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初めてのデート、初めてのケンカ(下)
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クラゲを展示する暗がりのフロアまで来て、世良は譲司に向き直った。揺れる光に照らされて、譲司の赤い頬や潤んだ瞳が時折露になった。
「あなたのことをどうでもいいなんて思ったことは一度もありません」
譲司は眼差しをゆるゆると上げ、唇を結んだまま世良を見つめた。
「欅君と出会ったのは……僕が二十歳の頃で。僕にとってはそれが初めての恋で、幸運なことにその初恋が実って。二人で暮らして、それが三人に増えて。確かに、あれは人生の良い時でした。……でも僕は、あの頃に戻りたいとは思わない」
二十歳の夏。世良は欅に出会った。世良がアルバイトしていた書店に、欅が「篠田七緒」としてやって来たのだ。欅のサイン会は大盛況で、けれど彼は小説家として正念場を迎えていた。ファンの握手に応える彼の顔色は優れなかった。
「僕はその頃、小説投稿サイトに自分の書いた小説を上げていて。それを欅君は読んでいて、おもしろいって、絶対に小説家になれるよって言ってくれて。……僕たち、本の趣味も生い立ちも考え方も似ていて、僕はすぐに恋に落ちました」
恋人関係になって間もなく、欅は世良の部屋に転がり込んだ。欅は、孤独感が強く、体調を天候や対人関係に左右されてしまう身も心も繊細な人で、世良は親身になって彼の世話を焼いた。
小説を書く者として、してはならなかったことだと、今になって思う。
世良はいつしか、欅どころか、「篠田七緒」の世話まで焼くようになった。
ある時を境に、欅の書いた原稿を、世良が推敲し提出するようになっていった。欅はだんだんと、推敲だけでなく、ネタ出し、執筆、果ては担当者とのやりとりまで世良を頼るようになり、最後には――。
「僕の書いた小説を、彼はそのまま、世に出してしまった」
その小説、『まほらを出て』は、あまり評判が良くなかった。欅は何を思ったのか、それ以降、世良を「篠田七緒」の世界から締め出した。
世良のプライドは砕け散った。恋人として、小説家として、そしてなにより、一人の人間として、粉々に砕け散った。
それを察してか、欅は世良に「家を買おう、家族になろう」と言った。世良にはもう欅が何を考えているのか分からず、けれど「家族」という響きは「恋人」という関係をとうに終えた二人に優しくて、世良は二つ返事で頷いた。
ベッドタウンからまた更に山手へ入った土地の中古住宅を購入すると、二人は養子を取ることを思いついた。若さゆえに怖いもの知らずで、愚かだった。子どもが欲しいというよりも、欅と家族になりたい、その一心だった。
世良は書くことを捨て、欅は自力で書き上げた小説が賞を獲った頃だった。二人の家にやって来た女の子を「直」と名付けた日、二人はそれぞれ幸せの絶頂にいた。世良の日常の中で、たった一つ、直だけが強く輝いていた。生まれてすぐに自分の元へやって来てくれた直を、世良はたいせつに、必死に育てた。
これは結果論になるが、その頃の欅には子どものいる生活が合わなかった。
別居を数か月試みても状況は変わらなかった。話し合いを重ね再び別居を試みることにしたが、欅が再び家を出た瞬間にはもう、世良の心は決まっていた。世良は欅より直を想うようになり、彼女の存在と反発してしまう欅を疎むようになっていた。
「彼から離れて行ったんじゃない。別れを切り出したのは、すぅちゃんからパパを取り上げたのは、僕なんです」
クラゲが淡く発光ながら浮遊する。世良はあの日々を冷静に語った自分に驚き、脱力した。
「私はずっと、君をふしぎに思っていた」
二人で長椅子に腰掛けクラゲを眺めていると、譲司がぽつりと言った。
「君たちは知らなかったと思うが、私は逃げるように東京からここへやって来て、君たちの前に現れるずいぶん前からあの屋敷に閉じこもっていて……」
譲司はぼうとした瞳で前を見つめ、世良の手を握った手に力を込めた。
