オーバードライブ・ユア・ソング

津田ぴぴ子

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本編

第三十四話

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机の上で何かが振動する音で、陽は飛び起きた。随分長い時間寝入っていたような気がする。身を起こして周囲を見渡すと、惺の手元に置かれた携帯に着信が入っていた。陽が惺の肩を揺すって起こしたのと同時に、初も目を擦りながら顔を上げる。惺は寝起きの険しい顔で何度も瞬きをしながら液晶の通話ボタンを押すと、耳に当てた。その声は、若干掠れている。
「はい、何──、…うるさいな、寝てたんだよ。オリ先輩こそ、いつ帰って、…うん、昼ご飯?篠先生の奢り?うん、……ちょっと待って、代わるわ」
惺は自らの手にした携帯を陽に差し出した。受け取った陽がおずおずとそれを耳に当てると、向こう側から車の走行音と織の声がする。
「織ちゃん先輩?」
「うん、今から昼飯買って学校に戻るから。何がいい?はーくんも」
「昼……」
時計を見ると、時刻は十五時になろうとしていた。随分と寝ていたらしい。朝から何も食べていないことを考えると一気に食欲が顔を出してくるが、時間的に昼食にするには少し遅い。家に帰った後の夕飯のことを考えると、ここは軽く済ませておくのが良いだろうか。しかし睡眠欲を満たした脳は、次は空腹を満たそうと躍起になっている。
自制心と食欲とが戦った挙句に、陽は口を開いた。
「大盛りパスタで」
「何でも良いの?」
「明太子」
「了解、はーくんは?」
その声が聞こえていたらしい初は陽から携帯を取り上げると、僕が好きそうなパン適当に三つくらいお願いします、と言った。電話の向こうから織の笑い声がする。それを聞いた陽は、結局食欲には抗えないのだと内心苦笑した。
初は二言三言織と話すと、惺に携帯を戻す。
「おれもパスタにするよ、普通のやつね。……うん、第二視聴覚室にいる。はーい」
「鍵開けときますね」
「うん、ありがとね」
通話終了ボタンを押した惺は扉に向かって歩き出した初に返事をして、再び携帯を机の上に置いた。安心したように溜息を吐いて、目一杯伸びをする惺の長袖のカーディガンから、白い絆創膏が覗いた。



織と篠が帰ってきたのは、それから三十分と少し後。六限目終了のチャイムが鳴った頃だった。比較的大きなコンビニの袋を提げた織が第二視聴覚室の扉を開けて、その後ろを幾分疲れた様子の篠がついてくる。ただでさえ猫背の背中を余計に丸めて、ふらふらとゾンビのように歩いていた。篠はそのまま出しっ放しにされていたパイプ椅子に座ると、深々と溜息を吐く。
「一生分動いた……」
「篠ちゃん先生、何してきたの」
「それはこれから話すよ」
その陽の問いに応えたのは篠では無く織だった。
彼は買ってきた弁当類を配分し終えると、陽の正面に座る。

織が篠に連れられて向かった先は、篠の大叔母の家だった。大叔母の家は隣県の山の中にあり、車で二時間ほど掛かる。
大叔母は篠の母と同じかそれ以上の霊感持ちで、心霊現象に困っている人の相談を受けたり、お祓いや浄霊をしたりしているのだと言う。大叔母は盲目で遠出が難しい。その為に織とは、彼が幼い頃に親戚の集まりで数回会ったことがあるのみだった。しかし織の両親が死んでからと言うもの、彼女は織のことを酷く気にかけていたと言う。

篠が大叔母に電話を掛けてざっくりとした事情を話すと、彼女はすぐに織を自分の家に連れて来るように言った。見てもらいに行くとは、そういう意味合いだったらしい。織本人は大叔母のことはあまり覚えていなかったが、彼女がそういう仕事をしているらしい、と言う話は知っていた。

家に着いて畳敷きの大広間に通されるなり、大叔母は織を叱り飛ばした。杉内家に伝わる呪術は紛れもなく本物で、親族の霊をこの世に引き摺り戻して呪いを成就させるものだと言う。織の両親の場合は初めからあの家と織に取り憑いていたような状態だから、迎えに来るまでの時間がずっとずっと早くなってしまったのだろうと言った。

