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土砂降りの夜の訪問者(下)
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「えっ……、あっ、ぼ、僕こそ、すみません……!」
慌てて身体を離すと、その拍子に再び転びそうになり、「落ち着きなさい」と叱られながら抱き寄せられてしまった。世良は雫が背を伝っていくのを感じながら、全身を熱くした。
「すぅちゃんはっ、」
「直なら少し前に眠った。……君は?怪我はない?今のように浴室で転んだりしてないか?」
ぶるぶると首を振ると、真っ直ぐな瞳と眼差しが通った。世良は息を飲み、互いの胸の間で折った腕からゆるゆると力を抜いた。
譲司の胸からは、温かな日向の匂いがした。首を捻ると彼の胸に頬をすり寄せたようになってしまい、世良はピタリと動きを止めた。
鍵盤の上を羽ばたくようにして滑っていたあの指が、伝う雫を掬うように世良の背を撫で上げる。世良は瞳をきつく閉じた。素肌に触れられるなんて、もう何年もなかったことで、いま背を撫でた手は譲司のもので……。
「無事ならよかった。……ほら、身体を拭いて着替えなさい。ドアの向こうで待っているから」
譲司は世良から身体を離し、ドアの向こうに消えた。世良は鳴りやまない深い鼓動を持て余し、湯船に浸かっていた時以上に熱くなった身体をおずおずと拭った。濡れた髪のまま脱衣所を出ると、譲司はそこにいてくれた。……そんな譲司を見止めると、世良の胸がぐあっと苦しくなった。
なんで、この人は、こんなに……。
世良は譲司のいる視界を熱くした。僕を心配して来てくれた。僕を待っていてくれた。
「ほら、行こう。君も疲れただろう」
優しく肩を抱かれると、その場にくずおれそうになった。世良は肩を縮こまらせ、首筋に熱い汗を滲ませた。
「この箱の中身は本か?」
茶の間に入ると、譲司は段ボール箱を指差した。世良はハッとした。本棚に残した一枚のCDのことが頭を過った。
「藤巻さん、ごめんなさい、僕、勝手に、あなたの……」
頭を下げようとすれば、譲司はCDを打見して世良の肩に触れた。譲司の体温がリネンのパジャマ越しに伝わって、世良は睫毛を震わせた。
「それも気になるが……。今はその話をしているんじゃない。これは、直のために?」
世良は眼差しを伏せ、「この子には、ピアノが必要なんです」と訴えた。
「藤巻さんの言った通りだって、僕、やっと気が付いたんです。この子、ピアノがもっと好きになる。ピアノはきっと、この子の孤独を生涯癒し続けてくれる」
譲司は世良の瞳の奥を覗き込み、「だからといって、」と語気を強めた。「いいんです」世良もそれに負けまいと声に力を込めた。
「この子は聡く勇敢な子で、だからこそ傷つきやすい。羽を休められる場所が、自分の世界を自由に羽ばたける時間が、必要なんです。ピアノはきっと、そういうものをこの子に与えてくれる……。僕が……、」
僕が、小説を、物語を愛し、それに救われたように。
一息で言い切ると、世良の肩から力が抜けた。視界が滲んで目尻でほどけ、つうと雫が伝う。
「泣くんじゃない……」
譲司は苦しそうに眉を歪め、指先で世良の涙を拭った。泣くのを許された心地になって、世良は次々と涙をこぼした。
「君の気持ちは分かるよ。でも、君の心の一部をそんなふうに手放したりするな」
「う、でも、この子には、要るんです。僕には、この子にしてあげられることが、ほんの少ししか、」
「君は、本当は、書きたいんだろう」
ほんとうに、なんで、この人は……。
世良は面を上げ、心にあった小さな、けれど決して塞がることのない穴に触れたその言葉を、「だったら、なんですか」と固い声で跳ねのけた。
「あなただって言ったでしょう。僕は小説に選ばれなかった」
「……ほら、本当は、書きたかったんじゃないか」
「書きたいのと、書くのは違います。僕は、もう書けない。……僕は書くことを愛しきれなかった。僕はもう、物語を書くに値しない」
涙を流しながら絞り出すように恨み言を吐けば、譲司は表情を緩めて、寝息を立てている直に視線をやった。
「この子の負けん気も、頑固も、君譲り。君たちは、本当に親子なんだな」
心に火の粉が散る。
なにも知らないくせに。
すぐ背後から追い立てて来る生活や、嘗め尽くした苦渋、もうこれ以上愛せるものはないだろうと信じていたものとの決別、粉々になるまで砕けたプライドのことも!何一つ知らないくせに!