「東京でいる頃、昼夜が分からなかった。部屋は広くて冷たくて、地上より空が近いからか匂いがしなかった。地上に出るとうるさいくらいなのに、部屋に戻るとシンとして、気持ちが悪かった。たった一つのきっかけで、その部屋が……、全てが嫌になった。
世良は空っぽの部屋に立ち尽くした譲司を思い浮かべ、胸を軋ませた。
「こっちの屋敷に逃げ込むと、隣の家には小さな女の子と君が住んでいて……。朝になると、君たちはおしゃべりしながら玄関から出て来て、やがて深緑色の自転車で去って行く。夕方の決まった時間、君たちはバタバタと帰って来て、しばらくするとおしゃべりは聞こえなくなるけれど、家に明かりが灯る……」
「ふふ。うるさかった?」
譲司はすぐに首を振った。
「はじめはそう思った日もあったかもしれない。けれどだんだんと、君たちの声を待ち焦がれるようになった。朝に家から出て来なければどちらかの体調が悪いのかもしれないと心配になって、帰りが遅ければ君たちに何かあったのかもしれないと胸がざわついた。クリスマスの日にはジングルベルの歌が聴こえて来て気持ちが華やいで、夏になって庭にビニールプールが出るとその水色を眩しく思った。……すまない。こんな中年の男に生活を見つめられて、気持ち悪いだろう?」
今度は世良が首を振った。握られた手の上から、もう片手も添えて、「いいえ」と言って微笑む。譲司は「そうか、よかった」と言ってかすかに笑った。
「君たちはずっと二人きりだった。君は常に忙しく動き回っていて、大変そうだった。……なのに君は、ずっと笑っていた。ふしぎだった。なんでこんなに大変そうなのに笑顔でいられるんだろうって、私はずっと……」
譲司は世良の頬に触れた。くすぐるのではなく包むように、手のひらで頬を抱いた。
「君が笑っていたのは、痛みを知っていたからなんだな」
人は感じた痛みの分だけ強く、優しくなれる。というのは、自分には当てはまらなかったと世良は思う。
世良にあるのは、諦念だ。禍福を避けることなど、運命に抗うことなど、一人の人間には決してできない。荒波の渦中にある人間にできることは、目を瞑り生を紡ぐことだけ。泣いても、笑っても、変わらない。……それならば笑っていたい。苦しく涙するよりも、笑って軽やかに今日を生きて、明日を待ちたい。
「僕、あなたの思うような人間じゃない」
「じゃあどんな人間だ?」
二人は顔を寄せて囁き合った。譲司は握った手を引き寄せ、世良の肩に額を預けた。
「教えてくれ。君はどんな人間だ?君はあまりにも私と違っていて、私にないものばかりを持っていて……。こんなにも近くにいるのに、私は君を全くと言っていいほど知らない。……それが歯痒い。君が、もっと知りたい」
世良は譲司の髪を撫で、「僕も」と応えた。譲司の面がゆっくりと上がる。
「僕も、あなたを知りたい。もっと、知りたい」
僕、この人を好きになったんだ。
不安と予感に震えた臆病な瞳を見て、世良は自分の気持ちを受け入れた。
内面と外面がアンバランスな彼を、繊細で無垢で一生懸命な彼を、守りたい。この気持ちは、欅との恋愛にもあったものだけれど、その頃とはずいぶん深さも覚悟も違っていて、世良は戸惑いながら、自分の気持ちを確かめるように譲司の瞳を覗き込んだ。
この人も、いつか僕の元から去るのかもしれない。気持ちも伝えられないまま終わるのかもしれない。この幸せは、ひと時のものなのかもしれない。……それでも構わない。僕が勝手に、この人を愛しているだけだから。
世良は微笑み、いつの間にか始まっていた恋をそっと胸の奥にしまった。
「すぅちゃん、イルカが大好きなんです。イルカのプールに行ってみましょう」
譲司の手を引き、世良は立ち上がった。譲司は世良に応え、手を握ったままクラゲのフロアを後にした。
「藤巻さん、見て。一番前の列に……、」
イルカのプールまで来ると、直はすぐに見つかった。直と欅は最前列に座り、泳いでいるイルカを眺めていた。
譲司の瞳からゆるゆると力が抜け、それから手と手が離れる。譲司の気遣いだと受け取って、世良はチクンと痛んだ胸を宥めた。
