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第7話  回想

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 結城氏から連絡が入るまでの間、摩耶は「修行」にそなえた体力づくりに励んだ――とはいえ彼女は敷島大佐当時からの習慣で、ふだんから早朝の冷水浴や、近所の公園で木刀の素振りを日課にしていたから、新たにランニングが加わった程度であるが。
 その他の時間、摩耶は少し以前までは読書や刀の手入れですごしていたのだが、あいにくお気にいりの古書も刀も処分してしまったので、いまでは空いた時間の大半はパソコンの前に座りこんでインターネット三昧ざんまいの日々を送っていた。
 テレビはほとんど見なかった。時代も価値観も現代とおおきくかけ離れた敷島大佐の意識を持つ摩耶にとって、浮世のできごとには同調することができずおもしろくなかった。
 その点、インターネットは古今東西のありとある項目をピンポイントでうかがい知ることができる。大佐の育った時代のエピソードの数々や、とうじ話題となったことがらも、キーワードを入力するだけでかんたんに解説文と映像で彼岸まで案内してくれる。摩耶こと敷島大佐はそれらに触発されたらしく、健太には前世の懐旧談を語ることが多くなった。――ところで大佐が今もなお健在だと仮定すると百三十歳ほどになる。老人ホームの職員ですら、こんな超高齢者の昔ばなしを聞かされたことはないであろう。ただし語る本人は二十歳の若い女性なので、実際のイメージはかなりずれてしまっているのだが。  

「私は士族の家に生まれてね」 摩耶は明治時代の町並みを撮った古い映像をながめながら言った、「明治維新からさきは俸禄を失った武士たちのおおくが窮乏したが、わが家もそんな貧乏士族だったんだ」

 それは近代化のために身分制度を廃止したことにより、それまで恩恵をうけていた武士=士族たちが相対的に不利益をこうむったからであるが、四民平等ということは、裏を返せば本人の努力しだいで誰でも栄達が望めるということでもあった。そして、学問で身を立てるのが出世の王道であり「末は博士か大臣か」のたとえどおり、帝国大学に学んで学者となるか、任官試験をパスして高級官僚への道を進むかが、当世出世双六すごろくの理想的な「上がり」であった。
 しかし、最高学府まで進学するためには相当な学費が必要であり、経済的に余裕のない家の子弟は旧制高校や大学で学ぶことは困難であった。

「だけどね、金がなくても行ける学校があった。師範学校と陸軍士官学校、海軍兵学校だ」
 ようするに、教師と軍人の学校の経費は無償であった。このため勉強ができるが家計の厳しい家の子供たちの多くが、学校の先生か軍人いずれかの道をえらんだ。

「私は陸軍士官学校を受験した。齢をかさねてもなお武士気質が抜けなかった父は、さむらいと同じく剣をいてご奉公する軍人こそは新時代の武士であり、弓矢る家に生まれた男子がえらぶべき唯一無二の天職と信じて疑わなかった。そして当時父に感化されていた私自身もまた、軍人になることが天命だと思っていた」
 
 士官学校はかなりの競争倍率であったが、十朗(摩耶)は地元の中学校(現在の高等学校に相当)では成績優秀だったこともあり、みごと合格した。 
 入学してからは彼と同じ中学出身者の他にも、陸軍幼年学校(満十三歳から十五歳未満の男子を将校候補者として教育する軍学校)からの延長で入学してきた連中もいて、最初のうちは彼らから先輩風を吹かされることもあったが、そのうち慣れた。
 全寮制でストイックな生活環境も、きびしい訓練も、たいして苦ではなかった。それというのも十朗の家は、戦国時代からの「実戦組み討ち術」を代々継承してきた数すくない家のひとつで、十六世紀末に戦国乱世がおさまり徳川泰平の世がおとずれて以降、もはや不要のものとして世間から忘れさられてしまったその戦技を頑固に守り通してきたからである。このため十朗も、幼時から「武家本来の技を継ぐ者」として徹底的にしごかれて育ってきたので、士官学校での訓練などはむしろ楽に思えるくらいだった。

