不貞の使者は、おれに傅く一途な雛鳥

野中にんぎょ

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いちずのひと

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「ゆきが」
 朝の早い光子がカーテンに手を添えて呟いた。俺は介護ベッドの横に敷いた布団の中から視線を上げる。
「雪が降ってるのか?どうりで冷えると思った」
 ゆっくりであれば歩行もおぼつかなくなってきた彼女だが、起き抜けや夕方は痺れがひどくなる。俺は身体を起こし彼女に寄り添った。
 レースカーテンの向こうを見やれば、音もなく雪が舞っている。「きれいね」光子は窓の向こうを眺めてぽつりと呟いた。こんな日に思い出す記憶があるのだろう。
 奏多がいなくなって季節が二度変わった。年も明け、俺たちは二人だけで静かな正月を過ごした。光子は奏多がいなくなったことを「さびしいけど、しょうがないね」と溜息と共に受け止めた。あの気丈な光子が数日食欲をなくし、寂しそうにベッドから外を眺めている姿を見ると、俺の胸も締め付けられた。
 俺は光子の居る部屋に小さな炬燵を出してそこで漫画を描いている。自室に籠ることはもうない。温かな照明の落ちる部屋にペンを走らせる音が続く。
「リョウ君、なにをかいてるの?」
「ああ、これ?ちょっと読み切りにね。頁数がすごいことになってるんだけど、まあ、ペン入れして気合を見せつけてやろうかって」
 二作も休載している漫画家が何を言ってるんだ。光子はものすごい目で俺を睨んだ。「い、いや、これくらいは誠意を見せなきゃってことで……」光子の前に居る俺はいつもしどろもどろだ。
 光子が家に居るだけでぱっと活気が漂う。俺の人生になくてはならない人間を一人挙げるとするならば彼女だろう。彼女が愛しているのは吾妻リョウだが、彼は俺の半身だ。篠田航大だけでも吾妻リョウだけでも、俺は俺になれない。二つが一つになってやっと一人の人間になれる。それが俺だ。
「奏多に、みせてあげたいね」
 ふと光子が呟く。今でも奏多の話をする時は、彼女の言葉に甘いヴェールが掛かる。ああ、光子は今でもあの子を愛しているんだ。そう感じると、俺は彼女と心の深層で繋がったような心地になる。俺も、そうだよ。あの子を愛してる。……今でも。
「リョウ君、じかん」
 壁掛けの時計を指差す光子。「ああ、いけない、ヘルパーさんは……」「だいじょうぶ。かぎはあけられるから」俺は描いていたものをまとめてトートバックに入れ、その辺に放っていたダウンを羽織った。
「光子、じゃあ、行ってくるよ。何かあったらスマホ鳴らして!」
 四十二にもなって電話を携帯するのが初めての俺がそんなことを言うものだから、光子はベッドの上で砕けたように笑った。
「遅くなってすまないね」
「いや、僕もいま来たばかりで……」
 一度来たことがあるだけの近所の喫茶店。俺に電話で直々に呼び出された担当はぎくぎくした笑顔で俺を出迎えた。もちろん、俺は彼以上にぎくぎくしていた。
 いかん、名前が分からない。自分の担当だというのに、それも、もう五年ほど担当してくれているというのに、俺は彼の名前が分からなかった。「あー……、何か頼む?ここは俺が持つよ」なけなしの社交性を引っ張り出してメニュー表を勧めると、彼は先ほどの光子のように笑った。
「藤田ですよ、吾妻先生」
 あまりにばつが悪く、俺はメニュー表から顔を上げ視線を彷徨わせた。「吾妻リョウです。よろしくお願いします」「担当の藤田です。よろしくお願いします」俺たちはバディ六年目にして初めて膝を突き合わせた。
「あの……。はじめに。勝手なことばかりして、申し訳ありませんでした」
 頭を下げる俺を、藤田は黙って見つめた。俺が頭を上げるのを待って、彼は唇を噛み静かに息を吐いた。
「大丈夫ですよ。おあいこです。僕も、先生に言われて気付きました。編集の仕事を、僕はしていなかった。どう描かせるかどう読ませるかとばかり考えていました。僕も、長い間、申し訳ありませんでした」
 俺も黙って藤田の頭が上がるのを待つ。旋毛が上がり前髪が揺れ眼差しがかち合った次の瞬間に、俺は大量の原稿用紙を彼の前に突き出した。
「休載していた『蒼穹の聲』のこの先の十話のペン入れ済みの原稿と、その後十話の下書きです」
 これには藤田も目が点になっていた。「お待たせいたしました、アメリカンのお客様……」「あ、ああ、僕です」店員から珈琲を受け取り、俺たちは再び睨み合う。
「お休みされていたのでは……?」
