湯屋「憩い湯」奇談

さち

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招かれざる方がいらっしゃいました①

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 壱号館を一時休館にしても弐号館、参号館は通常通り営業していた。
「壱号館を閉めたのだな」
参号館を見回りながら客に挨拶をしていた伊織に豪奢な金糸の髪の貴人が声をかける。その背後では9つの尻尾が揺らめいていた。
「金孤さま、ご無沙汰しております。はい。壱号館は改修のために一時休館いたしました」
金孤と呼ばれた九尾の狐は伊織が改修のためと言ったことに目を細めた。
「我は人が好きでな。壱号館が静かだとやはり物悲しい」
「あくまで一時的でございます。必ずまた壱号館も開けますので」
伊織の言葉に金孤はにこりと笑った。
「楽しみにしている。この湯屋は皆の憩いの場だ。我が主も気に入っているしな」
「ありがたいことでございます」
金孤は稲荷明神に仕える神孤だ。こうしてひとりで来ることもあれば、主である稲荷神の供で来ることもあった。
「湯屋の主よ、気をつけよ。ここを狙うものがあると、皆が噂しているぞ?」
「ここは私にとっても大切な場所です。必ず守り通します」
「お前があってこその湯屋だ。お前がいなくなっては元も子もないからな?」
金孤はそう言うって伊織の肩に触れると機嫌良さげに尻尾を揺らして去っていった。頭を下げてそれを見送った伊織は参号館を出て執務室に向かった。

 執務室に向かう途中、良からぬものが近づいてくる気配を感じた。その瞬間、執務室にいたはずの玉城が伊織の傍らに姿を現す。玉城も気配を感じているようで険しい表情をしていた。
「伊織」
「はい。わかっています。玉城はお客さまと従業員のみなさんのほうをお願いします。特に人間は外に出ないようにと」
「わかった。無理をするなよ?」
湯屋の主はあくまで伊織。湯屋の主としての決定に玉城が異を唱えることはほとんどない。それでも心配そうな顔をする玉城に伊織は「わかっています」と微笑んで玄関に向かった。その表情からは笑みが消え、冷たい光が瞳に宿っていた。

 伊織が玄関に行くと、そこには青鬼と赤鬼がすでに待機していた。ふたりに待機を命じて玄関を出た伊織は、湯屋に向かってゆっくり歩いてくる男に目を向けた。
 男はざんばら髪に袈裟姿で手には錫杖を持っていた。
「こちらは湯屋憩い湯で相違ありませんかな?」
険しい顔で立つ伊織に男はにこりと笑って声をかけた。
「相違ありません。あなたは湯屋のお客さまでしょうか?」
「客かと言われれば違うと答えるしかありませんな。私が用があるのはあなたと、ここに匿われている天狗だ」
男の言葉に伊織は眉間に皺を寄せた。天狗の里を壊滅させたのだから生き残りの兄弟天狗のことは放っておくかもしれないと思っていたが、どうやら男は生き残りすら許さず根絶やしにするつもりのようだった。
「従業員に天狗は何名かおりますが、匿っている天狗はおりません。私にご用とは、どのような用件でしょうか?」
匿っているものはいない。従業員だと言い放って伊織が男を見据える。男は伊織の答えにニヤリと笑った。
「あなたは美しく強い魂をお持ちだ。鬼と人の血を引く半妖でありながら、曇りが全くない。稀有で貴重な存在だ」
「ご用件は?」
男の背後に黒い靄のようなものが見える。恐らく穢れの塊。それが徐々に収縮し、形を成そうとしているのを感じ、伊織は拳を握った。
「私の研究にぜひ協力していただきたい。うまくいけばあなたは更なる力を手にすることができる。悪い話ではないだろう?」
「私はこの湯屋を離れるわけにはいきません。これ以上の力も不要です。お引き取りを」
「ふむ。それは残念だ。では、ここにいる天狗を全てお引き渡しいただけませんかな?そうすれば今日のところは帰るとしよう」
不満げながら妥協してやろうと言う男の言葉に伊織の怒気が沸き上がる。体からぶわりと立ち上る怒気に男の顔に喜色が浮かんだ。
「この湯屋で働くものは皆私の家族。家族を売るような真似はしません」
殺気にも似た怒気を放ちながら、それでも冷静に返す伊織に男は「残念だ」と言ってニタリと薄気味悪い笑みを浮かべた。
ドンッ!
その瞬間、男の背後から突如黒い塊が放たれる。咄嗟のことに避け損ねた伊織はそのまま吹っ飛ばされて壱号館の壁に激突した。
「「若っ!!」」
壁が壊れるほどの衝撃に玄関の内にいた青鬼と赤鬼が飛び出してくる。弐号館、参号館の窓からも客たちが様子をうかがっていた。
「さすがは鬼の子。純血でなくとも丈夫だ」
湯屋に一歩踏み出した男がピクリと足を止めて笑う。視線の先では壊れた壁の向こうでゆらりと伊織が立ち上がっていた。
 壁が壊れるほどの衝撃だったにも関わらず、伊織には傷ひとつなかった。その手には妖刀鬼一が握られ、その頭には常にはない鬼の角があった。本来2本ある角のうち1本が現れている。それは、伊織の中の鬼の力が覚醒している証でもあった。
「ここに害を成すものは許さない」
呟いた伊織が男を睨み付けて刀を一閃させる。その一閃は凄まじい斬擊となって男を襲った。
「いやはや、思った以上力だ」
右手を上げて斬擊を受けた男がニンマリと笑う。その手からは煙が出ていた。
「今日のところは分が悪そうだ」
そう言った男が懐から赤い玉を5つ取り出す。それ宙に放り投げると、赤い玉は男の背後にあった穢れの塊を取り込んで巨大な化け物になった。巨大な化け物5匹はどこからか穢れが送られてくるのかどんどん力を蓄えながら伊織の前に立ちはだかった。
「伊織さま!」
その時、声と同時に凄まじい風が巻き起こり化け物を1匹切り刻んだ。切り刻まれた化け物は断末魔の咆哮を上げて塵と化した。
 伊織の前にふわりと降り立つのは壊滅した天狗の里の生き残り、律華だった。律華の手には里の宝であった鉄扇が握られていた。
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