両手で拳を握って譲司を睨めば、譲司は世良の頬を指先で撫でた。顎に光る涙の粒から、その軌跡、熱く潤んだ瞳を、譲司の眼差しが撫で上げていく。
「きれいだ」
譲司はどこか恍惚として呟いた。
「瞳に火がついてる。笑っている君もそれはそれでいいが……。こういう君も、いい」
世良は唇を噛み、譲司の手を払いのけた。ふうふうと息が上がって、薄い肩が大きく上下する。譲司はそんな両肩に触れ、世良を抱き寄せた。
「こんなものを胸の奥にずっと秘めておくなんて。ママをいじめるんじゃないと、直が怒るはずだ。……世良君、もう一度謝らせてくれ。君のたいせつなものを、君を、愚弄して、悪かった……」
世良の瞳から、堰を切ったように涙が滴る。譲司の温みで心の奥の凍てついたものが融けて、それが瞳から流れ出ているようだった。
ペンを握って佇んでいた一人ぼっちの自分を抱き止められ、世良はやっと「どうすればいいのか分からない」と本心を吐露した。
「僕、すぅちゃんをこの家に迎えた時、絶対にこの子をしあわせにするんだって、これからはこの子のしあわせのために生きようって、決めたんです。なのに、僕、いつまでも……、」
「直は、母親らしい君を愛しているんじゃないぞ」
譲司と世良は見つめ合った。
「直は、君がたいせつにしているものをよく知ってる。だから、君のたいせつなものを踏みにじった私に怒りを燃やしたんだ。あの子は、物語を愛しているそのままの君を、愛してる。……直は子どもだ。確かに庇護の必要な場面もあるだろう。けれど、庇護されているばかりじゃない。直は強い。それを、君が一番よく知っているんじゃないのか」
直はいくらでも可愛くて、いくらでも世話を焼けた。
けれど、小説を忘れることは、できなかった。
直を愛してる。小説も愛してる。両立なんてできない。この腕には一つのものしか抱えられない。打ち捨てたものを拾う気になど、今更なれなかった。なのに……。
「君はそのままでいい」
「そのままの」。「ありのままの」。その言葉を拒絶している自分がいた。けれど、その言葉に直を重ねれば、ずっと「ありのままで」いてほしいと、心から願ってしまう。
ずっと許せなかったのは、誰かでなく、自分だった。直を愛しているのに、書かなくなっても変わらずに小説を愛し恋しく思っている自分が憎かった。そういう自分を、「ありのまま」だと認めるのが、怖かった。
「書けるんでしょうか、こんな僕に……。もう、何が書きたいのか分からない」
「書けるさ。今の君の物語が」
譲司はこともなげに言い、真っ直ぐに世良を見つめた。
「直のいる君だからこそ、“生活”している君だからこそ、書けるんだ。……確かに、今の君が書くのは読んで心地の良い夢物語じゃなく、苦みの勝った現実だろう。けれどだからこそ、説得力と意味がある。そういう君の物語に、心打たれる人が必ずいる。……まずは、書きたい自分を認めてみたらどうだ。書きたい書きたくないと葛藤ばかりしていたらそれだけで疲れてしまう。ちょっと羽を休めなさい。そうすればじきに書きたくなるよ、君なら」
「あなたなんて、僕のことなんか……、」
僕のことなんか、何も知らないくせに。僕のことなんか、どうでもいいくせに。すぅちゃんにピアノを教えはじめたら打見もしてくれないくせに。ピアノを弾くことも忘れるくらいに神野さんとの再会を喜んでいたくせに。
押し留めていた恨めしさが噴き出て、けれど譲司を責めることはできなかった。
あなたの前で『ことりのうた』を歌った日。胸の鼓動がうるさかったのは、僕もあなたの声を素敵だと思ったから。そして今はもう、あなたのことをこんなにも――。
「ほら、駄々を言わずに横になって。眠くなるまで少し話そう」