「よかった。すぅちゃん、楽しそうにしてますね」
欅は穏やかに直を見つめ、彼女の話に相槌を打っている。直は、はしゃぎこそしないものの、イルカと欅を交互に見つめ、しきりに欅に話しかけている。あの頃にはなかった二人の姿がそこにはあって、欅と直の親子の形を、世良は今ようやく受け止めることができた。
「あの子、欅君とはここに来たがるんです。あのイルカのポシェットも、前に欅君がここで買ってくれたもので。……だからここは、すぅちゃんと欅君のたいせつな場所」
悔しさの滲む譲司の横顔に、世良は思わず笑ってしまった。譲司は世良の笑顔を見て、眉を寄せて微笑み、「帰るか」と言った。
帰りの車内で、譲司と世良は会話を弾ませた。そこにいなくても、二人の会話の中心には直がいて、世良はそれを嬉しく思った。
「世良君、どこか寄ろう、腹が減った」
「いいですね。どこにしましょう。海の見えるお店がいいな」
二人はあてもなく海辺を走り、小さな喫茶店に入った。丸窓から海を一望できる席に案内されると、二人は向かい合って腰掛け、しばらく海を眺めた。
「すてきな場所。こんなお店があったなんて知らなかった」
「君と来なかったら、私はずっと、この景色を知らないままだったんだな」
二人は視線を重ねて微笑み、海の音に耳をすませた。血潮の巡る音にも似た、地球の奏でる音楽だった。
「ただいまあ!」
ちょうど夕食が出来上がった頃にチャイムが鳴り玄関扉を開けると、直が飛び込んで来た。世良は「おかえり」と応え、朝より少し乱れた直の髪を撫でた。
「見て!これ、パパとつくったの!海のスノードームだよ!」
それは、瓶の中にイルカや珊瑚、色とりどりのビーズが入ったもので、瓶をひっくり返すと白いフレークが舞い、まるで海の中に雪が舞っているようだった。
「欅君、ありがとう」
欅を労うと、彼はくすぐったそうにはにかんだ。
「すぅちゃん、細かい作業ができるようになってて驚いた。子どもの成長って早いな。これ、世良におみやげって、すぅちゃんが」
差し出されたお菓子を受け取り、世良は「今日一日、すぅちゃんを、ほんとうにありがとう」と言って欅に深く頭を下げた。
「欅君、ご飯は帰ってから食べる?」
「うん、そうしようかな。……ちょっと今、璃子が熱出してて……、京子も昨日からずっと璃子にかかりっきりで、まいってるかもしれないから……」
世良は「そっか」と言って、視線を伏せた。
欅には今、別の家族があって、女の子が生まれたばかり。欅は変わった。きっと、世良と直が欅に与えられなかったものを、別の人々が与えてくれたからだ。
「そんな大変な時に、ありがとう」
世良は「じゃあ……」と一歩下がった。欅は一瞬眉を歪め、「世良」とあの頃と変わらない声で世良を呼んだ。
「いま、何か書いてる?」
世良は首を振り、けれど、真っ直ぐに欅を見た。
「書けたら、書くつもり」
どこか挑発的な語気に、欅ははじめ不意を衝かれたようになって、けれど「ふはっ」と噴き出し、「そっか、よかった」と言った。世良は欅から目を逸らさなかった。
きっと書く。今の僕が書けるものを。あなたには、決して書けないものを。
玄関扉が閉まると、世良の気持ちにも区切りがついた。僕たち、恋人にはなれたけど、家族にはなれなかったね。世良は昔を懐かしみ、過去にした。
しばらくすると、再び玄関のチャイムが鳴った。鍋の火を止めて玄関に出ると、見知った影が擦りガラスの向こうでソワソワしていた。
「……いや。車が出て行くのが、見えたから。直が帰ったかと、そう思って……」
どこかきまり悪そうな譲司に、世良は相好を崩した。Tシャツとショートパンツに着替えた直がその声を聞きつけて駆けて来る。
「ジョージ君!」
飛び上がって抱きつかれ、譲司はぐらつきながらも両腕で直を受け止めた。
「ねえ、今日ね、水族館に行ったの!それでね、海のスノードームを作ってね……」
譲司は直を抱き上げたまま、彼女の話に耳を傾けた。世良は譲司の腕にツンと触れ、彼の意識を自分へ引いた。
「藤巻さん、よかったら、夕飯を食べて行かれませんか?」
