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第2話 中学の入学祝いがラジカセでよかった。

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「なんでお前が?」
 ちょうど打ち合わせをやってるから早速入って欲しい…と、高橋に指示された会議室に入ると、営業の先輩である坂上が怪訝そうな目をする。彼はプライドが高い男だから、自分の案件に助っ人が入るのが嫌なんだろう。

 しかし、こっちだって高級寿司の分の働きをしなくてはならない。紗恵子も負けじと不満そうな顔で返した。
「お寿司に釣られたんですよ…誰かさんが困ってるらしいから、手伝えって。」
「余計なこと…「山下さん!助かるっす!4th AVEの大ファンっすもんね。」
 不貞腐れた坂上の言葉に、クリエイティブの谷口が被せてきた。
「いや、ファンでもないんだけど…。まあいいや、どんな状況なんですか?」

 紗恵子の質問には、谷口が答えた。
「先週、引き合いをもらって、提案したはいいものの、『イメージと違うから根本的に考え直してもらいたい、打ち合わせの時間をくれ』って連絡が来た感じですね。」
「根本的に違うのにチャンスをくれるっていうのは、期待してくれてはいるんですかね。」
「acheの希望でいつもと違う代理店でやりたいって言い出したらしくて、少しは調整が必要だろうとは思ってくれてるみたいなんですけど…」
「でも、次の提案でダメだったらアウトだろうな。」
 谷口が詰まった後を坂上が引き継いだ。 

「そもそも、一回目の提案だって、指名の案件にしてはかなり気合入れて準備したし、アイデアの数と質もコスパも悪くない…つもりなんだが、何がハマってないのかマネージャーに探りを入れても曖昧でな…。」
「オリエンの感じ的にも、本人の戻しもどんなのが来るかわかんないんで、アピール兼ねて、追加のアイデアたくさん持って行ってイメージ探ろうと思って、アイデア担当の俺ら二人で打ち合わせしてたんすけど。正直、出尽くしちゃってまして…。」
 谷口の言葉に舌打ちをする坂上だが、その顔にはクマが大分濃くなっていた。

「谷口、ありがとう。じゃあ、そのオリエン資料を見せてくれる?私部長のメモのコピーしかもらってなくて。」
 部長にもらった手書きのコピーをひらひらとさせると、坂上は「何言ってんだ?」という顔をして紗恵子の手元を指差した。
「お前の手に持ってるのが、オリエン資料だよ。acheが自分で作ったらしい。」

 その言葉に、紗恵子はもう一度手元の紙切れを見つめた。

 ☆アルバム発売に伴う告知について☆
 ・ache1stソロアルバム販売 2月
 ・予算 1億円
 ・告知開始年明けくらいから
 ・参考資料:発売曲…Heartache、他未発表曲3曲(※カセットテープ参照、持ち出し厳禁)

 言われて見れば、斜めに傾く癖が見覚えのある字だった。紗恵子は三回ほどしっかり読み直してから震えた。
「内容0.01ミリじゃん…。」
 無意識に出てしまった紗恵子の言葉に、坂上と谷口が同時に咽せていた。

「二人とも大丈夫ですか?こんな薄い内容のオリエンだったら、そりゃ疲れて咳も出ますよ…。」
「ちが…いや、流石に情報少ないんで、スタッフの人が色々くれました…後は、俺らでも調べたりして。」
 震える坂上に変わり、谷口が指差した資料たちには、さらに手書きの書き込みや、追加情報が沢山あって、よく分析されたことが伝わってきた。

「次のacheとの打ち合わせいつでしたっけ?」
「来週の水曜日の昼一番です。」
 今日は木曜日の定時前、残された期間は六営業日だった。
「分かりました。これと企画書、今日中に頭入れときます。」

 ちらりと顔を見ると二人ともクマが濃くなっていた。
「二人は帰って寝てください。明日からこいつぶっ飛ばす企画練り直しますよ。」
 トントンと机の上の0.01ミリのオリエンメモを指で叩きながら、紗恵子が言うと、坂上は怪訝な顔で呟いた。
「お前田…acheのファンだったよな。」
「どちらかと言うと…今は、アンチになりそうです。」

 坂上と谷口は、とりあえずチームへの参加は受け入れたようで、紗恵子は二人が渡してくれた資料を抱えてデスクに戻った。

 その後に、最低限必要なメールを片付けてたら、ちょうど定時を一時間超えていた。本当ならさっさと帰って酒でも飲みながら、案件を納品できた達成感に浸りたかったが、持ち出し厳禁の資料もあるからテレワークすら出来ない。そういう仕事だから仕方がない…と気合を入れ直す。

