サイダー・ビーツ

津田ぴぴ子

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二話

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軽音部が部室として使っている第二視聴覚室は、三階西側の一番奥に位置している。音楽室のそれように無数の穴が空いた壁とカーペット敷きの床の、やたらと広い部屋だ。
ご丁寧に準備室までくっ付いているが、視聴覚室としてどころか、部屋自体が殆ど使われていなかったという。
そこに昔の軽音部員が目をつけて、第二視聴覚室を根城として確保したらしいと聞いたことがあった。元々が視聴覚室として作られているから防音も期待出来るし、何より校舎の端にあるお陰で教師の目が届きにくいというのもあったようだ。
この部屋の鍵は軽音部の部長から部長へと受け継がれて、今はみなみが持っている。


今の今まで第二視聴覚室を満たしていた音の残滓が消えたあと、陽は長い溜息を吐いて後ろを向いた。ボリュームノブを絞り切り、ギターを肩から下ろしてスタンドに立て掛ける。ドラムの上を空振るようにしてフィルの動きを確認したはじめは、スティックを右手にまとめてゆいと陽を見た。
「どう?」
そう微笑んだ初に、陽は右手を遠慮がちに上げて項垂れる。彼はさながら自白する犯罪者のように、こう切り出した。
「ソロんとこミスりました……」
「先輩あの辺苦手ですね」
サンバーストのジャズベースを肩から下げたままの唯は、そう言いながらアンプの上に乗せていた紙パックのレモンティーに刺さる細身のストローを咥える。
陽は彼の言葉を頷きで肯定して、唸りながら窓の端に纏められた黒いカーテンにしがみ付くようにして埋もれていってしまった。
「決まると超格好良いんだよ、あそこのキメはさ……」
蓑虫のような格好でカーテンに顔の下半分を埋めながら、陽はもごもごと呻く。
持ち時間は各部十分から二十分ほどで、軽音部は二十分をフルに使って三曲演奏することにしていた。陽が苦手とする箇所があるのは三曲目の大サビ前で、ギターのソロパートから全員でのキメに繋がる。徹夜でゲームをした次の日にテンションだけで作曲したのがいけなかったのか、どうにも運指が上手くいかないことの方が多かった。
とは言え初と唯は難なくこなせているので、曲自体が難解という訳ではない。
ただ単に自分の実力の問題だと分かっているから、余計に不甲斐ないのだ。

フロアタムに下げられたケースにスティックを仕舞って小さく息を吐いた初は、蓑虫に歩み寄ってカーテンを鷲掴みにする。その分厚く所々毛羽だった黒い布から陽を引き摺り出しながら、諭すようにこう言った。
「ソロちょっと変えたら?」
「絶対嫌!」
その提案を眉を吊り上げて即却下した陽はカーテンから飛び出て、先程置いたばかりのギターを手にして二人を見る。
こうなればもう、やることは一つしかない。
「もう一回やる」
「出来るまで?」
「うん」
初の問い掛けに頷いて、マイクスタンドの前に立った。今更ご機嫌伺いをするような仲では無いから、その反応を確認するようなことはしない。正面左側の天井近くに据えられた掛け時計を見上げる。七時半を指しているそれと暫く睨み合って、次いで右隣の唯を見遣ると、思い切り目が合った。
「唯は?大丈夫そ?時間とか」
「余裕っしょ」
「よおし」
「ちょっ、と」
戯けたように笑う唯に歩み寄った陽は、飼い猫を撫でるようにその頭に手を滑らせた。唯の方が背が高いから、こうするには背伸びをしなければならない。
すると、背後から初がスティックを打ち鳴らす小気味の良い音が聞こえた。この曲はツーカウントで始まる。慌ててギターのネックを握って右手を振り下ろした。
陽と唯が同時に初の方を見ると、彼はドラムを叩きながら心底おかしそうにしている。お前さあ、という笑い混じりの抗議の声も、瞬く間に音の中へ溶けて無くなってしまった。
イントロは澱みなく過ぎ去って、陽は窓からこちらを覗く青空を見ながら、少し背筋を伸ばして短く息を吸い込んだ。