「うん、ご馳走になろうかな」
この人のいる日々を、今はただ感じていたい。世良は譲司が連れて来た温みを漏らさないように、そっと玄関扉を閉めた。
「あなたのことをどうでもいいなんて思ったことは一度もありません」
譲司は眼差しをゆるゆると上げ、唇を結んだまま世良を見つめた。
「欅君と出会ったのは……僕が二十歳の頃で。僕にとってはそれが初めての恋で、幸運なことにその初恋が実って。二人で暮らして、それが三人に増えて。確かに、あれは人生の良い時でした。……でも僕は、あの頃に戻りたいとは思わない」
二十歳の夏。世良は欅に出会った。世良がアルバイトしていた書店に、欅が「篠田七緒」としてやって来たのだ。欅のサイン会は大盛況で、けれど彼は小説家として正念場を迎えていた。ファンの握手に応える彼の顔色は優れなかった。
「僕はその頃、小説投稿サイトに自分の書いた小説を上げていて。それを欅君は読んでいて、おもしろいって、絶対に小説家になれるよって言ってくれて。……僕たち、本の趣味も生い立ちも考え方も似ていて、僕はすぐに恋に落ちました」
恋人関係になって間もなく、欅は世良の部屋に転がり込んだ。欅は、孤独感が強く、体調を天候や対人関係に左右されてしまう身も心も繊細な人で、世良は親身になって彼の世話を焼いた。
小説を書く者として、してはならなかったことだと、今になって思う。
世良はいつしか、欅どころか、「篠田七緒」の世話まで焼くようになった。
ある時を境に、欅の書いた原稿を、世良が推敲し提出するようになっていった。欅はだんだんと、推敲だけでなく、ネタ出し、執筆、果ては担当者とのやりとりまで世良を頼るようになり、最後には――。
「僕の書いた小説を、彼はそのまま、世に出してしまった」
その小説、『まほらを出て』は、あまり評判が良くなかった。欅は何を思ったのか、それ以降、世良を「篠田七緒」の世界から締め出した。
世良のプライドは砕け散った。恋人として、小説家として、そしてなにより、一人の人間として、粉々に砕け散った。
それを察してか、欅は世良に「家を買おう、家族になろう」と言った。世良にはもう欅が何を考えているのか分からず、けれど「家族」という響きは「恋人」という関係をとうに終えた二人に優しくて、世良は二つ返事で頷いた。
ベッドタウンからまた更に山手へ入った土地の中古住宅を購入すると、二人は養子を取ることを思いついた。若さゆえに怖いもの知らずで、愚かだった。子どもが欲しいというよりも、欅と家族になりたい、その一心だった。
世良は書くことを捨て、欅は自力で書き上げた小説が賞を獲った頃だった。二人の家にやって来た女の子を「直」と名付けた日、二人はそれぞれ幸せの絶頂にいた。世良の日常の中で、たった一つ、直だけが強く輝いていた。生まれてすぐに自分の元へやって来てくれた直を、世良はたいせつに、必死に育てた。
これは結果論になるが、その頃の欅には子どものいる生活が合わなかった。
別居を数か月試みても状況は変わらなかった。話し合いを重ね再び別居を試みることにしたが、欅が再び家を出た瞬間にはもう、世良の心は決まっていた。世良は欅より直を想うようになり、彼女の存在と反発してしまう欅を疎むようになっていた。
「彼から離れて行ったんじゃない。別れを切り出したのは、すぅちゃんからパパを取り上げたのは、僕なんです」
クラゲが淡く発光ながら浮遊する。世良はあの日々を冷静に語った自分に驚き、脱力した。
「私はずっと、君をふしぎに思っていた」
二人で長椅子に腰掛けクラゲを眺めていると、譲司がぽつりと言った。
「君たちは知らなかったと思うが、私は逃げるように東京からここへやって来て、君たちの前に現れるずいぶん前からあの屋敷に閉じこもっていて……」
譲司はぼうとした瞳で前を見つめ、世良の手を握った手に力を込めた。
「東京でいる頃、昼夜が分からなかった。部屋は広くて冷たくて、地上より空が近いからか匂いがしなかった。地上に出るとうるさいくらいなのに、部屋に戻るとシンとして、気持ちが悪かった。たった一つのきっかけで、その部屋が……、全てが嫌になった。