「デモがカセットテープって…初めて見たわ…。あーー、再生デバイス、管理部から借りるの忘れてた…家なら、ラジカセがあるのに…。」
 管理部は定時で帰る人がほとんどだ。紗恵子が項垂れていると、ゴトリと何かが置かれた音がした。顔を上げると、目の前にラジカセが置いてあり。頭上から谷口の声が降ってくる。
「俺さっき返すの忘れてたんで、使ってください。」
「あー…助かるわ…ありがとう。」
「管理の佐田さん、『今どきこれ使う人なんているのかしら?って思ってたのに!』ってびっくりしてました。」
「本当だよねぇ、あ、谷口も早く帰りなよ。」
「acheさん以外の案件がちょっと残ってるんで、急ぎのを片付けたら、今日はもう帰ります。」

 acheにかかりきりだったら、他の案件も結構溜まってるのかもしれない。
「でも、無理はしないでね。」と声をかけてから、紗恵子は座り直したで、もらったラジカセに、PCにつけていたイヤホンを取り付け、カセットを入れる。前に聞いた人は、ちゃんと巻き戻して使っていたようで、すぐに音は再生された。

 少し音質は荒いけれど、すぐに聴き慣れた甘く伸びやかな声が耳に響いた。
 数年前に目の前で聞いていたその歌声より、テープを通してざらついているはずなのに、どんどん磨かれた艶やかさが全てを超えて訴えかけてくる。
 
 格段に上がった声量は歌詞の世界に奥行きを与え、磨かれた表現力が曲に出てくる登場人物の感情を繊細に描く。絵画の天使と言われるほど、端正で中世的な顔のacheがこの歌声で表情豊かに歌えば、それはもう単なる歌ではなく、一つの映画を見ているような錯覚に陥る。

 カセットから聞こえる歌にはまだ固く迷いがあるようだが、この曲が完成してライブで披露した時、彼はどのような情景を描くのか気になった。

 再生が終わって、テープを巻き戻しつつ、今度は資料を一通り眺めながら、YouTubeに上がっているMVを確認しようとPCの画面を見ていると、イヤホンをつけていない方の耳から、谷口の声がした。フリーアドレスのオフィスだから、どうやら近くの席で作業しているらしい。
「やっぱacheさん、かっこいいっすね。」
「たしかにね。」

 肯定すると、さっきのキレ具合を見ていたからか、谷口が少し意外そうな顔をした。
「先輩は、こういう男がタイプなんすか?」
「別にそういう意味じゃないでしょ。なんでもそういう話題に結びつけるのが本当に好きね。」
 小さく舌打ちをして谷口を睨んでから、紗恵子は再び画面の方を見た。
「でも…、こんな彫刻みたいな顔から、目の前で人懐っこい笑顔が繰り出されたら、落ちちゃうかもねー。」
「先輩ちょろそうっすもんね。」
「あぁ?喧嘩売ってんのか…?」
「うわ、顔こわ…しばかれる前に、帰りますね」
「そうだよ、疲れてるくせに、先輩バカにしてる暇あったらはよ帰れ。」

 気づけば、夜の九時で部の人はほとんど帰っていた

 谷口は飄々としている割に仕事は手を抜きたがらない、良いことだとは思うが…疲れてる時くらいは、自分と違って要領の良いその性格で適当にあしらえばいいのに、と少しもどかしく思う。
 呆れた顔をする紗恵子の後ろで、谷口は、シャットダウンの作業をしながら、ポツリとつぶやいた。

「先輩も案件終わったばっかなのに、俺らのせいでごめんなさい。」
「いいってことよ。坂上さんとはおんなじ部だし、可愛くないけど後輩が困ってんなら力にならないとね。」
 うちの会社は予算は個人ではつかず、部全体でクリアするものだ。だから、誰かが困っていても我関せず…というわけには行かない。

「部長だけじゃなくて、俺も、今後ご馳走しますね。」
「お、じゃあ高いやつで頼むわ。」
「ははは、任してください。お疲れ様です。」
「お疲れー」
 手をひらひらと振る。

 パタンと聞こえた音を合図に紗恵子は気合を入れ直した。
「さて、もう一仕事するか…」
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