分の席で事の成り行きを見守った。
「神楽山のお前たちの里があった場所まで行ってきた。お前たちの里を襲った化け物に埋め込まれていた核にも、化け物を切ったここにも、そしてお前たちの里にも、ほんのわずかだが知った気配が残っていた」
「っ、それは、あなたがあの化け物を作り出した者を知っている、ということですか?」
律華の問いに惶葵は表情を変えずにうなずいた。
「恐らく知っている。あれが表舞台から消えてもう数百年は経つ。とうに死んでいると思っていたのだが、しぶとく生きていたようだ。ここ数ヶ月のうちに、里を訪れた者はいなかったか?」
惶葵の言葉に律華は眉間に皺を寄せた。
「天狗の里を訪れる者はほとんどいません」
「いました!」
律華の言葉にやや被せるように藤華が声を上げる。律華はそれを知らなかったようで驚いて藤華を見た。
「確か、兄者たちは薬草摘みに出ていた日です。ふらりとやってきた人がいて、長と何か話していました。でも、長が大層お怒りで、早々に追い出していました」
「長が怒って追い出した?いったいその者は何をしに里に来たんだ?」
律華の問いに藤華は「よくわからない」と言った。
「何を話していたのかはわかりませんが、その人を追い出してから、とんでもない奴だ。天狗は仲間を売ったりしないと言っているのが聞こえました」
藤華の言葉に律華だけでなく伊織や玉城も息を呑んだ。
「それだな。恐らく、核を埋め込む者を探していたんだろう。天狗は知能も高く体も丈夫だ。実験にひとり買い取りたいとでも言ったんだろう」
「お父さん、それは誰ですか?」
「蘆谷道満」
惶葵の口から出た名にその場の全員が息を呑んだ。
「蘆谷道満。人の道を外れた陰陽師。確かにあれなら妖になっていても不思議ではないな」
玉城が納得したように口を開く。だが、伊織やまだ若い天狗にとって蘆谷道満とは名前は知っていても大昔に生きた人間という認識でしかなかった。
「安倍晴明の母が妖狐であったように、伊織の父が私であるように、あれも妖の血を引いている。そして、あれは人として表舞台を去った後、外法に手を染めた」
「蘆谷道満は、何をしようとしているんですか?」
伊織の問いに惶葵は小さく首をかしげた。
「さてな。あれが人のしての生を手放した少し後、私の元にやってきて人間の女をやるから代わりに血を寄越せだの精気を寄越せだの言ってきたが、くだらんと一蹴したことがある。その後、何処かの神の怒りに触れたと聞いたのを最後に、あやつの話は耳にしなくなった」
「ああ、その話なら俺も聞いたことがあるな。身の程知らずな人間がいたものだと思ったが」
惶葵の話を聞いて玉城が思い出したと苦笑する。長い年月を生きたふたりの話に伊織と天狗兄弟は言葉もなかった。
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