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「そうか」
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ミメイはラルの部屋にやって来なくなった。ラルもまた、ミメイを求めて外へ出るのを止めた。
僕、また、一匹になっちゃったのかな。
そう思うと悲しくて、今までは二匹の時もあったのだと分かってしまって、けれど何かから解放されたような心地になったこともまた事実だった。
ミメイとの日々が愛おしい過去に変わっていく。それが正解なのだと思う。ミメイは家族などいらないと言っていた。彼が求めていないものを期待して押し付けるのはもうやめよう。ミメイへの想いに蓋をしたラルはひとりすっくと立ち上がり台所に立った。
「ええと……、ジャガイモは一口大……?」
一口大とはどのくらいなのだろうか。ミメイの置いて行ってくれたピーラーでジャガイモの皮を剥き、危なっかしい手つきで四等分に切って自分の口元へ合わせてみる。レシピの動画と睨めっこし包丁をあっちこっちに当て、ようやく「これが一口大!」と言えるところまで辿り着く。
「もう。これじゃあ料理が出来る頃には寝る時間になっちゃってるよ……」
夕方の四時から始めた夕餉の支度が六時を回っても終わらない。ラルはでこぼこになった野菜を鍋に入れざくざくと炒めた。
野菜のスープを煮込んでいる間に生野菜のサラダの準備に取り掛かる。薄切りのトマトにカッテージチーズをまぶしたミメイのサラダを思い出し、トマトをスライスしようとするも、上手くいかない。
「いたっ!」
あれだけ“ネコの手”に気を付けていたのに、トマトの皮から包丁が滑って刃が中指を掠ってしまった。ぱっと走った線から血が滲む。
ミメイ君はあんなに簡単そうに切ってたのに。
ミメイの後ろ姿が脳裏に浮かびそうになってラルは頭を振った。絆創膏を巻き、今度は切り方を変えてみようと初心者向けの料理本を開く。“くし切り”というやつなら出来そうだ。ラルは黙々とまな板に向かい、サラダが出来上がる頃にはスープもいい具合になっていた。
「わあ、なんか、おいしそうかも……」
出来上がったポトフと生野菜のサラダ、オムレツになれなかったスクランブルエッグを食卓に並べラルは頬を緩ませた。よかった、僕にだって、練習すれば出来る。そう思ってスープを一口飲み、ラルは愕然とした。味がしない。
「えっ、うそ、どうしてっ」
ポトフのレシピを確認すると、そこには、コンソメ、塩、胡椒、と調味料の羅列。ラルは慌てて鍋の中へそれらを放り込んだ。ミメイが「コンソメがないと味が決まらない」とぼやいていたのはこのことか。ラルは味のするポトフに胸を撫で下ろしながら苦笑した。
「お母さんになったらこれが毎日だもんねえ……」
布団に横たえながら腹を摩れば、お腹の赤ちゃんは相槌を打つかのようにくるくる動いた。
一匹でもこの子を育てていけるようなお母さんにならなくちゃ。
自信と不安とが寄せては返す枕元。ラルは静寂の中で布団を被って耳をすませた。とくん、とくん、とくん……。二つの心臓が、この身体の中で動いている。ラルははたとした。
僕、一匹だったことなんて、今まであっただろうか?