HRの十五分前を知らせるチャイムが、低く鼓膜に響いてくる。コの字型の校舎であるため、第二視聴覚室の窓からは向かい側の一、二階に位置する一年生と三年生の教室前の廊下が良く見えるのだ。幾分騒がしくなった校舎内で、制服姿の生徒たちがそこかしこで集まって話しているのを、陽は飲み終えた水のペットボトルを片手に見下ろしていた。
「どうにか終わって良かったね」
「ほんっと」
桃の味がついた水のペットボトルを鞄に入れた初の言葉に、アンプのスイッチを切った唯がしみじみと頷く。途中から暑くなったらしい彼は、三回目あたりでブレザーを脱いでシャツの袖を捲っていた。唯は二つずつ向かい合わせになるように組まれた机に浅く腰掛けると、陽と初を睨む。
「最初、誰かさんたちがふざけ出すから焦りましたけどね」
「ふざけてないって、なあ初」
「うん」
爽やかに頷いた初に、最初の不意打ちのカウントは間違いなく悪戯の一環だろと陽は心の中で悪態を吐いた。この男は人畜無害そうな顔をしてたまにそういうことをするから、全く油断ならない。
三十分間で五回ほど同じ曲を繰り返して、最終的には完璧に近い形に落ち着いた。この感覚を忘れさえしなければ、恐らく本番でも大丈夫だろうと思う。が、陽は納得した訳ではない。完璧な演奏をしたところで新入生が入ってくる訳ではないのだが、それでもミスの数は少なければ少ないほど良いのだ。
「初」
「うん?」
「休み時間さあ、ちょっと付き合って」
「ああ、はいはい」
ドラムの搬入の準備をする初の背中に話し掛けると、陽の意図を瞬時に理解したらしい彼は緩く頷いた。それを聞いていた唯が、驚いたように口を開く。
「随分気合入ってんじゃないですか?」
「そりゃあ、……ねえ?」
初の目線を受けた陽は唯を手招くと、その肩に腕を回した。
「俺と初が卒業したらさあ、唯が一人になっちゃうじゃん。だからだよ」
「……あー、そういう、こと」
「そう!」
恩着せがましい言い方になってしまったかもしれないが、事実なのだから仕方がない。軽音部の存続やライブが出来るか出来ないかなど、正直二の次なのだ。置いていかれる寂しさは、陽も初も良く知っている。年齢というものは、こと学生生活においてはどうしようもない差異を生んでしまう。そして人数が少なければ少ないほど、仲が良ければ良いほど、それはよりはっきりとしたものになる。
だからこそ、ただ一人の後輩のために出来ることは全てしておきたいのだ。
前の先輩も、こんな気持ちだったのだろうか。
「絶対一年獲ってきてやるからな」
「勧誘は狩りじゃないんだけど」
「……──別、に」
唯を解放して拳を握り締める陽とそれを嗜める初の背後で、唯が何か言ったような気がした。二人ほぼ同時に振り返って、首を傾げる。
「何か言った?唯くん」
「──いや?別にあんまり張り切らんでも良いでしょって。力入って余計ミスりますよ。特に陽先輩」
冷静極まりない一言に、はた、と静止して、お互いに顔を見合わせた。確かに言われてみればそうかもしれない。張り切り過ぎて失敗してしまう事態は陽の人生でもいくつか覚えがあったし、程よい力加減でやるのが一番良いのではと思い直した。それは初も同じだったようで、照れたように頬を掻いて笑う。
「それもそうだね」
「唯ちゃん可愛さに張り切っちゃったわね」
「何すか?そのキャラ」
ブレザーに袖を通しながら唯が笑ったところで、HR五分前を知らせるチャイムが鳴った。三人で一斉に時計を見上げて、やばい、という陽の呟きを合図に脱兎の如く第二視聴覚室から飛び出して、鍵を閉めた。楽器類を置いたままで良いのは救いだ。勢いで掴んだ開きっ放しの鞄の中で、ペットボトルやらノートやらが跳ねている。弁当の中身の無事だけを祈りながら、陽は階段を転がり落ちるように下りた。
ふと、初が唯を呼ぶ。
「唯くん!」
「はい!?」
「搬入!四限終わったらすぐ来て!お昼はそのあと!」
「了解です!」
言いながら二年B組に飛び込む唯を尻目に、陽と初もその先にある自らの教室──三年B組の扉を思い切り開いた。