世良は空っぽの部屋に立ち尽くした譲司を思い浮かべ、胸を軋ませた。
「こっちの屋敷に逃げ込むと、隣の家には小さな女の子と君が住んでいて……。朝になると、君たちはおしゃべりしながら玄関から出て来て、やがて深緑色の自転車で去って行く。夕方の決まった時間、君たちはバタバタと帰って来て、しばらくするとおしゃべりは聞こえなくなるけれど、家に明かりが灯る……」
「ふふ。うるさかった?」
譲司はすぐに首を振った。
「はじめはそう思った日もあったかもしれない。けれどだんだんと、君たちの声を待ち焦がれるようになった。朝に家から出て来なければどちらかの体調が悪いのかもしれないと心配になって、帰りが遅ければ君たちに何かあったのかもしれないと胸がざわついた。クリスマスの日にはジングルベルの歌が聴こえて来て気持ちが華やいで、夏になって庭にビニールプールが出るとその水色を眩しく思った。……すまない。こんな中年の男に生活を見つめられて、気持ち悪いだろう?」
今度は世良が首を振った。握られた手の上から、もう片手も添えて、「いいえ」と言って微笑む。譲司は「そうか、よかった」と言ってかすかに笑った。
「君たちはずっと二人きりだった。君は常に忙しく動き回っていて、大変そうだった。……なのに君は、ずっと笑っていた。ふしぎだった。なんでこんなに大変そうなのに笑顔でいられるんだろうって、私はずっと……」
譲司は世良の頬に触れた。くすぐるのではなく包むように、手のひらで頬を抱いた。
「君が笑っていたのは、痛みを知っていたからなんだな」
人は感じた痛みの分だけ強く、優しくなれる。というのは、自分には当てはまらなかったと世良は思う。
世良にあるのは、諦念だ。禍福を避けることなど、運命に抗うことなど、一人の人間には決してできない。荒波の渦中にある人間にできることは、目を瞑り生を紡ぐことだけ。泣いても、笑っても、変わらない。……それならば笑っていたい。苦しく涙するよりも、笑って軽やかに今日を生きて、明日を待ちたい。
「僕、あなたの思うような人間じゃない」
「じゃあどんな人間だ?」
二人は顔を寄せて囁き合った。譲司は握った手を引き寄せ、世良の肩に額を預けた。
「教えてくれ。君はどんな人間だ?君はあまりにも私と違っていて、私にないものばかりを持っていて……。こんなにも近くにいるのに、私は君を全くと言っていいほど知らない。……それが歯痒い。君が、もっと知りたい」
世良は譲司の髪を撫で、「僕も」と応えた。譲司の面がゆっくりと上がる。
「僕も、あなたを知りたい。もっと、知りたい」
僕、この人を好きになったんだ。
不安と予感に震えた臆病な瞳を見て、世良は自分の気持ちを受け入れた。
内面と外面がアンバランスな彼を、繊細で無垢で一生懸命な彼を、守りたい。この気持ちは、欅との恋愛にもあったものだけれど、その頃とはずいぶん深さも覚悟も違っていて、世良は戸惑いながら、自分の気持ちを確かめるように譲司の瞳を覗き込んだ。
この人も、いつか僕の元から去るのかもしれない。気持ちも伝えられないまま終わるのかもしれない。この幸せは、ひと時のものなのかもしれない。……それでも構わない。僕が勝手に、この人を愛しているだけだから。
世良は微笑み、いつの間にか始まっていた恋をそっと胸の奥にしまった。
「すぅちゃん、イルカが大好きなんです。イルカのプールに行ってみましょう」
譲司の手を引き、世良は立ち上がった。譲司は世良に応え、手を握ったままクラゲのフロアを後にした。
「藤巻さん、見て。一番前の列に……、」
イルカのプールまで来ると、直はすぐに見つかった。直と欅は最前列に座り、泳いでいるイルカを眺めていた。
譲司の瞳からゆるゆると力が抜け、それから手と手が離れる。譲司の気遣いだと受け取って、世良はチクンと痛んだ胸を宥めた。
「よかった。すぅちゃん、楽しそうにしてますね」
欅は穏やかに直を見つめ、彼女の話に相槌を打っている。直は、はしゃぎこそしないものの、イルカと欅を交互に見つめ、しきりに欅に話しかけている。あの頃にはなかった二人の姿がそこにはあって、欅と直の親子の形を、世良は今ようやく受け止めることができた。