自分には血のつながった家族がいない。だからいつもたった一匹でいるような孤独が付きまとっていた。……けれど、実際、自分は一匹だっただろうか。
ラルには両手から溢れるほどの家族との思い出がある。ケンカして、仲直りして、遊んで、そんな思い出が飽きるほど重なっている。家を出てからも職場では獣人関係に恵まれて、双子の片割れのようなスーは家を出た自分を心配してずっと連絡をくれていた。そして、ミメイに出会い、いま、このお腹には、彼の赤ちゃんがいる――。
「そうか」
ラルは呟いた。その呟きが唇から漏れると同時に、眦から次々と涙が滴った。
お腹の中の小さな赤ちゃんは、まだ生まれてもいないのに、ラルを抱きしめた。温かな腕で、きつく、抱きしめてくれた。
その翌日、ラルは二度とくぐらないと決めていた萌黄色の玄関扉の前に立っていた。
いざ目の前にすると、もう七年も帰っていないその家は、前よりもずっと小さくなっているように見え、ラルは目の覚める心地になった。
「やっぱり!ラルじゃないか!どうしてチャイムを鳴らさないんだ!」
弾んだ声と共に腹まで弾ませてこちらへやって来たのはラルの父だった。七年ぶりの父との再会に感じた懐かしさを、驚きが猛スピードで追い越していく。
「と、父さん、どうしたのそのお腹!ていうか、髪の毛はっ!?」
どうしたのそのお腹、というのはきっと父の台詞だった。けれど父はラルの膨れたお腹については触れずに「七年も経ったんだ、君も変われば僕も変わる」とラルを広い胸へ抱き寄せた。
馴染みのある温もりと匂いは離れていた年月を飛び越えて父と子と結び付けた。二匹の間にはラルの膨れた腹があって、その中の命もまた、ラルを育んだこの腕なしでは存在しなかったもので。
そう思うと、途方もない。
そんな途方もない轍の先を、自分たちは歩んでいる。
ラルは気が付いた。今こそ、はっきりと。僕はずっとずっと、守られ、愛されてきた。一匹だったことなんて、一度もなかった。
「ラル!」
開け放たれた玄関からずっと恋しかったひとが駆けて来る。ラルを抱き寄せていた腕が緩み、ラルは「かあさん」と彼女を呼んだ。その女性は、母さんは、ラルの傍まで覚束ない足取りで近づき、声をうち震わせた。
「ラル、あなた、どこへ行ってたの」
赤茶けたベリーショートの髪は変わらない。なのに母が幾分も小さくなったように、細くなったように感じる。彼女の肩に触れるラルの手は震えていた。「かあさん」もう一度彼女を呼ぶと、彼女は涙の粒をしとどに頬から転がして「ラル」とラルを抱き寄せた。
「手紙も、電話も、よこさないで。一度も帰って来ないで。どこにいってたの。何をしていたの。……ああ、ラル、らる……」
母の目にもラルの腹が膨れているのは明らかだったのだろう。ラルを抱き寄せた腕の力は加減されていて、けれどその分、母の手は何度もラルの背を撫でた。
「今日はゆっくりしていけるの?」
母はラルの背に手を添えたまま尋ね、ラルはこくりと頷いた。
リビングは懐かしい匂いがした。七年前と変わらない定位置に父が腰掛け、母は台所へ向かう。マグカップにたっぷりと注がれたあたたかなミルクを二口飲んでから、ラルは着ていた上着を脱いだ。
「あのね、父さん、母さん、僕、赤ちゃんがお腹にいるんだ」
言えば、父はカップを置き、母はラルの隣へ腰掛けた。穏やかだけれど重い足取りの沈黙が過ぎて行く。ここに来た時点で一匹だったラルが今どのような状況にいるのか、この二人には分かってしまうのだろう。
「産まれるのは冬?」
そう尋ねたのは母だった。隣に座った彼女を見やれば、彼女は伏せ目がちにラルのお腹を見つめて微笑んでいる。
「うん。予定日は十一月の真ん中」
「そう。じゃあ、ラルと一緒ね。ラルとスーがこの家に来たときも冬だった。……ガーゼのおくるみの上から、お兄ちゃんたちの毛布で包んでね。家族みんなで家に連れて帰ったのよ」
「うん。何度も聞いてたから、知ってる。もう覚えちゃったよ」
父も母も、ラルが里子だということを隠さなかった。小学校に入学する頃には面と向かって「ラルはお母さんのお腹から来たんじゃないんだよ」と言われたのを覚えている。