ぜえぜえと肩で息をしている陽と相反して、初は汗ひとつかいていない。幼少期から中学校三年生まで親の意向でサッカーや柔道など様々なスポーツをやらされていたため、体力はあるのだと本人は言っている。
菖蒲ヶ崎あやめがさき高校は三年間クラス替えを行わない。だから、クラスメイトは皆見知った顔だ。陽の席は教室に入ってすぐの一番先頭、初はその斜め左後ろの席だ。これは三年生になって早々に行われた席替えの結果で、初とここまで近い席になったのは今までの高校生活で初めてだった。他の友人──前川まえかわ最上もがみ時藤ときとうとは、残念ながら離れてしまったが。
自分の席周りの数人のクラスメイトと短い挨拶を交わして、遠くの席の友人たちには手を振ってその代わりとする。そこまで行って話をするには、あまりにも時間が足りない。

陽が自らの席に崩れ落ちたのとほぼ同時に、教室の扉ががらりと開いた。
のそり。そんな効果音が似合う様子で、汚れた白衣とぼさぼさの頭、ゆっくりとした足取りが教室に入ってくる。その白衣姿の教師──しの穂積ほづみは陽と目が合うとにっと笑って、続いて教室中を見渡して、おはよう、と言った。

篠穂積は、軽音部の顧問である。
顧問と言っても指導をする訳ではなく、良く言えば保護者、悪く言えば雑用、と言った具合だ。軽音部が部活動である以上顧問がいなければ不味いという理由で、二年前に顧問に就任した。本人に音楽の素養が全くないことを理由に、搬入や差し入れなどが無い時は殆ど第二視聴覚室に顔を出さない。そんな調子であるため、教師たちからはやる気がない、無責任、放任主義、給料泥棒だなどと散々な言われようなのだが、その篠が担任を持つなど、槍でも降ってくるのではないかと心配したものだった。
陽と初がいるクラスの担任を充てがわれたのは、人事側のせめてもの情けなのだろうかと思う。
「えー、出席を取るぞ。元気が無いやつは元気が無いって言うように」
常套句である台詞を述べてから、出席番号の先頭から名前を呼び始める。肝心の生徒たちからの評判だが、意外なことに上々だ。あの気怠げな感じが親しみやすいのか、皆篠ちゃんだとか、篠やんだとか、色々なニックネームで呼んでいる。当人は他の先生の前ではその呼び方を止めろと注意はするが、それ以上のことは言わない。
「御子柴ー」
「はーい」
「何だ?疲れてないか?」
「さっき全力疾走しただけ、元気だよ」
「若いって良いなあ……はい、じゃあ次、最上ー」
「はあい」
「お、眠そうだな」
「ちょっと眠いですね」
「うん、授業中は頑張って起きてろよ」
「はーい」
そして篠には声音で生徒の状態を把握出来る特技があることを、最近知った。保健医など向いているのではと言ったことがあった。曰く、それなりの知識はあるが、養護教諭の資格を取るのが面倒だと言う。
似たようなことを三十数人分やり終えて、篠は教卓に手をついた。
「この間渡した進路希望調査、皆もう書いたか?締め切りはもうちょっと先だが、忘れるなよー」
進路希望調査。
篠のこの一言に、陽は思わず溜息を吐いた。進路の確定までに複数回配布されるらしいそのプリントを貰ったのは、始業式のすぐ後だった。二年生の頃にも貰ったけれど、未定、と書いて躱してきた。しかし三年生になってしまった今、それでは通用しないだろう。
「今日は新入生歓迎会があるから、四限が終わったら二、三年はそのまま放課だ。帰りのHRもやんないから、帰る奴は気をつけて。新歓に出るやつは頑張れよー」
そう言って、篠はHRを終えた。日直による挨拶を終えて、教卓に置いていたバインダーを持って教室を出て行きかけた篠だったが、何かを思い出したように立ち止まって、陽の顔を覗き込む。
「御子柴、」
「何?ほっちゃん」
