臆病なピアニストに捧げる愛のうた

野中にんぎょ

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恋の退路と唇を塞いで

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「朝早くに、すみません」
 午前九時過ぎに現れた世良を、譲司は「構わないよ。どうした?」と言って屋敷に入れた。譲司の視線が直の背丈をさまよう。「すぅちゃんは、今は保育園で」そう告げると、譲司はスリッパを用意する手を一瞬だけ迷わせた。
「昨日、原稿を一枚落としてしまったみたいで……」
「一階のピアノの部屋か?」
「たぶん……」
 譲司は世良をピアノの部屋へ案内し、カーテンを開けた。
「最近、熱心に書いてるな」
 ソファーの周辺を確かめていると、譲司が話しかけてくれた。世良は視線を手元に落としたまま、「これも、あなたの言った通りでした」と言った。
「君が書いているのを見ていたら、昔もこうやって書いていたんだろうと思って、なんだか、色々と考えてしまった。こんなに夢中になれるものを手放すなんて、よほどのことだとも……」
「ふふ。でも、戻って来ちゃいましたけどね。……また書けるなんて、思ってもみなかった」
 世良は顔を上げ、ピアノの方を見やった。そこには五線譜が散らばっていた。世良は自身の原稿でなく五線譜を一枚手に取り、撫でた。何度も直された、手書きの曲だった。
 譲司を見やると、視線が重なった。世良は譲司を深く見つめ、拾った五線譜を渡そうと歩み寄った。
「作曲なんて、もうずっとしていなくて、全て一からだ」
 譲司は肩を竦め溜息を吐いたけれど、表情は心なしか明るい。
「でも、したいならしなきゃ。あなたは――、」
 譲司の瞳の色に目が留まる。こんなにも美しい瞳に見つめられていたのだと、緑がかった光彩が朝日に触れチカチカと輝くのを見て気付く。急に、胸が掻き毟られたように苦しくなって、世良は必死にその衝動を堪えた。
「あなたは、音楽に、ピアノに愛されてる、そして愛している、ピアニストなんだから」
 あなたはいつか、音楽の神様に呼ばれ、ここを去る。
 この場所は止まり木に過ぎなくて、あなたはその大きな翼を広げて、僕と直の元を去る。
 分かっているくせに、こんなに優しくするなんて、ひどい人。
 でも、優しくて、強情で、繊細で、怖がりで、寂しがりやのあなたを、僕は――。
「原稿、見つかりませんでした。僕の勘違いだったのかもしれない。……見つけたら、捨ててください。書き上げてないものを読まれるのは、恥ずかしいから」
 世良は弛んだ視界を足元に投げ、踵を返した。
 やっぱりだめ、もう少し、このままで。その時が来るまで、この人はいつでもここにいる。僕だけじゃない、すぅちゃんだってこの人を求めてる。今の関係が、互いにとっても、すぅちゃんにとっても、一番いい。子どもを持つ親が、いい大人が、そのバランスを崩してまですることじゃない。
「捨てない」
 世良の腕が、ぐいと引かれた。そのまま腰を引きつけられて、水族館でのけんかを思い起こして、今はそんなことさえも眩しくて。
 熱い涙がパッと目尻から弾け、散った。譲司の腕に抱かれると、世良は我を忘れたかのように譲司の身体を掻き抱いた。
「藤巻さん……、ふじまきさん!」
 名前を呼んで、全身をすり寄せる。譲司の腕に力が込められていくのを感じながら、世良は何度も「ふじまきさん」と彼の名前を呼んだ。自分を引き寄せていた両腕が離れてしまい胸に縋りつくと、譲司は両手で世良の両頬を包み、あの猛禽類の瞳で世良を射抜いた。
「落としてもないものを、どう捨てろと?……そんな嘘を吐いてまで、私とこうしたかった?」
 世良は胸いっぱいに息を吸い、「だって、」と声を震わせた。譲司はその続きを急かすように、世良の唇の端に自身の唇を押し付け、囁いた。
「世良君、言って。早く。もう十時を回ってる」
 世良は壁掛け時計を打見し、譲司の胸をドンと叩いた。
「ずるい、あなたはずるい、僕の気持ちを返して!」
「返さない。君にも、私にも、時間がない。君が言わないなら、私が言う。覚悟もないのに一人でこんなところにやって来て……。ばかだな、君は」
