涙のあとに咲く約束

小田恒子

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第1章

噂の人と、小さな出会い 3

「お疲れさまです」

「あ……お疲れさまです」

 それだけのやりとりで、二人ともまた歩き出す。
 でも、昨日見たときよりも、藤堂さんの手を握る男の子の顔が明るく見えた。

 よく見ると、昨日拾った絵本が紙袋から少しのぞいている。
 胸の奥が、ちくりと甘く疼いた。


 週末を迎えた金曜日の昼休み。
 食堂でランチを終えた後、経理の自分の席へ戻ろうとしたとき、総務のカウンター越しに藤堂さんの姿が見えた。

 書類を届ける用事もあったので、私はそのまま近付いた。

「これ、経理からです」

「はい、ありがとうございます」

 業務的なやりとりが終わった後、藤堂さんがふと顔を上げた。
 
「……この前は、本当に助かりました」

「この前……、ああ、絵本のことですか?」

「ええ。あの子、あの絵本が好きで……なくしたら泣いて大変だったと思います」

 淡々とした声なのに、少しだけ口元がやわらいでいる。
 その表情に、胸が温かくなる。

 私はもう少し藤堂さんと話がしたいと思い、お節介とわかっていながら連絡先の交換を提案した。

「藤堂さん、お子さんの絵本のことなんですけど、私の友達に書店員をしている子がいるんです。お勧めの児童書とか聞いてみるので、よかったら連絡先、交換しませんか?」

 私の唐突な提案に、藤堂さんは困惑しているようだ。

「実は、私も本が大好きなんです。小さい頃から本に慣れ親しむって、とてもいい習慣だと思います。本が好きな子って、想像力が豊かだし、優しい子に育つと思うんです。その才能を伸ばしてあげるためにも……」

 私の言わんとすることを理解してもらえたようだ。

 藤堂さんはポケットの中からスマホを取り出すと、通話アプリを起動させる。私はこうして無事に藤堂さんと連絡先を交換することができた。

 藤堂さんのスマホの待ち受け画面は、いつも一緒にいるあの男の子だ。

「お子さん、かわいらしいですね」
 
 思わず口をついて出た言葉に、藤堂さんは一瞬視線を伏せた。
 
「……ありがとうございます」
 
 それだけ言って、スマホを片付けるとまたパソコンの画面に視線を戻す。

 会話はそこで途切れたけれど、なんとなくそれで充分だった。
 この距離感を保ちながら、藤堂さんのことを少しずつ知っていければいい。そんな気がした。


 週明けの月曜日。
 朝の通勤電車の中で、私は不思議と藤堂さんと男の子のことを思い出していた。

 子どもがあんなふうに懐いてくれるのは珍しい。
 前職の職場にも、たまにお客さんとして小さな子どもが来たけれど、知らない大人を警戒する子も多かった。

 そう考えると、あの男の子は人懐こい性格なのかもしれない。
 それとも、藤堂さんの育て方がそうさせているのか。

 答えはわからないまま会社に着くと、エントランスで偶然藤堂さんと鉢合わせた。
 
「おはようございます」

「おはようございます」

 ほんの数秒のやりとり。でも、私の一日は少し明るくなった。


 その日の帰り道、私はスーパーに寄らず、少しだけ遠回りをして帰ることにした。

 昨日と同じように保育所帰りの親子が歩いてくるかもしれない。
 そう思った自分に気づき、苦笑する。

 別に待ち伏せしているわけじゃない。ただ、同じ道を選んでいるだけだ、多分……

 自分に言い訳をするように歩を進めていると、角を曲がった時に、遠くに藤堂さんの姿が見えた。
 でも、今日は男の子の姿がない。

 不思議に思いながらも少し歩み寄って挨拶すると、「今日は母に迎えを頼んだんです」と説明してくれた。
 そして、ほんの一瞬だけ迷ったあと、こう続けた。
 
「……あの、またどこかで会ったら、あの子にも声をかけてやってください」

 不意に胸が熱くなった。
 
「はい、もちろんです!」

 たったそれだけの約束。
 でも、私にとっては、これがきっと小さなきっかけになる——そんな予感がしていた。
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