譲司は世良を布団に横たわらせ、タオルケットを掛けた。世良は隣に横になった譲司を見つめ、泣きたくなるのを堪えた。
「勝手に藤巻さんのCDを買って……、すみませんでした」
「いいや。ソロの分でよかったよ。私はその昔、ちょっと……なんというか。身の丈に合わない活動をしていて。神野はその時の相棒だ」
「“バイナリースター”?」
ずっと気になっていた単語を口に出せば、譲司は観念したように頷いた。
「そう。もうずいぶん昔の話だが、作曲は私、演奏は神野、たまに連弾やアンサンブルという形で、“バイナリースター”というユニットで活動していて。その時のCDでなくてよかった。……知っていたのか?」
世良は首を振りながら胸を撫で下ろした。そうか、そういう意味での「相棒」だったのか……。心に温みが戻っていくのを感じ、世良は急に恥ずかしくなってタオルケットを口元に引き寄せた。
「神野と私は同じ師から音楽を学んだ。それが私の祖父だ。彼は有名な作曲家だったんだが……、その辺りは知ってる?」
譲司は口端を上げて尋ね、世良は小さく頷いた。
「職場のパートさんが神野さんのファンで。新しいアルバムが出た時に、いろいろと教えて下さって……」
「ああ、ヤツは見てくれとピアノだけは良いからな。コンビを組んでいた当時もファンのほとんどが神野目当てだった。ほら、ミオンで声を掛けてくれた女性も、神野のことを言っていただろう。私はこんななりだし、愛想もないしね」
世良はその言葉を聞いて、パッと起き上がった。
「そんなこと!藤巻さんだって、十分……、」
一拍遅れて、譲司の表情がほどける。言おうとしていた言葉を飲み込み、世良は口を噤んで横になった。
「神野さんを放っておいて大丈夫なんですか。心細い思いをしているかもしれないのに」
「昨日から古い酒を引っ張り出してはかっくらっていたから、今頃鼾をかいて寝転がってるよ。あいつはパリでスリに遭っても自力で犯人から財布を取り戻した男だ。嵐なんぞ屁でもないさ」
その光景がありありと浮かび、世良は思わず噴き出した。いけない、と口元をタオルケットで押さえたけれど、譲司は笑みを深めて世良の頬を指先でくすぐった。
「う、なに、くすぐったいです」
「ほら、頬が柔らかくなった。君には笑顔が似合う」
直と同じように扱われ、世良は悩ましい気分になった。こんなにも子ども扱いされてしまうほど歳の差があるのだろうか。
「子ども扱いしないでください」
訴えればぐずるような声になってしまい、世良はその失態を埋めるように譲司を睨んだ。譲司は指先を世良の顎の下に伝わせて、離した。
「そんなこと、分かってる。君は私と同じ、大人の男だよ」
譲司の面に浮かんでいた笑みが消え、けれど眼差しは温かく潤んでいる。世良はその眼差しに心を絡め取られて、何も言えなくなった。譲司はごろんと仰向けになり、全身から集めたような息を吐いた。
「世良君、何か歌って」
「歌?……子守歌ですか?」
「なんだ?君の方が私を子ども扱いしているじゃないか。……まあ、いいよ、それで。子どもの私に、子守歌を一曲歌ってくれ」
譲司が穏やかに瞼を下ろしているのを見ると、なんでもしてあげたいという気持ちになって、世良は深く息を吸い込んだ。
「きらきらひかる おそらのほしよ まばたきしては みんなをみてる……」
口ずさむと、譲司は白い歯を見せて微笑んだ。満たされたような横顔に、世良ははじめに感じていた恥ずかしさも忘れ、声のボリュームを上げてはっきりと歌った。
「……いいね。もう一曲ほしい」
「一曲って言ったじゃないですか」
「たのむよ、この歳で子守歌を歌ってもらえることなんて、そうないから」
殊勝におねだりされ、世良はあっさりと負けてしまった。「うそつき……」唇は悔し紛れに譲司を詰り、けれど頭は次は何を歌おうかと考え始めている。