「今日の搬入って四限の後だよな?」
「そう、忘れたら鬼メッセするから。初が」
「僕?」
「はっは、忘れないっての」
じゃあな、とひらひら手を振って、篠は今度こそ教室を出て行った。
新入生歓迎会があるとは言え、午前中は普通授業だ。三年B組は一限目から現代文、体育、音楽、英語だ。HRが終わってから一限目が始まるまで、十五分ほどの猶予がある。陽はすぐに立ち上がって、教室の窓側の一番後ろの席へと向かった。それにつられるように、初も席を立つ。
そこは時藤ときとう瑞樹みずきの席で、休み時間になると自動的に一年生の頃から変わらないメンバーがそこに集まる。五人が密集して話をするのには、窓側の最後尾は最適だ。
「はよ」
「おはよう」
席に座る時藤と、その机に浅く腰を掛けている前川まえかわ颯紀さつき、そして壁に寄りかかっている最上もがみゆうが、陽と初を早く来いとばかりに手招いた。特に急ぎの用事は無いのだが、時間が惜しいということなのだろう。
一年生の頃から変わらない短髪の前川は陽の肩に肘を置いて、爽やかな笑みを浮かべてこう言った。
「あんまり来ないから心配したぜ」
「新歓の練習しててさ」
「そ、ちょっと張り切りすぎちゃって……」
そう答えた陽と頷く初に、最上が手にしていたチョコレートを一つずつ差し出す。小さく礼を言って、早速それを口の中に放り込んだ。溶け出した甘味が脳味噌を一周する。
「うちはもう五人くらい入ったよ。女バスも似たような感じ。……最上部長は?どうです?」
前川が言うには、入学式が終わって早々からの勧誘活動が功を奏したのか、バスケ部は男女ともにもう新入部員を獲得しているらしい。本人曰く「誰かしらの陰謀」でもって昨年から副部長となってしまった前川は、後輩の育成等々にてんてこ舞いなのだそうだ。参るよ、と言いながらも、表情は満更でも無さそうだった。
茶化すような口振りで前川から話を振られた演劇部に所属する最上は、それに乗ることもなく似たようなものだね、と肩を竦めた。
「学祭とかでうちの劇観た子たちが何人か入ってくれて、あとは今日の新歓でどうかなって感じ。定演とかコンクールのオーディションもあるし、諸々の引き継ぎも進めないとなあ」
「演者、後輩に譲んのかよ?」
「まさか。そんな訳ないでしょ、勿論出るよ」
前川の問いにそう返しながら微笑んだ最上は、ちゃんとオーディションで勝ってね、と付け加えた。最上は普段こそ気怠げな雰囲気を漂わせているが、演劇のこととなると人が変わったように向上心と闘争心の塊になる。
丸眼鏡の奥の瞳に一瞬尖った光が見えたが、それは一瞬で鳴りを潜めてしまった。
「そういえばオカ研ってどんな感じなの?新歓も出ないんでしょ?」
最上に頬を突かれた時藤は、それに抵抗することもなく机から分厚い本を出しながら答える。
「うん、来たい子だけ来てくれれば良いかなって。ぶちょ、じゃない……りつさんも言ってたし」
オカルト研究部。
時藤が所属しているそれは、この学校の部活の中でもかなり異端だ。来るものを拒まず、去るものを追わない。部活として認定されているのに、例外的に顧問が存在しない。部員は集団というよりも個人として活動することが多く、それぞれに興味のある分野を日々調査したり、関連書籍を読み漁ったりしている。
噂では、活動的な部に入りたくない一年生の避難場所としても使われているらしい。徹底した個人主義を守るため、部員個人の活動に口を挟むのは部長であっても原則禁止とされていると、時藤から聞いた。
部に伝わる大体の規則は、先代の部長であった島村しまむらりつが決めたことだという。彼が卒業した今、島村を心酔と言ってもいいレベルで慕っていた時藤が部長となり、その規則とオカルト研究部の部室、引き継がれた大量の本と資料を守っている。