 近代以前の実戦では甲冑を身につけ、刀や槍で戦う。一般に知られている剣術や柔術は、戦場では通用しない。面、胴、突き、小手などはいずれも致命の急所であることから甲冑ではしっかりと保護されており刃はとおらない。また技をかけるためには相手をつかんで引きよせる必要がある柔術もまた、長い刃物をかまえた相手と対峙たいじするには不利なことこの上ない。十朗が父から教わったことは、甲冑を着て槍や刀を持った者同士の戦いで勝つ技術であり、そのための鍛錬であった。

 ちなみに士官学校においては両手軍刀術という実戦剣術の科目があったが、こちらでは面や右胴を有効部位としているところは家で習得させられた甲冑剣術とは真逆であった。敵の太刀はおのれの兜や胴甲で受けとめ、その隙に入身して相手の脇の下や籠手裏こてうら草摺くさずりの隙間など、装甲されていない箇所を突き、斬るものだという父の教えのほうが、甲冑が過去の遺物と化した現在では時代おくれの剣術といえた。
(しかし、実戦では鉄帽をかぶっているし、防弾着をつけることもある)通常の兵士の装備である弾帯、防毒面、水筒、背嚢はいのう円匙えんぴ(携帯スコップ)なども時として甲冑のような防刃効果を生む場合もあろう。
(まあ、それなりに今でも通用する剣術というわけだな)十朗はそう結論づけたが、そもそも刀剣という存在自体、陸戦では無用の長物となりつつあった。――余談になるが、それどころか歩兵を象徴するはずの小銃ですら、のちに勃発する第二次世界大戦では、より小型軽量で濃密な弾幕を張ることのできる自動小銃や短機関銃に取って代わられて行くのだが、資源の足りないこの国では、最後まで長くて重い小銃が陸戦兵器の主役でありつづけた。

 十朗は士官学校の成績がよく、卒業時は恩賜おんしの銀時計を拝領した。このため周囲からは陸軍大学校の受験をすすめられ、隊つき勤務二年後に陸大を受験、そして合格した。 

 陸大を卒業してからの十朗は、参謀将校として各地を転々とした。大尉の時(三十歳)に結婚して二人の女の子をもうけたが、男子に恵まれなかったことから、代々つづいてきた実戦組み討ち術は彼の時代で途絶えることとなった。――いや、かりに男の子が生まれたとしても軍務は多忙をきわめていたから、わが子に技を伝える余裕はなかったことだろう。

 何にせよ、それまで十朗が歩んできた人生街道は当時、人もうらやむエリートコースの見本であった。このまま順調にすすめば現役中に将官の椅子に座ることは確実に保証されている。

 しかし彼は、それでも何か満たされない「渇き」のようなものを常時感じており、それは日をかさねるごとに大きくなっていった。彼の意識は多忙に追われ、代わり映えのない砂漠のような日々の中で「渇き」を癒やす「オアシス」を探しもとめるようになっていた。

「私が斬魂刀の存在を知ったのはそんなときだった」摩耶は遠くを見つめるような表情で言った。

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 とうじ勤務していた参謀本部の資料室でね、ある古文書に「鎧の装甲を障子紙を通す光のように透過して相手を倒す刀」のことを記した一節があるのに気づいたんだ、まったくの偶然だったよ。

 関連資料をさがし、それからそれと追跡して、ついに斬魂刀づくりを今に伝える刀鍛冶を見つけたときは嬉しかったね……それでさっそく工房をたずね、匠の結城さん(結城氏の曾祖父)にお会いして、例の七つの条件など斬魂刀のくわしい話を伺って確信した。これこそが「渇き」の正体だ、自分は本来こういうものを追いもとめていたんだと。

 ふりかえってみると今までの自分の人生は、周囲に逆らわずに流されつづける、川に浮かぶ木の葉みたいなものだった。

「これからは学問で身を立てる時代だ、勉強せえ」

「敷島家が代々伝えてきた甲冑組み討ち術を習得することは後継者たるおまえの義務だ」

「士官学校を受験すること。剣を以てご奉公する軍人は武門の家に生まれた者の天職と心得よ」 

「恩賜をもらった貴官のように成績優秀だったら、ぜひ陸大を受けるべきだよ。わが◯◯連隊から陸大出身者が生まれることは連隊挙げての慶事でもある……なに、仕事のほうは受験勉強の時間をとりやすいように調整するから大丈夫だ」