――ラルは別のお母さんのお腹にいたんだよ。でもね、私はね、ラルをそのお母さんと同じくらい大切にしようって決めて、このおうちにラルを連れて来たんだよ。ラル、このおうちが、ラルのおうちだからね。ここにいる私が、ラルのお母さんになれたら、私はすごく嬉しい。ラルは母さんの大切な子。ラルは母さんが心から望んでここにいるんだよ。
ラルは嬉しかった。上の兄姉たちを見て、自分もそうなのではないかと思っていたから。その兄姉たちが父と母からたっぷりと愛情を受けて大きくなったことを、ラルは知っていたから。
「お産はどこで?住んでるところから近いの?」
「うん。住んでるアパートの近くに獣人も診てくれる産科があって。そこで」
「退院したらどうするんだ。……ベビーバスなんかもまだこの家にあるんだよ。子育てのプロもいる。退院したらここに戻って来なさい」
父がたまりかねたように母と子の会話に割って入る。ラルが黙り込む前に、母はからりとした笑い声を立てた。
「ふふっ。子育てのプロ?それって誰のことかしら」
「君だろう。もう十七匹も育ててるんだ。子育てのプロって言ったっていいだろう」
「そうね。数で言えば、そうかもね。……でも、出産は初めてよ」
母は眉根を寄せて微笑みラルを見つめた。
「ラル。どうか、あなたの生きたいように生きて。後悔したっていい。悩んだっていい。でも、くじけそうになったらここに戻っていらっしゃい。その時は、いつでも、いつまででも、ここにいて。……あなたのお腹にいるのなら、この子も私の家族よ」
重ねられた手は、皺が増えて、痩せて、けれど変わらない温みがあった。
「私、この冬には、おばあちゃんになっちゃうのね。……本当に、あなたたちには与えられてばかり。どうしてかしら……」
ささやかな、けれど温かな祝福がまだ生まれてもいない命に降り注ぐ。
「母さん」ラルは母に向き直る。「お腹、なでてあげて」
母は両手を伸ばし、お腹を包み込むように手のひらを添わせた。「まあ、大きい。中の赤ちゃんはきっと春キャベツくらいよ。ねえ、父さん」その言葉にミメイがちらつき、ラルは思わず笑ってしまった。
「母さん」
「なに?」
お腹を撫でる手つきは幼いラルの頭を撫でた仕種によく似ていた。
彼女は完璧な母親だった。ラルにはそう見えた。だから心配だった。いつか母が壊れてしまうのではないかと怯えていた。
「母さん、僕らがこの家に来て、しあわせだった?」
母は浅く首を傾げ「しあわせかあ」と呟いた。「ラルももう大人だものね。正直に言うね」再びラルと母の手と手が重なる。
「ラルがこの家に居た頃は、一番里子の数が多かった時期でね。だから母さん、本当に必死だった。あなたたちをこの家に連れて来たのは私なのに、子育てしてたら、悲しいことも、つらいことも時々あって。隠れてお風呂場で泣いたりしてね。……自分に言い聞かせるようにあなたたちに言ってた。あなたたちのしあわせが、私のしあわせだって」
ぎゅう、と手に力がこめられる。ラルはようやく「そうだったんだ」と応えた。
「でもね」
伏せていた彼女の視線が上がる。その瞳は、温かく潤んでいた。
「今なら分かる。あの時、私、しあわせだったの。あなたたちにしあわせにしてもらったとか、そういうのじゃない。私が、しあわせだったの。ただしあわせだったの。……いま思い出すとね、楽しかったり嬉しかった思い出ばっかり。お風呂場で泣いてたことは覚えてるんだけど、どうしてそうしたんだっけって、つらかったことは思い出せないの」
母さんはしあわせだったのか。そう思うと、ラルの身体から力が抜けて行った。
「ラル、あなたもそのうちに分かるわよ。私に出来なかったことを、あなたは今から経験するんだもの。それは痛みを伴うことだけど、尊いことよ。私はあなたが心から羨ましい。……妊娠おめでとう」
母を抱き寄せると、これ以上力を込めたら壊れてしまうのではないかと思えるほど華奢な身体で、ラルは涙を堪えきれなかった。
「家はどの辺にあるんだ?」
畑で取れた野菜と今年収穫した新米を車の後部座席へ積み込む父。外に出たラルはその荷物の多さに笑ってしまった。
「やだもう、あなた、こんなにどうするのよ、いくら冬だからってやり過ぎよ」
「いいだろう、このくらい。赤ちゃんが産まれたらそう簡単には買い物に出られない」
「……ばかねえ。赤ちゃんが産まれたら料理どころじゃないわよ。ねえラル」
ラルと母は顔を見合わせて笑い、父は腕を組んで「ふん」と鼻を鳴らした。父のことだからこの機に乗じてアパートの住所をひかえる気でいるのだろう。けれどラルは構わなかった。