一年生から二年生の半ばまではいつ何時もおどおどしてまごついていた時藤が、オカルト研究部の部長を引き継いだ前後から急に流暢に喋るようになったのは、クラスでは有名な話だ。まるで何かに取り憑かれたようだと言われていたし、先代部長に催眠でも掛けられたのではと噂になった。が、皆慣れてしまったのか、今では以前と同じように時藤に接している。
それは陽たちも変わらない。
「軽音部は?」
時藤の言葉に、最上と前川も視線をこちらに向けてくる。陽と初は顔を見合わせて、ほぼ同時に、ううん、と唸った。
「それが、話すこと決まってなくてさ」
「去年みたいに──」
何かを思い出したように人差し指を突き立てる前川に嫌な既視感を覚えた陽は、唯と同じくらいの背丈がある彼を思い切り睨みつけた。
「さっちゃんそれ禁止」
「何でだよ面白かったろ」
「面白くない!」
「面白くないから!」
ほとんど同じタイミングで言い返した陽と初に前川は愉快そうに笑うと、仲良しじゃん、と茶化した。
何の事前準備もなしに喋りはじめるのは危険だと、去年の新入生歓迎会で散々思い知らされた。ライブのMCとは訳が違うのだ。過去に戻れるのなら、二年生になりたてで浮かれきっている自分に、紹介の原稿を投げ渡しに行きたい。
その紹介の中身が全く浮かばないから、困っている訳なのだけれど。
「で?軽音部って部活中何してるの?」
最上が蹲み込んで時藤の机に両腕をべったりつきながら首を傾げるので、それに合わせて陽と初も首を捻る。
「何ってお前……喋ったり」
「お菓子食べたり」
「あとは曲作って、練習……」
「それを言えばいいじゃん、お菓子食べたり練習したりしてますって。演劇部も似たような感じだよ。お菓子は、……そんな食べないけど」
「ライブだけでも充分かっけえと思うけどなー」
「それはありがとうだけど、……絶対何人か新入生入れたいんだよね」
いつになく深刻な様子で考え込むように再び唸って俯いた初と陽に、友人たちは一様に不思議そうな顔をして視線を突き合わせる。どうしてだと聞かれる前に、陽が先に口を開いた。
「唯さ、いるだろ?ベースの二年」
「あーあのイケメンだろ?」
前川がそう言うので、思わず陽は初の方を見る。
「唯ってイケメンなの?」
「顔はすごく整ってるでしょ。ライブの時とか女の子がきゃあきゃあ言ってるの、知らない?」
「ちょっと存じない……」
「存じないかあ、……まあいいや。でね、その唯くんがさ、来年僕たちが卒業したら一人になっちゃうでしょ?だから」
それを聞いた三人はやっと納得したらしく、ああ、と息を吐いた。彼らにも後輩がいる以上、陽と初の心境には覚えがあるのだろう。
「大丈夫だとは思うけど、どうしても心配しちゃうんだよね」
わかるなあ、と。
時藤が苦笑いを浮かべて言ったそれに、四人ともが深々と頷いた。そう。唯ももう小さな子供ではないのだから、上手いことやるだろう、大丈夫だろうとは思う。ただ、どうしても。
どうしても、心配してしまうのだ。

部活のこと、後輩のこと、そして進路のこと。それら全てが綯交ぜになって、一つの大きな不安になる。それを少しでも身体の外に押し出そうとして、陽は無意識に溜息を吐いていた。