 親や上司に言われるまま、それが唯一無二と信じて懸命に取りくんできた。

 しかし私は斬魂刀のことを知ってしまった。これだけはなんとしても手に入れたい。この神秘の兵仗は、自分にとって命と引き換えても惜しくないほどの価値がある――純粋な自分の意思のみで物事を決めたのは、それが人生最初の経験だった。

 私は斬魂刀に関する報告書をまとめ、作刀のための予算と研究チームの立ち上げを上司に具申したところ、まったく取りあってもらえないばかりか「貴官はこのところの激務で疲れているのだろう、いちど医者に診てもらいたまえ」と心配される始末だった。
 軍を辞めることも考えたが、生計のみちがなければ妻子を養うことができない。さりとて他の職業に就いたところで、長期の修行期間や製作費用を工面できるあてもない。

   夢は絶たれた。

   それからの私は抜け殻のようだった。勤務にもまったく身が入らず、なにかと理由をつけては休暇をもらって仕事をサボるようになった。軍における私の評価は大恐慌の株価のように急降下した。

 やがて次の人事異動で、私は大佐としてある地方の連隊長勤務を命じられた。表向きは「栄転」だが、実質上はていのいい「左遷」だった。私はエリートコースから外されたのだ。
 
 参謀本部の時よりデスクワークは減ったが、田舎の連隊長も何かと雑務が多く忙しかった。
 私は定年退職して恩給暮らしになるまで斬魂刀の件は封印しようと心にきめた。

 しかし、時局は情け容赦なかった。日本はアメリカと戦争を始め、最初のうちは景気よく勝ち進んだが、ミッドウェーやガダルカナルの敗戦から形勢は逆転した。反攻を開始した米軍の圧倒的な兵力と物量差の前に、わが軍は拠点を一つまたひとつと奪取されつづけた。 

 やがて私の連隊も戦地に赴くこととなった。南海に浮かぶ◯◯島の防衛だ。ここを奪われたら敵の日本本土侵攻の足がかりとされるから最後まで死守せよとの命令だ。
 兵力差から判断しても守りきるなどはとうてい不可能な作戦だった。そして日本軍は降伏は認めないから全滅必至、全員玉砕だ。

 もし私があのとき斬魂刀の存在を知らなかったら、戦地に行くこともなく、いまごろは大本営作戦本部のどこかのデスクに座っていただろうが、後悔はしなかった。
 おそらくこの戦争は負けるだろう。敗戦となれば大本営トップの連中には責任者としての処分が待っている。軍事法廷で戦勝国の筋書きどおりの判決が下されて処刑されるか、さもなくば敗戦の責任をとって自決するか、いずれにせよ死は免れないだろう。
 それのみならず、敗戦のその日まで、このような集団自殺にひとしい作戦を立案しつづけなければならない。将官のベタ金の襟章と、敗戦までほんの数ヶ月の延命のためにそのような罪ぶかいごうをかさねるぐらいなら、この愚にもつかぬ作戦に従って「悠久の大義」とやらを貫く方がまだましだ。そう思ったんだ。
 
 けっきょくわが連隊は玉砕し、私も多くの部下とともに戦死した。

 しかし私は他の戦友たちのように、そのまま「靖国行き」の列車に乗ることはできなかった。例の斬魂刀のことが心残りでならず、それが私の成仏をさまたげていた。「魂刀」というより「魂刀」だった。

 だからあの「声」が聞こえたときは一も二もなく再生を願い出た。生まれ変わりは八十年後で、しかも再生する肉体をえらぶことはできない、そう「声」から言われたときは少し迷ったが、ともあれ私は生死を超えた千載一遇のチャンスに賭けてみることにしたんだ。

 それから先は君も知ってのとおりだ。

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 摩耶は話しおえると「ちょっと走ってくる」と言いのこし、陽よけのキャップをかぶってジョギングシューズを履くと、そのままアパートを出ていった。

 電源を切り忘れたパソコンの画面には旧陸軍大学校の卒業者名簿が映っており、名簿の中ほどには「四十◯期 敷島十朗 少将 戦死」と記載されていた。

(「二階級特進」じゃなかったようだけど……どのみち「閣下」にはなったのか)

 健太はそう思うと同時に、仕上がった制服に間違えて縫いつけられた中将の襟章を見た摩耶の、どこか寂しげな笑顔を想起していた。

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