いま一匹で生きているとしても、誰かの手を借りていなければ自分は一匹で立てるまでになれなかった。きっとこれまでも、これからも、一匹じゃない。一匹だけど、一匹じゃない。
助手席に乗り込みシートベルトを締めると母が窓を叩いた。「なに?」母はまるで少女のように嬉々とした表情で紙袋を差し出した。
「これ。あなたを包んで帰ったおくるみなの。この子に使ってあげて。……十一月にはいつでも帰って来ていいように部屋を用意して待ってるから、困ったらいつでも帰って来なさい。家の鍵はいつもの場所に置いとくからね」
いつもの場所、というのは、玄関前の植木鉢の下のことだ。「もう。今もそんなところに合鍵を置いてるの?不用心だよ」ラルは眉を顰め、母は悪戯っぽく微笑んだ。「行くぞ」父がぶっきらぼうに呟くと、母は手を振りながら車から離れて行った。
「ああは言うけど、母さんは君が心配なんだからな」
「……うん」
「赤ちゃんが産まれたら連絡しなさい。あれだけ母さんを心配させたんだ、そのくらいはしなさい。分かったね、ラル」
「うん」
サイドミラーに手を振っている母の姿が映り込む。ラルはくもぐってしまう言葉をぐっと飲み込んで雨の降りしきる夜闇の向こうを見つめた。「僕も、来月にはおじいちゃんか」そう呟いた父の横顔は、母に比べて頑なだったけれど、ほんの少し、綻んでいた。
僕、また、一匹になっちゃったのかな。
そう思うと悲しくて、今までは二匹の時もあったのだと分かってしまって、けれど何かから解放されたような心地になったこともまた事実だった。
ミメイとの日々が愛おしい過去に変わっていく。それが正解なのだと思う。ミメイは家族などいらないと言っていた。彼が求めていないものを期待して押し付けるのはもうやめよう。ミメイへの想いに蓋をしたラルはひとりすっくと立ち上がり台所に立った。
「ええと……、ジャガイモは一口大……?」
一口大とはどのくらいなのだろうか。ミメイの置いて行ってくれたピーラーでジャガイモの皮を剥き、危なっかしい手つきで四等分に切って自分の口元へ合わせてみる。レシピの動画と睨めっこし包丁をあっちこっちに当て、ようやく「これが一口大!」と言えるところまで辿り着く。
「もう。これじゃあ料理が出来る頃には寝る時間になっちゃってるよ……」
夕方の四時から始めた夕餉の支度が六時を回っても終わらない。ラルはでこぼこになった野菜を鍋に入れざくざくと炒めた。
野菜のスープを煮込んでいる間に生野菜のサラダの準備に取り掛かる。薄切りのトマトにカッテージチーズをまぶしたミメイのサラダを思い出し、トマトをスライスしようとするも、上手くいかない。
「いたっ!」
あれだけ“ネコの手”に気を付けていたのに、トマトの皮から包丁が滑って刃が中指を掠ってしまった。ぱっと走った線から血が滲む。
ミメイ君はあんなに簡単そうに切ってたのに。
ミメイの後ろ姿が脳裏に浮かびそうになってラルは頭を振った。絆創膏を巻き、今度は切り方を変えてみようと初心者向けの料理本を開く。“くし切り”というやつなら出来そうだ。ラルは黙々とまな板に向かい、サラダが出来上がる頃にはスープもいい具合になっていた。
「わあ、なんか、おいしそうかも……」
出来上がったポトフと生野菜のサラダ、オムレツになれなかったスクランブルエッグを食卓に並べラルは頬を緩ませた。よかった、僕にだって、練習すれば出来る。そう思ってスープを一口飲み、ラルは愕然とした。味がしない。
「えっ、うそ、どうしてっ」
ポトフのレシピを確認すると、そこには、コンソメ、塩、胡椒、と調味料の羅列。ラルは慌てて鍋の中へそれらを放り込んだ。ミメイが「コンソメがないと味が決まらない」とぼやいていたのはこのことか。ラルは味のするポトフに胸を撫で下ろしながら苦笑した。
「お母さんになったらこれが毎日だもんねえ……」
布団に横たえながら腹を摩れば、お腹の赤ちゃんは相槌を打つかのようにくるくる動いた。
一匹でもこの子を育てていけるようなお母さんにならなくちゃ。
自信と不安とが寄せては返す枕元。ラルは静寂の中で布団を被って耳をすませた。とくん、とくん、とくん……。二つの心臓が、この身体の中で動いている。ラルははたとした。
僕、一匹だったことなんて、今まであっただろうか?