「はあ……」
体育館のひんやりした分厚い扉に寄りかかった唯は、ずるずるとその場に崩れ落ちるように膝を立てて座った。漏らした深い溜息は、良く磨かれた床を運動靴が擦れる耳障りな甲高い音と歓声に掻き消えていく。四限目も半ばに差し掛かって、もうすぐ昼時だと言うのに、全く空腹を感じない。
そんなものを感じている余裕も無いほど、ただ憂鬱だった。
バスケットボールに興じているクラスメイトと審判をする教師、ステージ隣に掛けられた大きな時計を順番に眺めて、それらから逃れるように手指をジャージの中に仕舞って、端の方に縮こまって自分の頭を撫でるように腕を乗せた。別に体調が悪いわけではないが、一限目から悶々としているうちに軽い頭痛がして来て、結局この授業は見学を申し出た。
この頭痛自体はいつものことだ。何かに悩んだり考え込んだり、酷く憂鬱な気分の時によく起こる。

ふと、床に映った自分の影に、別の影が落ちてきた。
同時に、耳馴染みのある声が降ってくる。
「ゆーい」
「……舜……」
鶴見つるみ舜也しゅんや。中学生の頃に出会ってから、何だかんだでずっと付き合いのある腐れ縁の友人だ。いつもは左に向かって流している前髪が、唯と似たような髪型が、汗のお陰で乱れている。そっちの方が良いぞとは言わなかったし、軽口を叩けるような精神状態でも無かった。
彼は左側だけを留めていたヘアピンを徐に外して唯に手渡すと、ちょっと持ってて、と言いながら隣に腰を下ろした。
「大丈夫そう?」
「ギリ……」
若干声が震えてしまった。それを知ってか知らずか、鶴見は身体を前に倒して唯の顔を覗き込んでくる。
頭痛それ出るの久し振りじゃね?何で?このあと新歓っつか、ライブじゃん」
「そうなんだけどさあ……」
「先輩と喧嘩した?」
「んなわけねえだろ、……自分たちが卒業したら俺一人になるから、絶対一年入れてやるって、先輩すげえ張り切ってて……」
「おー、優しいじゃん」
その鶴見の言葉に、ぐっ、と唇を引き結んだ。そうだ。陽も初も、入部した当初から優しい。他所の部の同級生から羨ましがられるくらいには、二人ともが自分のことを構い続けてくれる。お陰で学校そのものがどんなに面倒だろうが、放課後の部活を支えに遅刻もせず、仮病も使わずに通学出来ていた。これまで人生の中で、今が一番楽しくて充実しているのだと、自信を持って言える。
だから、別に。
「……別に俺は、このままで良いのに」
「唯が一人になるのが嫌なんだろ、先輩はさ」
「知ってるよ!でも、……でも、新しい奴が入ってきたら、そいつが凄かったら?俺は」
「……お前、まだ言ってないの?色々」
「言えるかよこんなの、面倒臭いし、重いだろ、……」
限界まで畳んだ自らの足と、爪先を見つめた。段々と視界がぼやける。
頭が痛い。
暫くの沈黙が二人の間を流れて、やがて、鶴見の呆れたような溜息が聞こえた。
「御子柴先輩と香西先輩が、お前のそれ聞いて引くような人たちだと思う?」
目を見開いた時に、一筋だけ涙が落ちた。勢い良く顔を上げて隣を見る。
「そんなこと、絶対な──」
「鶴見!次お前の番だぞ!」
言いかけた瞬間、教師が大声で鶴見を呼んだ。彼はそれに同じくらいの声量で返事をすると、ジャージの上着を脱いで唯に被せて立ち上がり、こちらを指差してこう言った。
「お前、それ、治んなかったら飯食って薬飲めよ」
唯がそれに返事をするよりも前に、鶴見は教師の元へと駆けて行った。その背中を呆然と眺めて、本日何回目かの笛の音を合図に、自らの膝に顔を埋める。握り締めた手のひらに、爪が刺さって痛かった。強く強く噛んだ唇から血が滲んで、口の中に不快な鉄の味が広がる。
鶴見に言われた言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
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