オーバードライブ・ユア・ソング

津田ぴぴ子

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本編

第一話

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土砂降りの雨の中、御子柴みこしばみなみは傘も差さずに立ち呆けていた。
周囲は鬱蒼とした木々で濁ったように薄暗く、うねうねとした獣道がどこまでも伸びる様が、生き物の内臓のようで気持ちが悪い。
雨を吸ったシャツがぺったり肌に張り付いて、水溜まりを踏み抜いたスニーカーは少し身動ぐだけでぐちゃぐちゃと不快な音を立てる。髪の先から落ちる雨粒をぼんやりと眺めて、ふと顔を上げた。

声が聞こえる。

辺りを見渡すが、それらしい人影はどこにも見えなかった。そうしている間にも声はどんどん大きくなっていくが、何を言っているのかは全く聞き取れない。泣いているようにも、笑っているようにも取れるその声色が、たまらなく不気味だ。
ゆっくりと起き上がってくるえも言われぬ焦燥感を逃そうと真上を向いて、硬直してしまった。

首に縄をかけて木にぶら下がった兄が、こちらをじっと見下ろしている。

空っぽの眼窩は薄く細められて、赤黒い血とも粘液ともつかない液体を垂れ流していた。それを伝うように黄色い蛆がうぞうぞと這い出てくる。ささくれ立った縄が目一杯食い込んで、紫色に変色してありえないほど伸び切った首が、今にも千切れてしまいそうだった。
だらりと垂れた手足は所々が服ごと食われたかのように欠けていて、腐り切った断面から白い骨が見える。すっかり血の気の失せた土色の唇がもぞもぞと動き、どう見ても潰れた喉で延々何事かを話し続けていた。先程から聞こえていた声は兄のもので、彼はずっと、真上から自分を見ていたのだ。
恐怖で足が竦んで、上手く呼吸が出来なくなる。臓器と言う臓器が鉛になってしまったのかと錯覚するほど身体が重い。理性の方はもう見たくないと悲鳴をあげているのに、瞬きのひとつすら出来なくなっていた。浅く小刻みになった呼吸の隙間に無理矢理捩じ込むようにして、兄ちゃん、と呼ぶ。それに反応した兄は、真っ直ぐ自分の方を見た。

そしてはっきりと、ごめんな、と言った。


「お兄ちゃん!」
鼓膜を突き抜けるような甲高い声で飛び起きた。腹の上に目をやると、今年六つになる弟のそらがにこにこ笑いながら馬乗りになっている。昊の茶色がかった癖のある髪に春の柔らかい日光が反射して、陽は思わず目を細めた。昊に抱かれた飼い猫のふくは至極迷惑そうな顔をして、昊の顔を前足で押し退けようと躍起になっている。
「昊、あんまぎゅってすんな。苦しいってさ」
「でもふくちゃん、お兄ちゃんの顔踏ん付けてたよ」
「えー全然わかんなかった」
オレンジ色の虎模様を少し撫でてやると、心地の良い温かさが陽の右手を覆った。ふくの赤い首輪についた控えめな鈴が、小気味の良い音を立てて揺れている。
本格的に暴れ始めたふくを離してベッドを下りた昊が、思い出したようにこちらを見て首を傾げた。
「あのね、お兄ちゃん」
「何?」
「時間、だいじょうぶ?」
「時間?」
その言葉に、枕元の携帯を確認する。液晶は腹を出して寝ているふくと、今日の日付、そして朝の六時二十分を表示した。頭からすうっと血の気が引き、時間の流れが止まる。