「ずるいより、ばかの方が、ましです!」
 きゃんきゃん吠える世良に、譲司は眉を寄せ、「もっとよく見せて」と言って瞳を覗き込んだ。世良は途端に黙り込み、躾の済んだ犬のように譲司を見上げた。
「君を抱きたい」
 心のどこかで、こうなることを、ずっと待ち望んでいた。
 世良は譲司のシャツの襟を掴み、強引に引き寄せた。ぐっと背伸びをして唇に口づけると、一度目は歯がぶつかって、けれど二度目は譲司が角度を合わせてくれたから、口づけらしい形に納まった。腰を引き寄せられ、噛みつくように唇を貪られる。世良も譲司の首に腕を回して必死に口づけに応えた。
「キスの仕方も忘れた?」
「いやなら、やめればいいでしょう。あなたなら引く手数多じゃないですか」
「いやなんて誰が言った?君はいつも、一人で先走る。……いやだなんて言ってない。好都合だと言ったんだ。私とのことだけ、身体と心に残して」
 譲司は世良を抱き上げ、向かい合ってキスをしながら二階へ向かった。出会ったばかりの頃、一度だけ訪れた、あの部屋。譲司の匂いで満たされた、エゴノキの枝先の見える……。
「あ、はぁ、ふじまきさんも、」
 白いシーツの上へ転がされるが早いか裸にされ、世良は譲司のシャツのボタンを乱暴に外した。手首を取られシーツに縫い付けられても、世良は手足をばたつかせて譲司に乗り上げ、喉元にキスを降らせながらベルトを抜き、前を寛げた。
「ああ、はは、とんだじゃじゃ馬だ」
 譲司は乱れた髪を掻き上げ、世良の背や胸に手のひらを這わせた。あっという間に、蝋が滑り落ちるように、性感の雫が肌を伝う。世良は全身を桃色にして譲司の愛撫に身悶えた。
「ちょっと待ちなさい。眼鏡が壊れる。取ってあげるから、いい子にして」
 犬を宥めるように両手で背を摩られ、世良は譲司の胸にしな垂れた。眼鏡のつるをそっと摘まむ指先を感じているうちに視界がぼやけ、そこに譲司だけが浮き上がる。
「……私が見える?」
「見えます。あなただけ」
 そう答えると、譲司は悔しそうに微笑んだ。
 なんでそんなふうに笑うの。問いたくて、けれど、その時間さえ惜しくて。世良は覆い被さって来た譲司の背に触れ、爪を立てた。この傷が、ひと時でも、この人の記憶に僕を留めてくれたなら……。
「ふ、じまきさん!ふじまきさんっ!」
 激しくなっていく律動に全身をうち震わせながら譲司を呼ぶ。譲司は首筋に汗を浮かべ、世良を睨みながら腰を打ち付けた。「だ、きしめ、て」きれぎれに言えば、譲司はすぐにそうしてくれた。目の前に広がった肩へ噛みつき、歯を立てる。彼の身体に今この時の証を残したくて仕方がなかった。
「ふじまきさんも、」
「私は中に残すよ。……見つけられたら、大変だから」
 直のことを言っているのだと気付いて、世良はきつく瞼を下ろした。直が意識に掠めた途端、頭の中が直でいっぱいになっていく。僕、なんてことを。すでに浮かんでいた涙が目尻から押し出されそうになった時、譲司が世良を深く貫いた。
「ひっ、あっ!あ!あ!……うあぁっ!あぁっ……!」
「私だけ、感じていて」
「う、あ、ゔ、あぁっ、」
「名前で、呼んで。君の声で、呼んでほしい、そうしたら私はずっと、」
 ああそうだ、この人は、直と同じ、耳のいい人で……。世良は迫り来る絶頂を感じながら、「じょうじさん」と彼を呼んだ。束ねていたものが帯を失うようにして、世良は乱れた。
「譲司さん、譲司さんっ、じょ、」
 名前を呼べと言ったのに。譲司は世良の唇を奪い、丁寧に愛した。激しい律動と労わるような口づけの差に世良はますます高ぶって、けれど一方で、頭は冷静だった。
 僕が勝手に、好きなだけ。僕にこの人を止める権利はない。
 この人をこの場所に留めてはならない。あるべき場所へ返さなくてはならない。
 世良は熱烈に抱かれながら、寂しくなった。抱かれているのに、もうすでにこの人が恋しい。
 なぜ、いつも、手放してしまうのは僕の方なんだろう。
「……煙草、吸うんですね」
 上半身は裸のまま、窓を透かし煙草を吸う譲司に、シーツの上から尋ねる。譲司は世良に近づいて髪を撫で、「ときどき」と言った。
「僕にもください」