「妻の介護の合間に描いて描いて描きまくったよ。もちろん、君が読んでしっくりこないのであれば手直しするつもりだ」
「いや、あの、僕が手直しするようなことが……あるかないかは分かりませんが、その……」
 原稿に伸びた藤田の手からひょいと紙の束を奪う。俺たちはみたび、睨み合った。「これを渡すには条件がある」「……条件?」俺は原稿用紙の束を下げ、一つの茶封筒を取り出した。
「これを読んでみてくれないか」
「……漫画ですか?」
「そう。漫画だ。これを読んでほしい。……もし君が納得するものだったら、世に出してほしい」
 藤田の瞳がきろりと光る。漫画を愛する者の目だ。彼は茶封筒に飛びつき、フラップを跳ねて中身を手早く取り出した。「読み切りですか?」「うん」「百ページ超えてます?」「百二十三頁だね」「……俺、読むのは早い方なんですけど……、ちょっと時間もらいます。この場で読ませてもらっても構いませんか?」「もちろん」僕、が、俺、に変わった。俺はほくそ笑みながら足を組んで珈琲を啜った。
 けれど、自信はない。
 少年漫画のコミックエフでは、戦えない代物だろう。
 でも、誰かに読んでもらいたい。
 こんなにも心細く、けれど狂ったように燃え盛る気持ちを、一体どこにぶつければいいのだろう。認められないかもしれない、受け止めてもらえないかもしれない、けれど描かずにはいられなかった。この作品を読んでほしい。できれば、この作品を、心から愛してくれる誰かに。
 最後の頁を見つめ、藤田は眉間を揉んだ。もう一度読む気なのだろう。最初の頁に戻り、次は上から下まで舐めるように読んでいる。
 いくらでも読めよ。この漫画のよさは、一度では分からない。与えられるばかりの俺が、与えてくれた君に、いま与えられるものは何かと、必死になって手づから生んだこの作品を、一度読んで終わりにはさせない。
「……なんていうか、エフではやれませんね」
「うん、分かってる」
「ヤングエフでも……ちょっとキツいかも」
「……」
「でもなんか……なんつうか……クソ……、マジでなんなんだよ」
 一人の男の顔が見る間にくしゃくしゃになり、真っ赤になった。
「ちくしょう、マジで、なんなんだよ、あんたは天才だ、我儘な上にコミュ障のくせして、天才だ」
 俺はずっと、自分だけが傷ついているのだと思っていた。
 命と心を削って描いている漫画を、ただ読んでいるだけ、ただ載せるだけの人間に腹が立ってしょうがなかった。俺と光子だけの為に描く。そう思って何年も描いてきた。
 けれど奏多に出会って、気付いた。漫画は、漫画でしかない。漫画の外枠から出た世界で生きている人間は、みんな等しく傷ついて、震えている。
 でも、そんな、紙でしかない、物語でしかない漫画を、俺は愛してる。俺は、漫画が描きたい。俺の漫画を、誰かに読んでもらいたい。
「こんなん載せないわけ、いかないでしょ。俺が意地でもねじ込みますよ。ヤングエフでいいですか?」
「ウェブとかでもいいよ。さすがにこの頁数はきついでしょ」
「俺が紙で出したいんです。ウェブじゃ伝わらない。絶対に紙で刷らせます。でなきゃ、もうこの仕事辞めますよ。これを紙で刷れないなら何を刷るって言うんだよ」
「……最終的には紙になるでしょ。読み切り描くの楽しかったし、俺ももっと描きたいよ。最終的な判断は藤田君に任せるけど」
 洟を啜り、藤田は笑った。「じゃ、紙っすね。……約束ですからその大量の原稿も頂けます?俺がどれだけ編集長のシバキに耐えたと思ってるんですか」「んじゃあ、そのご褒美ってことで」トートバッグごと原稿を渡すと、俺は珈琲を飲み干し五千円札を机に置いた。
「じゃあ、妻が家で待ってるから」
「最後に一ついいですか?」
 からん。冬場に頼んだアイスコーヒー。空のグラスの中で氷が音を立てる。
「これって、実話ですか?」
「……藤田君。いいことを教えてあげよう。私小説はファンタジーよりファンタジーなんだよ。野暮なことは言わないでほしい」
「つうことは、実話?……このカナタって子は、男?女?」
「ちんこついてたでしょ、男だよ」
「……やっぱ、グランドエフでいいっすか?ヤングエフ……無理かもっす。まあ、ねじ込んではみますけど」
 俺は声を立てて笑い、藤田にぱっと手を振った。「じゃあ、後はよろしく頼むよ」藤田も俺に応え、手を上げる。
 奏多に捧げるこの漫画を、奏多は読んでくれるだろうか。
 君の愛に応えられなかった俺の、精一杯の答えだよ。
 いちずな、愛のひと。愛しい君を、俺は漫画の中でもう一度、きつく抱きしめた。

【終】
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