「あの子、欅君とはここに来たがるんです。あのイルカのポシェットも、前に欅君がここで買ってくれたもので。……だからここは、すぅちゃんと欅君のたいせつな場所」
悔しさの滲む譲司の横顔に、世良は思わず笑ってしまった。譲司は世良の笑顔を見て、眉を寄せて微笑み、「帰るか」と言った。
帰りの車内で、譲司と世良は会話を弾ませた。そこにいなくても、二人の会話の中心には直がいて、世良はそれを嬉しく思った。
「世良君、どこか寄ろう、腹が減った」
「いいですね。どこにしましょう。海の見えるお店がいいな」
二人はあてもなく海辺を走り、小さな喫茶店に入った。丸窓から海を一望できる席に案内されると、二人は向かい合って腰掛け、しばらく海を眺めた。
「すてきな場所。こんなお店があったなんて知らなかった」
「君と来なかったら、私はずっと、この景色を知らないままだったんだな」
二人は視線を重ねて微笑み、海の音に耳をすませた。血潮の巡る音にも似た、地球の奏でる音楽だった。
「ただいまあ!」
ちょうど夕食が出来上がった頃にチャイムが鳴り玄関扉を開けると、直が飛び込んで来た。世良は「おかえり」と応え、朝より少し乱れた直の髪を撫でた。
「見て!これ、パパとつくったの!海のスノードームだよ!」
それは、瓶の中にイルカや珊瑚、色とりどりのビーズが入ったもので、瓶をひっくり返すと白いフレークが舞い、まるで海の中に雪が舞っているようだった。
「欅君、ありがとう」
欅を労うと、彼はくすぐったそうにはにかんだ。
「すぅちゃん、細かい作業ができるようになってて驚いた。子どもの成長って早いな。これ、世良におみやげって、すぅちゃんが」
差し出されたお菓子を受け取り、世良は「今日一日、すぅちゃんを、ほんとうにありがとう」と言って欅に深く頭を下げた。
「欅君、ご飯は帰ってから食べる?」
「うん、そうしようかな。……ちょっと今、璃子が熱出してて……、京子も昨日からずっと璃子にかかりっきりで、まいってるかもしれないから……」
世良は「そっか」と言って、視線を伏せた。
欅には今、別の家族があって、女の子が生まれたばかり。欅は変わった。きっと、世良と直が欅に与えられなかったものを、別の人々が与えてくれたからだ。
「そんな大変な時に、ありがとう」
世良は「じゃあ……」と一歩下がった。欅は一瞬眉を歪め、「世良」とあの頃と変わらない声で世良を呼んだ。
「いま、何か書いてる?」
世良は首を振り、けれど、真っ直ぐに欅を見た。
「書けたら、書くつもり」
どこか挑発的な語気に、欅ははじめ不意を衝かれたようになって、けれど「ふはっ」と噴き出し、「そっか、よかった」と言った。世良は欅から目を逸らさなかった。
きっと書く。今の僕が書けるものを。あなたには、決して書けないものを。
玄関扉が閉まると、世良の気持ちにも区切りがついた。僕たち、恋人にはなれたけど、家族にはなれなかったね。世良は昔を懐かしみ、過去にした。
しばらくすると、再び玄関のチャイムが鳴った。鍋の火を止めて玄関に出ると、見知った影が擦りガラスの向こうでソワソワしていた。
「……いや。車が出て行くのが、見えたから。直が帰ったかと、そう思って……」
どこかきまり悪そうな譲司に、世良は相好を崩した。Tシャツとショートパンツに着替えた直がその声を聞きつけて駆けて来る。
「ジョージ君!」
飛び上がって抱きつかれ、譲司はぐらつきながらも両腕で直を受け止めた。
「ねえ、今日ね、水族館に行ったの!それでね、海のスノードームを作ってね……」
譲司は直を抱き上げたまま、彼女の話に耳を傾けた。世良は譲司の腕にツンと触れ、彼の意識を自分へ引いた。
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もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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