 譲司は手を止めて、火のついた煙草を世良に渡した。
 煙を深く吸い込むと、胸が燻されたようになり、目の前にパチッと光が弾けた。ぼうっとしてしまった世良に、譲司は「大丈夫か」と言って世良の手から煙草を取り上げた。
「久々だから、くらくらします」
「ばか。横になってろ」
 白雪姫にするように丁寧に仰向けにさせられ、世良はくすくす笑った。「横になってろ、だって。横になってなさい、じゃないんですね」譲司は世良の言い草に目をすがめ、煙草の火を消した。その手がシャツを取る前にと、世良は譲司の手を引き留めた。
「ねえ、なにか弾いて。そうしたらいい子にしているから」
 譲司はしばらく世良を見つめていたけれど、ピアノの前に座ってくれた。
 世良には、音を奏でる譲司の指が、蝶の羽が鍵盤を撫でているように見えた。
 花園にちらちらと蝶が舞い、そこに一人、男が佇んでいる。胸の内を満ち引きする感情に身を委ね、酔いしれ、階段を駆け上がるように想いが膨れ上がる。
 世良はピアノに映る自分と視線を交わした。
 彼をこれ以上愛してはだめ。また、傷つく。また、失う。
 現実はひと時の情事や交わされるときめきのように、甘くはない。
「……そうだね」
 世良は口の中で呟き、「それでもいい」と続けた。
 それでもいい。何も求めたくない。欲しいとも思わない。愛されることなんて、この世界の半分でしかないから。愛すことの方が、よほど大きいから。
 この愛が、僕の心に傷を残して、その傷がずっと癒えなくても。……僕はきっと、この人を想う。何度だって、この部屋に、今に、帰って来る。
 曲は終わり、譲司はピアノの椅子から腰を上げた。世良はピアノのボディーに映る彼の後ろ姿を見つめ、瞼を下ろした。
「君は、泣き虫だな」
 譲司はとめどなく溢れる世良の涙に触れ、困ったように微笑んだ。
「こんな泣き虫が、たった一人で、あの子をあんなに大きくなるまで育てたなんて。私はふしぎでならないよ」
 あんなに抱き合っていたから、窓からは先走った橙色の光が差し込んでいる。世良はもう、直のことを考えていた。譲司はそれに気付いたかのように手を離し、世良の裸の背に毛布を掛けた。
「これから、あの子はもっと大きくなる。身体も心も、君の知らない道筋を辿る。成長したあの子が君を疎ましく思う日だってあるだろう。……君はその時……、」
 そこで、言葉は途切れた。譲司は手を止めたまま、窓の向こうを見やった。
「私と、来るか。直を連れて」
 愛すことの方が、よほど大きく、よほど難しく、よほど悲しい。
 それでも愛してる。僕は、あなたを愛してる。
「……東京に?」
「そう。私が君たちの面倒を見るよ」
 音楽を愛するあなたを愛することがどういうことなのか、僕にだって、ほんの少しだけ分かる。
 世良は首を振り、譲司に笑って見せた。
 譲司は長く細い息を吐き、「そうだろうと、思ったよ」と言って、静かな笑い声を立てた。
「譲司さん。つらくなるから、ここからいなくなる時は何も言わずに行って。さよならも、ありがとうも、いらない」
「……君が望むなら」
 それから譲司がこの洋館を去るまで、世良は一度も譲司を「譲司さん」と呼ばなかった。
 譲司は懸命に直にピアノの手ほどきをし、直も彼女なりにそれに食らいついた。
 夏の盛りを過ぎて小さな嵐が一つ去ると、洋館はそれまでの輝きを失って、うらぶれたようになった。
 譲司は、小さな嵐に紛れて、この街を去って行った。
 譲司はこの洋館から何を連れ去ってしまったのだろう。
 世良はピアノの音がしなくなった洋館を見上げるたびに、その「何か」を探してしまう。もしかしたら、次の瞬間には、二階の出窓から譲司が笑いかけてくるのではないかと、錯覚してしまう。
 譲司がいなくなって、直は一時テントにこもっていたけれど、三日もするとピアノの前に座るようになった。
「すぅ、いつかジョージ君より上手になって、イチバンのピアニストになる」
 まるで、この子のピアノがあなたの忘れ形見みたい。世良は直のピアノを聴きながら、爪を立てた背中の、あの熱と感触を、頭の中で反芻した。
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