数日前から高校生になって、生活のリズムが多少変わった。中学校は同じ町内にあって、徒歩二十分、走ればもっと早くに到着することが出来ていた。が、陽が進学した私立菖蒲ヶ崎あやめがさき高校までは電車で通わなければならず、また高校のある町がそこそこ田舎であるお陰で、最寄りのあやめヶ崎駅に停まる路線の運行本数は凡そ一時間に一本となってしまう。陽の家の最寄り駅である新豊永しんとよえ駅までは十分ほど歩けば着くが、始業時間に間に合うようにともなると、中学の頃より一時間ほど早く起きなければならない。
いつもの起床時間は六時で、家を出るのは七時前だ。
「やばい!」
一瞬の間を置いて、下半身を覆っていた布団を跳ね除けた。勢いのままに階段を駆け下りて、脱衣所に突進する。手早く水で顔を洗って、色素が薄く、若干茶色がかったゆるい癖毛を手櫛で雑に整えた。跳ねた水が寝巻きの黒いパーカーに染みていく。遠くから母の声が呼んでいる。それを追いかけるように、タオルで顔を拭きながらリビングの扉を開けた。
「おはよう!」
「はいおはよう、やっと起きたの?あんた何回起こしても起きないんだもの」
「はは、昊に乗られてやっと起きたのか?」
母は呆れ顔で、いつの間にか下りてきた昊の服を準備している。朝食途中の父は新聞に落としていた視線を上げて、笑いながら手元のコーヒーを啜った。キッチンのカウンターに、ラップに包まれたおにぎりが二個置いてある。時間通りに起きて来ない陽にと、母が用意してくれたものだ。
「電車の中とか学校で食べなね」
「中身何?」
「鮭と梅干し!」
「えー俺ツナマヨが良かった!」
「贅沢言ってないで早く準備しなさい!」
母の迫力に欠ける怒声の後ろで、昊がけらけら笑っている。
その時、点けっ放しのテレビに映る女性アナウンサーが、自殺のニュースを読み上げ始めた。若い女が電車に飛び込んだらしい。こうして全国ニュースになるのは珍しいな、と思った。自殺大国と揶揄される国であるから、さほど珍しいことではない。しかし、母はそういうニュースを見るたびに、泣きそうな顔で聞き入るのだ。それに気付いた父が、労るように母を呼ぶ。
「お母さん、はるは大丈夫だから」
「……本当、どこにいるの」
夢の内容を思い出して、陽は少しだけ視線を落とした。どうしてあんな夢を見てしまったのかと、自己嫌悪に苛まれる。

兄、御子柴晴が失踪したのは、一昨年の冬のことだった。当時陽は中学二年生で、晴は高校三年生。高校卒業を目前にして、大学に進学すると言っていた。特に変わった様子は無かった。いつものように家を出て、帰って来なかった。
捜索願が出された後は、少なくない人数の捜査員が動員されていたように思う。警察犬も出てきたが、手掛かりのひとつも見つけることが出来なかった。最後に目撃されたのは学校の中で、それ以降の足取りは掴めていない。捜索は今も続けられているらしいが、発見に繋がるような話は聞こえて来なかった。

陽が最後に晴と話したのは失踪する前日の朝だった。いつもより早く家を出る晴を、寝惚け眼で見送ったことを覚えている。
その週末にギターを教わる約束をしていて、少しだけそれについての話をした。約束だよ、と陽が言うと、晴はわかったよと返して、陽の頭を撫でた。
そして、こう言ったのだ。
「ごめんな」
その言葉が陽の脳味噌を一周する頃には、玄関の扉は閉まっていた。約束のことについてはわかったと言っていたから、そのことではないだろう。だとしたら何のことなのかと首を捻ったが、帰ってきたら聞けば良いやと思っていた。
まさか帰って来ないなんて、考えもしなかった。

両親は血眼になって晴を探した。ビラを貼ったり通行人に配ったりしていたし、インターネットに書き込んで情報を集めたりもしていた。だが警察の捜索と同じように、どれも大した成果を齎さなかった。夜中リビングに行くと、母が泣いていたことが何度もある。
当時弟の昊はまだ小さく、陽も受験を控えていると言うこともあって、両親は二人の前では何でもない風に振る舞っていた。それは今も変わらない。
だからこそ、最後の日に晴から言われたことについては、両親には言えなかった。
晴の部屋も、食器類も、歯ブラシも、まだそのまま残されている。