「ほしはね ほしはね やがてうまれるこどもたち だからあんなにうつくしい」
譲司はパッと瞼を上げ、世良を見つめた。
「ほしのね ほしのね ことばをきくのはみみじゃない きみのおめめできくんだよ」
歌い終えると、譲司は囁くように「これは最近の童謡?」と尋ねた。「たぶん、そうです。テレビで聴いて、メロディーも詩も素敵だなって」譲司は世良を深く見つめたまま頷き、「私もそう思う」と言った。
「ことりのうた……」
譲司がもう一度瞼を下ろし呟く。世良は彼に応えて息を吸った。
「ことりはとってもうたがすき かあさんよぶのも うたでよぶ……」
歌い終わってしばらくしても反応がなく、恐る恐る譲司の顔を覗き込むと、彼は寝息を立てていた。世良は上半身を起こし、譲司の右目の下にある黒子に触れた。「ふ」譲司は瞼を下ろしたまま笑い、世良の背と項に腕を回して引き寄せた。
「君の声は良い」
譲司の腕の中は肌の甘い匂いがして、それに包まれると、胸から心臓が飛び出してしまいそうになった。さらさらと髪を梳くように撫でられ、「もう寝なさい」と耳元へ囁かれる。こんな状態で眠れるわけがないと四肢をばたつかせると、今度は宥めるように背を摩られた。
爪先にまた別の爪先が触れ、温みが移っていく。世良は泣き疲れた子どものように深い息を吐き、瞼を下ろした。
慌てて身体を離すと、その拍子に再び転びそうになり、「落ち着きなさい」と叱られながら抱き寄せられてしまった。世良は雫が背を伝っていくのを感じながら、全身を熱くした。
「すぅちゃんはっ、」
「直なら少し前に眠った。……君は?怪我はない?今のように浴室で転んだりしてないか?」
ぶるぶると首を振ると、真っ直ぐな瞳と眼差しが通った。世良は息を飲み、互いの胸の間で折った腕からゆるゆると力を抜いた。
譲司の胸からは、温かな日向の匂いがした。首を捻ると彼の胸に頬をすり寄せたようになってしまい、世良はピタリと動きを止めた。
鍵盤の上を羽ばたくようにして滑っていたあの指が、伝う雫を掬うように世良の背を撫で上げる。世良は瞳をきつく閉じた。素肌に触れられるなんて、もう何年もなかったことで、いま背を撫でた手は譲司のもので……。
「無事ならよかった。……ほら、身体を拭いて着替えなさい。ドアの向こうで待っているから」
譲司は世良から身体を離し、ドアの向こうに消えた。世良は鳴りやまない深い鼓動を持て余し、湯船に浸かっていた時以上に熱くなった身体をおずおずと拭った。濡れた髪のまま脱衣所を出ると、譲司はそこにいてくれた。……そんな譲司を見止めると、世良の胸がぐあっと苦しくなった。
なんで、この人は、こんなに……。
世良は譲司のいる視界を熱くした。僕を心配して来てくれた。僕を待っていてくれた。
「ほら、行こう。君も疲れただろう」
優しく肩を抱かれると、その場にくずおれそうになった。世良は肩を縮こまらせ、首筋に熱い汗を滲ませた。
「この箱の中身は本か?」
茶の間に入ると、譲司は段ボール箱を指差した。世良はハッとした。本棚に残した一枚のCDのことが頭を過った。
「藤巻さん、ごめんなさい、僕、勝手に、あなたの……」
頭を下げようとすれば、譲司はCDを打見して世良の肩に触れた。譲司の体温がリネンのパジャマ越しに伝わって、世良は睫毛を震わせた。
「それも気になるが……。今はその話をしているんじゃない。これは、直のために?」
世良は眼差しを伏せ、「この子には、ピアノが必要なんです」と訴えた。
「藤巻さんの言った通りだって、僕、やっと気が付いたんです。この子、ピアノがもっと好きになる。ピアノはきっと、この子の孤独を生涯癒し続けてくれる」