自分には血のつながった家族がいない。だからいつもたった一匹でいるような孤独が付きまとっていた。……けれど、実際、自分は一匹だっただろうか。
ラルには両手から溢れるほどの家族との思い出がある。ケンカして、仲直りして、遊んで、そんな思い出が飽きるほど重なっている。家を出てからも職場では獣人関係に恵まれて、双子の片割れのようなスーは家を出た自分を心配してずっと連絡をくれていた。そして、ミメイに出会い、いま、このお腹には、彼の赤ちゃんがいる――。
「そうか」
ラルは呟いた。その呟きが唇から漏れると同時に、眦から次々と涙が滴った。
お腹の中の小さな赤ちゃんは、まだ生まれてもいないのに、ラルを抱きしめた。温かな腕で、きつく、抱きしめてくれた。
その翌日、ラルは二度とくぐらないと決めていた萌黄色の玄関扉の前に立っていた。
いざ目の前にすると、もう七年も帰っていないその家は、前よりもずっと小さくなっているように見え、ラルは目の覚める心地になった。
「やっぱり!ラルじゃないか!どうしてチャイムを鳴らさないんだ!」
弾んだ声と共に腹まで弾ませてこちらへやって来たのはラルの父だった。七年ぶりの父との再会に感じた懐かしさを、驚きが猛スピードで追い越していく。
「と、父さん、どうしたのそのお腹!ていうか、髪の毛はっ!?」
どうしたのそのお腹、というのはきっと父の台詞だった。けれど父はラルの膨れたお腹については触れずに「七年も経ったんだ、君も変われば僕も変わる」とラルを広い胸へ抱き寄せた。
馴染みのある温もりと匂いは離れていた年月を飛び越えて父と子と結び付けた。二匹の間にはラルの膨れた腹があって、その中の命もまた、ラルを育んだこの腕なしでは存在しなかったもので。
そう思うと、途方もない。
そんな途方もない轍の先を、自分たちは歩んでいる。
ラルは気が付いた。今こそ、はっきりと。僕はずっとずっと、守られ、愛されてきた。一匹だったことなんて、一度もなかった。
「ラル!」
開け放たれた玄関からずっと恋しかったひとが駆けて来る。ラルを抱き寄せていた腕が緩み、ラルは「かあさん」と彼女を呼んだ。その女性は、母さんは、ラルの傍まで覚束ない足取りで近づき、声をうち震わせた。
「ラル、あなた、どこへ行ってたの」
赤茶けたベリーショートの髪は変わらない。なのに母が幾分も小さくなったように、細くなったように感じる。彼女の肩に触れるラルの手は震えていた。「かあさん」もう一度彼女を呼ぶと、彼女は涙の粒をしとどに頬から転がして「ラル」とラルを抱き寄せた。
「手紙も、電話も、よこさないで。一度も帰って来ないで。どこにいってたの。何をしていたの。……ああ、ラル、らる……」
母の目にもラルの腹が膨れているのは明らかだったのだろう。ラルを抱き寄せた腕の力は加減されていて、けれどその分、母の手は何度もラルの背を撫でた。
「今日はゆっくりしていけるの?」
母はラルの背に手を添えたまま尋ね、ラルはこくりと頷いた。
リビングは懐かしい匂いがした。七年前と変わらない定位置に父が腰掛け、母は台所へ向かう。マグカップにたっぷりと注がれたあたたかなミルクを二口飲んでから、ラルは着ていた上着を脱いだ。
「あのね、父さん、母さん、僕、赤ちゃんがお腹にいるんだ」
言えば、父はカップを置き、母はラルの隣へ腰掛けた。穏やかだけれど重い足取りの沈黙が過ぎて行く。ここに来た時点で一匹だったラルが今どのような状況にいるのか、この二人には分かってしまうのだろう。
「産まれるのは冬?」