大叔母は小さなコップに注がれた透明な液体を差し出し、飲むように言った。
促されるままそれを口に含むと、酒の味が広がって思わず吐き戻しそうになる。日本酒独特の苦さに苦心しつつも飲みきって、数分の沈黙が続いた。
大叔母は心底不思議そうに、具合は悪くないか、我慢などしなくていい、と繰り返した。織が具合は悪くないし我慢してもない、と返すと、大叔母はぽつりと、本当にいなくなっちゃったのね、と呟いた。
見えなくなっただけでまだ憑いているのではと言う懸念から、先程の液体を飲ませたのだと大叔母は言った。何かしらの悪霊に憑かれている人間があれを飲むと、一気に体調を崩してその場に倒れ込んでしまうらしい。
どうやら、織に憑いていた両親は完全に消えてしまったようだ。
それから織が大叔母に四階のことと惺のことを話すと、大叔母は納得したように頷いて、優しく微笑んでこう言ったと言う。
「御両親の連れて行きたいって言う念より、そのお友達の、あなたに生きていて欲しいって気持ちの方がずっと、…ずっと強かったんだわ。何だかんだと言ってもね、生きている人間が一番強いのよ。確かな意思さえあればね」
胸を撫で下ろしながらそう言った大叔母は、横で話を聞いていた篠に向き直って今後のことについて話し始めた。織も惺も、念のためにもうあの家には入らない方がいいと言う。出来れば最低限の荷物以外は置いて、さっさと引っ越してしまうのが良い、と彼女は言った。それを聞くなり、篠は戸惑う織を置いて外へ出ていった。
沈黙に耐え兼ねて思わず俯いた織に、大叔母が再び口を開く。
「一緒に地獄へ、なんて、……そんなこと言ってくれる人、そうそう現れるもんじゃないわ。──織ちゃん、あなた、そのお友達のこと、後生大事になさいね」
四階でのことを思い返した織がその言葉に頷くと、大叔母は満足げに目を細めた。その頬には静かに涙が伝って、その雫が上等そうな着物に落ちて、消えた。
「ああ、懐かしいわね。あの人が、私にくれたプロポーズの言葉と、同じよ」
やがて大きな足音を立てて戻って来た篠は、織と惺の引っ越し先が決まったことを告げた。篠の知り合いの不動産屋が管轄している賃貸マンションに空きがあって、そこを紹介されたらしい。色々と買い揃えなければならないものはあるが、それを差し引けばすぐにでも住めるとのことだった。事故物件と言う訳でも無く、最寄りの駅から少し遠いと言う理由で家賃もそこまで高くない。

何かあったらすぐに連絡をしろと言う大叔母と別れて、篠はまず織の家へ最低限の私物を取りに向かった。楽器類は全て学校に置いてあるために、持ち出さなければならないのは充電器や冬の制服、教科書や参考書、ノートなどの勉強絡みの物品程度だったと言う。制服以外の服や下着は、後で買えばいいと言う話になった。
篠が荷物を取りに行っている数分、織はずっと車の中で待っていた。戻って来た篠曰く、家の中はかつての印象よりも随分と澄んでいるように感じられたらしい。あの家は後日、大叔母の伝でお祓いを行った後に解体されると言う。
その後大型の家具店で適当な寝具とカーテンを買い、不動産屋と共にアパートの場所と部屋を確認して契約し、買ったものを運び込む、といった一連の流れを経て、こうして学校に戻ってきたと言う訳だ。ほぼ一日中運転と保護者として各所への連絡に追われていたらしい篠が、パイプ椅子の上でぐったりと倒れるように仰向けになっている。
ふと立ち上がった惺が、篠の顔を覗き込んだ。
「……ありがとうございます、色々。…すいませんでした」
「おう、良いよ良いよ。それが大人の仕事ってやつだ」
笑った篠が惺の頭を撫でるのを眺めていた陽が、勢い良く手を上げて口を開いた。
「あの!その、新しい家──マンションって、どこなんすか?」
「新豊永だよ」
「新豊永!?」
織の答えに、陽と初が揃って声を上げる。
飛び立つ鳥の羽音とチャイムの音が、殆ど同時に耳に飛び込んできた。