譲司は世良の瞳の奥を覗き込み、「だからといって、」と語気を強めた。「いいんです」世良もそれに負けまいと声に力を込めた。
「この子は聡く勇敢な子で、だからこそ傷つきやすい。羽を休められる場所が、自分の世界を自由に羽ばたける時間が、必要なんです。ピアノはきっと、そういうものをこの子に与えてくれる……。僕が……、」
僕が、小説を、物語を愛し、それに救われたように。
一息で言い切ると、世良の肩から力が抜けた。視界が滲んで目尻でほどけ、つうと雫が伝う。
「泣くんじゃない……」
譲司は苦しそうに眉を歪め、指先で世良の涙を拭った。泣くのを許された心地になって、世良は次々と涙をこぼした。
「君の気持ちは分かるよ。でも、君の心の一部をそんなふうに手放したりするな」
「う、でも、この子には、要るんです。僕には、この子にしてあげられることが、ほんの少ししか、」
「君は、本当は、書きたいんだろう」
ほんとうに、なんで、この人は……。
世良は面を上げ、心にあった小さな、けれど決して塞がることのない穴に触れたその言葉を、「だったら、なんですか」と固い声で跳ねのけた。
「あなただって言ったでしょう。僕は小説に選ばれなかった」
「……ほら、本当は、書きたかったんじゃないか」
「書きたいのと、書くのは違います。僕は、もう書けない。……僕は書くことを愛しきれなかった。僕はもう、物語を書くに値しない」
涙を流しながら絞り出すように恨み言を吐けば、譲司は表情を緩めて、寝息を立てている直に視線をやった。
「この子の負けん気も、頑固も、君譲り。君たちは、本当に親子なんだな」
心に火の粉が散る。
なにも知らないくせに。
すぐ背後から追い立てて来る生活や、嘗め尽くした苦渋、もうこれ以上愛せるものはないだろうと信じていたものとの決別、粉々になるまで砕けたプライドのことも!何一つ知らないくせに!
両手で拳を握って譲司を睨めば、譲司は世良の頬を指先で撫でた。顎に光る涙の粒から、その軌跡、熱く潤んだ瞳を、譲司の眼差しが撫で上げていく。
「きれいだ」
譲司はどこか恍惚として呟いた。
「瞳に火がついてる。笑っている君もそれはそれでいいが……。こういう君も、いい」
世良は唇を噛み、譲司の手を払いのけた。ふうふうと息が上がって、薄い肩が大きく上下する。譲司はそんな両肩に触れ、世良を抱き寄せた。
「こんなものを胸の奥にずっと秘めておくなんて。ママをいじめるんじゃないと、直が怒るはずだ。……世良君、もう一度謝らせてくれ。君のたいせつなものを、君を、愚弄して、悪かった……」
世良の瞳から、堰を切ったように涙が滴る。譲司の温みで心の奥の凍てついたものが融けて、それが瞳から流れ出ているようだった。
ペンを握って佇んでいた一人ぼっちの自分を抱き止められ、世良はやっと「どうすればいいのか分からない」と本心を吐露した。
「僕、すぅちゃんをこの家に迎えた時、絶対にこの子をしあわせにするんだって、これからはこの子のしあわせのために生きようって、決めたんです。なのに、僕、いつまでも……、」
「直は、母親らしい君を愛しているんじゃないぞ」
譲司と世良は見つめ合った。
「直は、君がたいせつにしているものをよく知ってる。だから、君のたいせつなものを踏みにじった私に怒りを燃やしたんだ。あの子は、物語を愛しているそのままの君を、愛してる。……直は子どもだ。確かに庇護の必要な場面もあるだろう。けれど、庇護されているばかりじゃない。直は強い。それを、君が一番よく知っているんじゃないのか」
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けれど、小説を忘れることは、できなかった。
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「君はそのままでいい」