そう尋ねたのは母だった。隣に座った彼女を見やれば、彼女は伏せ目がちにラルのお腹を見つめて微笑んでいる。
「うん。予定日は十一月の真ん中」
「そう。じゃあ、ラルと一緒ね。ラルとスーがこの家に来たときも冬だった。……ガーゼのおくるみの上から、お兄ちゃんたちの毛布で包んでね。家族みんなで家に連れて帰ったのよ」
「うん。何度も聞いてたから、知ってる。もう覚えちゃったよ」
父も母も、ラルが里子だということを隠さなかった。小学校に入学する頃には面と向かって「ラルはお母さんのお腹から来たんじゃないんだよ」と言われたのを覚えている。
――ラルは別のお母さんのお腹にいたんだよ。でもね、私はね、ラルをそのお母さんと同じくらい大切にしようって決めて、このおうちにラルを連れて来たんだよ。ラル、このおうちが、ラルのおうちだからね。ここにいる私が、ラルのお母さんになれたら、私はすごく嬉しい。ラルは母さんの大切な子。ラルは母さんが心から望んでここにいるんだよ。
ラルは嬉しかった。上の兄姉たちを見て、自分もそうなのではないかと思っていたから。その兄姉たちが父と母からたっぷりと愛情を受けて大きくなったことを、ラルは知っていたから。
「お産はどこで?住んでるところから近いの?」
「うん。住んでるアパートの近くに獣人も診てくれる産科があって。そこで」
「退院したらどうするんだ。……ベビーバスなんかもまだこの家にあるんだよ。子育てのプロもいる。退院したらここに戻って来なさい」
父がたまりかねたように母と子の会話に割って入る。ラルが黙り込む前に、母はからりとした笑い声を立てた。
「ふふっ。子育てのプロ?それって誰のことかしら」
「君だろう。もう十七匹も育ててるんだ。子育てのプロって言ったっていいだろう」
「そうね。数で言えば、そうかもね。……でも、出産は初めてよ」
母は眉根を寄せて微笑みラルを見つめた。
「ラル。どうか、あなたの生きたいように生きて。後悔したっていい。悩んだっていい。でも、くじけそうになったらここに戻っていらっしゃい。その時は、いつでも、いつまででも、ここにいて。……あなたのお腹にいるのなら、この子も私の家族よ」
重ねられた手は、皺が増えて、痩せて、けれど変わらない温みがあった。
「私、この冬には、おばあちゃんになっちゃうのね。……本当に、あなたたちには与えられてばかり。どうしてかしら……」
ささやかな、けれど温かな祝福がまだ生まれてもいない命に降り注ぐ。
「母さん」ラルは母に向き直る。「お腹、なでてあげて」
母は両手を伸ばし、お腹を包み込むように手のひらを添わせた。「まあ、大きい。中の赤ちゃんはきっと春キャベツくらいよ。ねえ、父さん」その言葉にミメイがちらつき、ラルは思わず笑ってしまった。
「母さん」
「なに?」
お腹を撫でる手つきは幼いラルの頭を撫でた仕種によく似ていた。
彼女は完璧な母親だった。ラルにはそう見えた。だから心配だった。いつか母が壊れてしまうのではないかと怯えていた。
「母さん、僕らがこの家に来て、しあわせだった?」
母は浅く首を傾げ「しあわせかあ」と呟いた。「ラルももう大人だものね。正直に言うね」再びラルと母の手と手が重なる。
「ラルがこの家に居た頃は、一番里子の数が多かった時期でね。だから母さん、本当に必死だった。あなたたちをこの家に連れて来たのは私なのに、子育てしてたら、悲しいことも、つらいことも時々あって。隠れてお風呂場で泣いたりしてね。……自分に言い聞かせるようにあなたたちに言ってた。あなたたちのしあわせが、私のしあわせだって」
ぎゅう、と手に力がこめられる。ラルはようやく「そうだったんだ」と応えた。