新豊永駅から徒歩二十五分ほどの場所に、その賃貸マンションは位置している。築五年前後の三階建て、1LDKで風呂とトイレは別。単身者用に設計されたためにそこまで広い部屋ではないが、ルームシェアでも特に問題は無いと言う。近所に小学校とファミリーマンション、大きめの公園があるために昼間はずっと子供の声がしている。そのことと駅までの距離を気にしなければ、非常に良い部屋だと思いますよ、心理的瑕疵も特にありませんし。と、篠の知り合いだと言う不動産屋は人の良さそうな笑みを浮かべて言った。織と篠とで部屋を見に行ったが、日当たりもそこまで悪く無く、綺麗な部屋だったと言う。
入居に伴う審査などは、不動産屋の方でかなり融通を利かせてくれるようだ。
「そういうのの契約とかって、結構時間掛かるもんなんじゃないんですか?未成年ですし」
メロンパンを飲み込んだ初が篠に向かって問い掛けると、彼はようやっと起き上がってこう言った。
「うん、本当は一週間とか掛かるんだけどな。めっちゃ急いでる、出来ればすぐが良い、何かあったら全部俺が責任取るからって言ったんだよ。そしたら、ほっちゃんがそこまで言うならって、超頑張ってくれた」
「ほっちゃん?」
その不動産屋は篠とは同級生で、同じ高校と大学に通った親友のような間柄の人間なのだと言う。篠の普段の性格を知っている彼はその真剣な様子に大層驚き、ほっちゃんの頼みだからだぞ、と念押ししながら今回の契約を進めてくれたと言う。
「ま、俺の人望だよ、人望。だからなあ織ちゃん、和泉も、くれぐれも仲良く平和に暮らしてくれよ。じゃないと俺の首もあいつの首も無事じゃ済まないから」
な、と笑った篠は立ち上がって織と惺の頭をぽんぽんと軽く叩くと、手を振りながら第二視聴覚室を出て行く。相変わらず小汚い白衣が、閉まる扉の隙間でひらひらと揺れていた。
「そういう訳で、俺と惺は今日から新豊永に帰ります」
織はついでに新しく購入したと言う斜め掛けのスポーツバッグから茶封筒を取り出すと、その中身を惺に手渡した。惺の手の中で、銀色の鍵が蛍光灯の光を反射している。彼はそれを握りしめてひとつだけ頷いて、先輩、と織を呼んだ。
「これから一緒に住むってことですよね」
「うん、そうよ。今までと似たようなもんでしょ」
「違いますよ、全然。……全然、違う、…」
織の言葉に、惺は静かに首を横に振った。
彼にとって織の家は、突き詰めてしまえばあくまでも雨風を凌ぎ、色々なしがらみから逃れるための避難所で、本当の家では無かった。結局惺の家は父がいる団地だった。
しかし今日からは違う。同じ家に「帰る」と言う表現を正しく使えるようになる。
暴力も罵倒もない家に、やっと帰ることが出来る。
「よろしくお願いしますね」
「……うん、こちらこそ」
ふわりと微笑んだ惺の頭を撫でて、織も笑った。ふと、彼が初と陽の方を見る。
「どうしたの、全然喋んないね」
「いやあ、邪魔しちゃ悪いなって」
陽の返答に初が頷いて、泣きそうになっちゃいました、と目尻を指で拭った。どうもこの間から初の涙腺は緩くなっているらしい。自分の為にもそのくらい泣いたらいいのに、と陽は思ったが、口には出さなかった。
コンビニ弁当や菓子パンのゴミを袋に纏めて、惺がそれをゴミ箱に突っ込む。

いつの間にか時計は五時半を過ぎて、完全下校時刻を知らせる童謡が響き渡った。陽が立ち上がって黒いカーテンを開けると、予想よりもずっと明るい空が視界を覆う。
「陽、」
帰るよ、と言う初の声に返事をして、陽はリュックの肩ベルトを掴んだ。空っぽの背中が、いやに軽い肩が妙に寂しく感じて、陽は家に置き去りにされたギターのことを考えていた。
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