「そのままの」。「ありのままの」。その言葉を拒絶している自分がいた。けれど、その言葉に直を重ねれば、ずっと「ありのままで」いてほしいと、心から願ってしまう。
ずっと許せなかったのは、誰かでなく、自分だった。直を愛しているのに、書かなくなっても変わらずに小説を愛し恋しく思っている自分が憎かった。そういう自分を、「ありのまま」だと認めるのが、怖かった。
「書けるんでしょうか、こんな僕に……。もう、何が書きたいのか分からない」
「書けるさ。今の君の物語が」
譲司はこともなげに言い、真っ直ぐに世良を見つめた。
「直のいる君だからこそ、“生活”している君だからこそ、書けるんだ。……確かに、今の君が書くのは読んで心地の良い夢物語じゃなく、苦みの勝った現実だろう。けれどだからこそ、説得力と意味がある。そういう君の物語に、心打たれる人が必ずいる。……まずは、書きたい自分を認めてみたらどうだ。書きたい書きたくないと葛藤ばかりしていたらそれだけで疲れてしまう。ちょっと羽を休めなさい。そうすればじきに書きたくなるよ、君なら」
「あなたなんて、僕のことなんか……、」
僕のことなんか、何も知らないくせに。僕のことなんか、どうでもいいくせに。すぅちゃんにピアノを教えはじめたら打見もしてくれないくせに。ピアノを弾くことも忘れるくらいに神野さんとの再会を喜んでいたくせに。
押し留めていた恨めしさが噴き出て、けれど譲司を責めることはできなかった。
あなたの前で『ことりのうた』を歌った日。胸の鼓動がうるさかったのは、僕もあなたの声を素敵だと思ったから。そして今はもう、あなたのことをこんなにも――。
「ほら、駄々を言わずに横になって。眠くなるまで少し話そう」
譲司は世良を布団に横たわらせ、タオルケットを掛けた。世良は隣に横になった譲司を見つめ、泣きたくなるのを堪えた。
「勝手に藤巻さんのCDを買って……、すみませんでした」
「いいや。ソロの分でよかったよ。私はその昔、ちょっと……なんというか。身の丈に合わない活動をしていて。神野はその時の相棒だ」
「“バイナリースター”?」
ずっと気になっていた単語を口に出せば、譲司は観念したように頷いた。
「そう。もうずいぶん昔の話だが、作曲は私、演奏は神野、たまに連弾やアンサンブルという形で、“バイナリースター”というユニットで活動していて。その時のCDでなくてよかった。……知っていたのか?」
世良は首を振りながら胸を撫で下ろした。そうか、そういう意味での「相棒」だったのか……。心に温みが戻っていくのを感じ、世良は急に恥ずかしくなってタオルケットを口元に引き寄せた。
「神野と私は同じ師から音楽を学んだ。それが私の祖父だ。彼は有名な作曲家だったんだが……、その辺りは知ってる?」
譲司は口端を上げて尋ね、世良は小さく頷いた。
「職場のパートさんが神野さんのファンで。新しいアルバムが出た時に、いろいろと教えて下さって……」
「ああ、ヤツは見てくれとピアノだけは良いからな。コンビを組んでいた当時もファンのほとんどが神野目当てだった。ほら、ミオンで声を掛けてくれた女性も、神野のことを言っていただろう。私はこんななりだし、愛想もないしね」
世良はその言葉を聞いて、パッと起き上がった。
「そんなこと!藤巻さんだって、十分……、」
一拍遅れて、譲司の表情がほどける。言おうとしていた言葉を飲み込み、世良は口を噤んで横になった。
「神野さんを放っておいて大丈夫なんですか。心細い思いをしているかもしれないのに」
「昨日から古い酒を引っ張り出してはかっくらっていたから、今頃鼾をかいて寝転がってるよ。あいつはパリでスリに遭っても自力で犯人から財布を取り戻した男だ。嵐なんぞ屁でもないさ」