「でもね」
伏せていた彼女の視線が上がる。その瞳は、温かく潤んでいた。
「今なら分かる。あの時、私、しあわせだったの。あなたたちにしあわせにしてもらったとか、そういうのじゃない。私が、しあわせだったの。ただしあわせだったの。……いま思い出すとね、楽しかったり嬉しかった思い出ばっかり。お風呂場で泣いてたことは覚えてるんだけど、どうしてそうしたんだっけって、つらかったことは思い出せないの」
母さんはしあわせだったのか。そう思うと、ラルの身体から力が抜けて行った。
「ラル、あなたもそのうちに分かるわよ。私に出来なかったことを、あなたは今から経験するんだもの。それは痛みを伴うことだけど、尊いことよ。私はあなたが心から羨ましい。……妊娠おめでとう」
母を抱き寄せると、これ以上力を込めたら壊れてしまうのではないかと思えるほど華奢な身体で、ラルは涙を堪えきれなかった。
「家はどの辺にあるんだ?」
畑で取れた野菜と今年収穫した新米を車の後部座席へ積み込む父。外に出たラルはその荷物の多さに笑ってしまった。
「やだもう、あなた、こんなにどうするのよ、いくら冬だからってやり過ぎよ」
「いいだろう、このくらい。赤ちゃんが産まれたらそう簡単には買い物に出られない」
「……ばかねえ。赤ちゃんが産まれたら料理どころじゃないわよ。ねえラル」
ラルと母は顔を見合わせて笑い、父は腕を組んで「ふん」と鼻を鳴らした。父のことだからこの機に乗じてアパートの住所をひかえる気でいるのだろう。けれどラルは構わなかった。
いま一匹で生きているとしても、誰かの手を借りていなければ自分は一匹で立てるまでになれなかった。きっとこれまでも、これからも、一匹じゃない。一匹だけど、一匹じゃない。
助手席に乗り込みシートベルトを締めると母が窓を叩いた。「なに?」母はまるで少女のように嬉々とした表情で紙袋を差し出した。
「これ。あなたを包んで帰ったおくるみなの。この子に使ってあげて。……十一月にはいつでも帰って来ていいように部屋を用意して待ってるから、困ったらいつでも帰って来なさい。家の鍵はいつもの場所に置いとくからね」
いつもの場所、というのは、玄関前の植木鉢の下のことだ。「もう。今もそんなところに合鍵を置いてるの?不用心だよ」ラルは眉を顰め、母は悪戯っぽく微笑んだ。「行くぞ」父がぶっきらぼうに呟くと、母は手を振りながら車から離れて行った。
「ああは言うけど、母さんは君が心配なんだからな」
「……うん」
「赤ちゃんが産まれたら連絡しなさい。あれだけ母さんを心配させたんだ、そのくらいはしなさい。分かったね、ラル」
「うん」
サイドミラーに手を振っている母の姿が映り込む。ラルはくもぐってしまう言葉をぐっと飲み込んで雨の降りしきる夜闇の向こうを見つめた。「僕も、来月にはおじいちゃんか」そう呟いた父の横顔は、母に比べて頑なだったけれど、ほんの少し、綻んでいた。
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すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
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見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
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