インターホンの音で我に返った。自殺のニュースはとっくに終わって、楽しげな音楽をバックに料理コーナーが始まっている。母がキッチンの横についている受話器を取って、耳に当てた。
「はあい、どちら様……ああ!おはようはじめちゃん!いつもありがとね、陽まだ着替えてないから、入って入って!」
初ちゃん、と言う名前を聞いた瞬間、陽は自分が寝坊していることを思い出した。玄関に小走りで向かう母の後ろを昊が付いていく。
カウンターの上の朝食を手に取って、リビングを出た。玄関先に人影を見とめる。

母と昊を相手に談笑している幼馴染の香西かさい初の家は、陽の家のすぐ隣に位置している二世帯住宅のうちの一戸だ。彼の家は祖父の代から香西外科病院と言う個人病院を営んでいて、陽も数回世話になっている。地域に根差した個人病院で、評判は上々だ。

初は切り揃えられた前髪の奥から陽を見ると、ひらひらと手を振った。それに合わせて、左側だけ少し長い横髪が揺れている。アシンメトリーと言う髪型なのだと、雑誌に書かれていた。
「また寝坊?」
「そんな感じ!」
階段を駆け上がり、自室に飛び込んだ。朝食をリュックに押し込んでからクローゼットを開ける。いつも制服のブレザーを引っ掛けている場所が少し高い箇所にあるために、半ば飛び上がるようにしてハンガーを取った。着地と同時にハンガーから制服を剥いで、脱いだパーカーをベッドへ放り投げる。
シャツは水色と白から好きな方を選べたので、何となく水色にした。これは学校指定では無く、色味が似ていれば何でも良いらしい。紺色のネクタイを少し手間取りながら結んだ。
菖蒲ヶ崎高校は学年によってタイと内履きの色が異なる。ローテーション式で、卒業した三年生の色が新一年生の色になる、と言った具合だ。中学は学ランだったので、ネクタイにはまだ慣れない。ジャケットは黒と言うには薄くグレーと言うには濃い色で、スラックスはグレー。女子のスカートも同じ色味だ。高校の制服にしては、地味な部類に入るだろうと思う。
兄と同じ制服だ。
リュックのファスナーを閉めて、勢いをつけて背負った。部屋を飛び出して、玄関へ向かう。リビングの前を通りかかった時、扉の隙間から父が顔を出した。
「陽、弁当!」
「ありがと!」
慌てるあまり昼食のことを失念していた。差し出された弁当箱を受け取って、玄関に屈み込む。
母は昊を抱き上げて、初と世間話を続けていた。やれ最近は物騒だの、天気が不安定だの、主婦の井戸端会議のような話題が頭上からマシンガンのように降ってくる。初は母のそれに愛想良く相槌を打っていて、本当によく出来た人間だと感心した。
スニーカーの紐を結び終えた陽は勢い良く立ち上がって、母を制止した。
「行ってくる!」
「行ってらっしゃい、遅くなる時は連絡頂戴ね」
「わかったってば」
「じゃあね、昊くん」
「初ちゃんまたね!」
鞄を肩に掛け直した初に、昊が手を振る。本当に、兄である自分よりも初の方に懐いているのではないかというほどだ。
妙に面白くない。
「昊、初さん!だろ」
「えー?」
「はは、いいよ何でも。……じゃあ、お邪魔しました」
陽の心境などつゆ知らず、初は昊の頭を撫でながら母に会釈した。それを追い抜くようにして、玄関扉を開けて外へ出る。
いっそ憎たらしいほど晴れた空を僅かに睨んで、爪先をアスファルトに数度打ち付けてから、陽と初は駅の方へと歩き出した。
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