その光景がありありと浮かび、世良は思わず噴き出した。いけない、と口元をタオルケットで押さえたけれど、譲司は笑みを深めて世良の頬を指先でくすぐった。
「う、なに、くすぐったいです」
「ほら、頬が柔らかくなった。君には笑顔が似合う」
直と同じように扱われ、世良は悩ましい気分になった。こんなにも子ども扱いされてしまうほど歳の差があるのだろうか。
「子ども扱いしないでください」
訴えればぐずるような声になってしまい、世良はその失態を埋めるように譲司を睨んだ。譲司は指先を世良の顎の下に伝わせて、離した。
「そんなこと、分かってる。君は私と同じ、大人の男だよ」
譲司の面に浮かんでいた笑みが消え、けれど眼差しは温かく潤んでいる。世良はその眼差しに心を絡め取られて、何も言えなくなった。譲司はごろんと仰向けになり、全身から集めたような息を吐いた。
「世良君、何か歌って」
「歌?……子守歌ですか?」
「なんだ?君の方が私を子ども扱いしているじゃないか。……まあ、いいよ、それで。子どもの私に、子守歌を一曲歌ってくれ」
譲司が穏やかに瞼を下ろしているのを見ると、なんでもしてあげたいという気持ちになって、世良は深く息を吸い込んだ。
「きらきらひかる おそらのほしよ まばたきしては みんなをみてる……」
口ずさむと、譲司は白い歯を見せて微笑んだ。満たされたような横顔に、世良ははじめに感じていた恥ずかしさも忘れ、声のボリュームを上げてはっきりと歌った。
「……いいね。もう一曲ほしい」
「一曲って言ったじゃないですか」
「たのむよ、この歳で子守歌を歌ってもらえることなんて、そうないから」
殊勝におねだりされ、世良はあっさりと負けてしまった。「うそつき……」唇は悔し紛れに譲司を詰り、けれど頭は次は何を歌おうかと考え始めている。
「ほしはね ほしはね やがてうまれるこどもたち だからあんなにうつくしい」
譲司はパッと瞼を上げ、世良を見つめた。
「ほしのね ほしのね ことばをきくのはみみじゃない きみのおめめできくんだよ」
歌い終えると、譲司は囁くように「これは最近の童謡?」と尋ねた。「たぶん、そうです。テレビで聴いて、メロディーも詩も素敵だなって」譲司は世良を深く見つめたまま頷き、「私もそう思う」と言った。
「ことりのうた……」
譲司がもう一度瞼を下ろし呟く。世良は彼に応えて息を吸った。
「ことりはとってもうたがすき かあさんよぶのも うたでよぶ……」
歌い終わってしばらくしても反応がなく、恐る恐る譲司の顔を覗き込むと、彼は寝息を立てていた。世良は上半身を起こし、譲司の右目の下にある黒子に触れた。「ふ」譲司は瞼を下ろしたまま笑い、世良の背と項に腕を回して引き寄せた。
「君の声は良い」
譲司の腕の中は肌の甘い匂いがして、それに包まれると、胸から心臓が飛び出してしまいそうになった。さらさらと髪を梳くように撫でられ、「もう寝なさい」と耳元へ囁かれる。こんな状態で眠れるわけがないと四肢をばたつかせると、今度は宥めるように背を摩られた。
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ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
BL 男達の性事情
蔵屋
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漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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